Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第382夜

沙翁とは俺のことかと



 こういうことを言うと「けっ、かっこつけやがって」と思われるかもしれないが、シェークスピアって面白いと思う。
 シェークスピア初体験は映画の『ロミオとジュリエット』。そう、オリビア・ハッセーの奴。外国人の女優で、いいなぁ、と思ったのはこの人が最初。
 確か高校生の頃で、昼にテレビでやっていたのを見た、という記憶がある。土曜日だったのか、長期休み中だったのか。カネボウの CM (『君は薔薇より美しい』の) よりは後かなぁ。その辺は曖昧。
 大まかな筋は知ってたが、あれがほんの数日の間の出来事だった、というのに驚いた。

 その頃って、どういうわけか頻繁に映画をやっていた、という記憶がある。
 金曜とか土曜とかの夜も勿論あったが、『オズの魔法使い』とか『コンドル』は昼に見てるなぁ。
 最近、ドタバタバラエティ番組の再放送をやってることがあるが、そんなのより映画やってくれよ。

 大学の講義で、『マクベス』と『オセロー』を読んだ。勿論、英語。『ロミオとジュリエット』もあったかな。
 なんというか、話の運び方が巧みなので、日本語訳ならすいすい読める。英語だって、確かに 17 世紀の英語ではあるが、現代の日本語とその頃 (江戸時代初期) の日本語ほどかけ離れてないので、高校英語をマスターしていれば、辞書を片手のスローペースではあっても、筋を追うのに不自由はしない。尤も、洒落などの言葉遊びを理解するのは、そもそも、そういうものの理解には膨大な背景知識が必要なので、かなり難しいが。*1

 そういやあのころ (80 年代半ば) NHK 教育で、BBC 製作のシェークスピアの芝居を全部やってたなぁ。結局、講義の絡みで『マクベス』しか見なかったけど。

 なんで急にシェークスピアかっつーと、そういった外国の古典を方言で上演する、という試みが最近、増えてきているからだ。
 近いところでは、チェーホフの『プロポーズ』。これを秋田弁でやっている。
 孫引きで筋を紹介すると、隣家からのプロポーズに始まる縁談がいつのまにか土地の境界線を巡るいさかいになり、というコメディだそうだ。

 思うに、これが秋田弁劇として成立したのは、コメディだからではないか。
 方言の使われない場所で方言が現れた場合、一般的な反応として、当惑のほかに、笑いが起こる。笑われて傷つくことは少なくないが、双方共に了解済みであれば、それは芸になりうる。実際、そういう芸人は多い。
 この『ぷろぽーず』のように、コメディですよ、笑ってください、という前提条件があれば、それと方言の使用とが相乗効果を発揮するだろう、ということは想像できる。
 また、土地の争い、といういかにも実生活にありそうな感じも一役買っているだろう。
 これが逆に、悲劇だったらどうか。実生活に近いだけ、救いのないことになってしまうのではないか、という気がする。あるいは、舞台で方言が使われることに対する当惑から逃れることができず、どっちつかずになってしまったりはしないか。

 住民お手製の、方言芝居や方言ミュージカルというのも多い。
 この場合、芸術性というよりは、参加者と観賞者の一体性とか、地域自体の盛り上がりとかの方が重要だろうから、やはりハッピーエンドだ。
 悲劇の方が難しい、ということも言えると思うが。*2
 いずれこの場合、方言は手段である、ということだ。

 シェークスピアを東北弁で、という試みは、長らくシェイクスピア・カンパニーが続けている。
 主宰者の下館氏によれば、標準語訳のシェークスピアはどうにも「いずい」のだそうで、芝居が娯楽で、時に猥雑なものであるという前提に立てば、気取った標準語というのに居心地の悪さを感じる感覚はわかる。読んでなくて、阿刀田高氏の『シェイクスピアを楽しむために』から借りるのだが、『ウィンザーの陽気な女房たち』なんてのは人妻を二股かけようとしてとっちめられるコメディで、それを「クラシックの古典でございます」って気取ったってさぁ、というのは確かにそうだろう。
 上に書いた「悲劇の救いのなさ」も、標準語という外国語でやるのより強調されるかもしれない。

 逆を行くのが、例えば宝塚であろう。あれは、浮世の憂さを忘れるために、できるかぎり非現実的なところを狙っているのだろう、と思う。インタビューとかで宝塚の俳優が方言的特徴を出すと、ものすごく違和感がある。まして、彼女たちが舞台でそういう言葉を使う、なんて想像もできまい。*3

 ネットでこの辺に関わる文章を探してみると、シェークスピア・カンパニーの芝居については賛否両論ある。やっぱり、「舞台で方言」への当惑が原因なんではないだろうか。
ぷろぽーず」については、情報がほとんどない。なさすぎ。宣伝する気ないのか、この辺の観客層とネット ユーザー層が重ならないのか。新聞とってけばよかったなぁ、と思う。

 俺個人の感覚としては、娯楽は「ぶっとんで」いて欲しい、と思う方である。だから、宝塚は、女性が男を演じようが、背中に羽つけてようが、俺としては OK なのである。*4
 だから、シェークスピアを東北方言で演っているのを見たとき、俺は当惑する方であろう、というのは想像がつく。
 見てみたい、という気はしているのだが。





*1
 英語の文章を読むときに背景知識として必要、と言われるのが聖書とシェークスピアで、時にギリシャ・ローマ神話を入れる人もいるが、それを読むには更に背景がいる、という話。げに文学は難しい。
 文学まで言わなくとも、慣用句という段階ですでにかなりの知識が必要になる。例えば、ものが壊れることをなぜ「お釈迦になる」というのか、ということを仏教の知識がない人に説明するのはかなりの手間だ。
 日本人同士でも、「ここは台所にしようかと思うんだけど」「勝手にしろ」を、今の若い人は理解できないだろう。。(
)

*2
 プロのレベルまで行けば、泣かせる方が楽で、笑わせる方が難しい、とういことだが、ド素人の場合は、多少の逸脱やミスもプラスに作用する、という意味で、喜劇の方が楽だと思われる。
 地域ものにミュージカルが多いのもその線上にあるのではないか、と思う。巧拙を別にすれば、歌は誰でも歌えるし、観賞できる。()

*3
「清く正しく美しく」は宝塚の理念である。
 いや別に、方言が美しくない、というのではなくて、それくらい俗世から離れている、ということ。
 時代物やったりしてるから、方言も使ってたりするんだろうか。 ()

*4
 たまに舞台中継やったりしてるが見ていない。はまってしまいそうな予感があるので逃げている。 ()





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