にあったのだろうか。
大体、この「国境」を「
こっきょう」と読むのか「
くにざかい」と読むのかについては議論があるはずで、この本では、「
くにざけゃあ」つまり「くにざかい」としているが、斎藤氏は『
声に出して読みたい日本語』の方で、「こっきょう」だったルビを後の版で「くにざかい」に直した、という話もある。
「こっきょう」「くにざかい」については、ググると山ほど出てくるし、
飯間 浩明氏の『
遊ぶ日本語 不思議な日本語』に詳しい。
音読して、あるいはそれを聞いてわかりやすい、美しく聞こえる文章は、字で読んでもわかりやすい、というのは、音は一過性のもので戻れないから理屈に合っていると思うのだが、世の中の美文・名文のすべてが、音読を念頭においているとは限らない、ということは言える。
ルビとして、その単語が本来持っているのではない読み方をつける――たとえば、「恋人」を「ダーリン」と読ませるような文章は、現在にしろ、明治期にしろ少なくないわけだが、そういうのは、ルビとルビを振られた単語の意味のずれと重なりを味わいとする、という意図がある。つまり、字面がオミットされてしまう以上、音読しての鑑賞は少なくとも二の次だ、ということが言える。
音読の魅力を否定するつもりはないが、もともとの作品がそれを対象としているかどうか、については吟味が必要なのではないか。
そういう意味では、『八郎』なんかはそもそもが民話、つまり子供に読み聞かせることが念頭にある作品で、最初から原文に秋田弁が入っている。本当に方言そのものののパワーを紹介するつもりなのであれば、軸足はそちらに置くべきだったのではないか。
最大の疑問は、斎藤氏がそれにつけたコメントである。