Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第386夜

たとえば、赤の金の力



 風邪引いて寝込んでいた。いやぁ、今回は辛かった。まだ全快してないんだが。
 俺の場合、寝込むほどの風邪を引くと、寝てる間に何度も、おそらく 1 時間に 1 回くらいの頻度で目がさめるんだが、それが 5 日続いた。これがなんたって辛い。痰が絡んで咳は出るし、鼻は詰まるし。
 鼻詰まりを抑える点鼻薬を寝しなにシュっとやるんだが、きちんと 4 時間後に切れて、息苦しさに目がさめる。確かに効いてたんだねぇ、と再確認しつつ、もう一度、シュ。
 仕事を休んだのは 1 日だけ。派遣組は、仕事の質より量が問題なので、休んだらどこかで残業してリカバらなければならないのである。そうそう休めない。しかし、休んだ日は、10 時頃に起きだして、医者行って、飯食って、昼寝して、汗かいた諸々の洗濯はしなきゃならんが、晩飯食って、寝る、と、単に生きてるだけ、それはそれで夢のような一日であった。

 そんな中、斎藤孝氏の『声に出して読みたい方言』を読んだ。
 さまざまな文学作品を各地の方言に訳して、字にしただけではなく、音声 CD もつけた、というもの。

 全く、IT 技術の進歩様様である。
 前にも、ソノシートやカセットテープを付録につけた本はあったが、ここまで普及はしなかった。
 ソノシートというと小学館の学習雑誌の付録という印象があるが、あれが今イチだったのは、やはり耐久性に問題があったからだろうか。カセットは場所を食うからであろう。どうがんばったって厚さ 1cm を切ることは不可能なわけで。*1
 が、しかし、送り手側の都合だろ? と言ってみたい。カセットの複製は時間がかかる。業務用の機械があるにしても、家庭でカセットをダビングするのと基本的には同じなのだ。
 それに対して CD は、おそらくソノシートもだと思うが、印刷と同じ原理で製造できる。パソコン雑誌の付録がフロッピーディスクから CD に移行したのは、容量の問題もあるだろうが、コストの問題が大きい。たしか、FD よりも CD の方が安かったはずだ。

 さて、その本だが。
 まっさきに思ったのは、風邪が治ってから読むべきだった、ということ。
 方言を字で読むのはエラく疲れる作業なのだ。それがまして、自分になじみのない方言だった場合は。
 斎藤孝本人は、「体のモードチェンジ」というようなことを何度も書いているが、まさにそれで、「俺はこれから土佐弁の土佐日記を読むぞ!」と気合一発かけてからでないと読めない。白状するが、ほとんどの話は、最初の数ページだけの拾い読みになってしまった。
 辛うじて、伊奈かっぺい氏の弁天小僧菊之助の口上や、浅利香津代氏の『八郎』は読み通した。これは、話の内容も、言葉自体も解説不要だからだ。や、『八郎』をきちんと読んだのはこれが初めてだったが。

 あと、小松の親分さんの博多にわか。これは、話が面白おかしいものだからということと、一つ一つが短いから、ということがある。
 いろんなところで「にわか」は見聞きしているが、オチ自体は、かならずしも博多弁絡みでなくてもいい。たとえば:
 初詣で今年の税金の安うなりますことをてお願いしたら、
 神主さんがごへいば持って出てきて

どげん言わっしゃったとや
はらいたまへ
 これはつまり、「方言」というのが、その地域に特有の事象だけを指すのではない、ということであろう。その地域で観察される言語現象のすべてを言う、ということだ。

 ところで、各方言訳はその内容を正確に伝えているのだろうか、という疑問をもった。たとえば、名古屋弁の『雪国』。
国境の長あトンネルをくぐるとよー、まあひゃあそこが雪国だったでかんわ。
 この「かんわ」が担う、驚きというか、あるいは諧謔味というのは、原文の
国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。
 にあったのだろうか。
 大体、この「国境」を「こっきょう」と読むのか「くにざかい」と読むのかについては議論があるはずで、この本では、「くにざけゃあ」つまり「くにざかい」としているが、斎藤氏は『声に出して読みたい日本語』の方で、「こっきょう」だったルビを後の版で「くにざかい」に直した、という話もある。
「こっきょう」「くにざかい」については、ググると山ほど出てくるし、飯間 浩明氏の『遊ぶ日本語 不思議な日本語』に詳しい。

 音読して、あるいはそれを聞いてわかりやすい、美しく聞こえる文章は、字で読んでもわかりやすい、というのは、音は一過性のもので戻れないから理屈に合っていると思うのだが、世の中の美文・名文のすべてが、音読を念頭においているとは限らない、ということは言える。
 ルビとして、その単語が本来持っているのではない読み方をつける――たとえば、「恋人」を「ダーリン」と読ませるような文章は、現在にしろ、明治期にしろ少なくないわけだが、そういうのは、ルビとルビを振られた単語の意味のずれと重なりを味わいとする、という意図がある。つまり、字面がオミットされてしまう以上、音読しての鑑賞は少なくとも二の次だ、ということが言える。
 音読の魅力を否定するつもりはないが、もともとの作品がそれを対象としているかどうか、については吟味が必要なのではないか。
 そういう意味では、『八郎』なんかはそもそもが民話、つまり子供に読み聞かせることが念頭にある作品で、最初から原文に秋田弁が入っている。本当に方言そのものののパワーを紹介するつもりなのであれば、軸足はそちらに置くべきだったのではないか。

 最大の疑問は、斎藤氏がそれにつけたコメントである。
浅利さんに寄れば、同じ秋田県でも地域によって秋田弁が異なるそうだ。
 別に秋田だけが特殊だというわけではない。方言話者にとっては、それはあたりまえのことだ。
 さては、この人、東京生まれ東京育ちで、自分の言葉遣いイコール標準語だと思ってる種類の人間か? と思ったが、冒頭に、静岡出身だ、とある。高校を卒業するまで静岡在住だったというではないか。
 静岡といえば、東西の幅が、秋田の南北に匹敵するくらい、意外に長い県で、神奈川よりと愛知よりとでは言葉遣いも相当に違うはずなのだが。
 あるいは斎藤氏、あまり静岡弁は使わず、ずっと全国共通語という言語生活だったのだろうか。だとすると、方言に対する手放しの礼賛と、でも自分のものじゃないの、という客観的な言い方にも説明がつくのだが。

 というわけで、頭もボーっとしてるのに考え込んでしまった。パワーが欲しい。





*1
 確か、カセットの中のテープとリールだけを交換できるようにして、実質的に小型化しようとした、という商品はあったはずである。その後、聞かないところを見ると廃れてしまったのだろうが。俺も、切ったり貼ったりするので実感として分るが、あれだけを扱うのはやっぱり大変である。(
)





"Speak about Speech" のページに戻る
ホームページに戻る

第387夜「県北再び」へ

shuno@sam.hi-ho.ne.jp