Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第378夜

十代



 1 月の末に、桂 文治が他界した。
 訃報を見てたら、「歯切れのいい」と紹介されていることが多かったのだが、そういう印象はあんまり持ってないんだなぁ。あるサイトで、「年寄りが愚痴ってる感じ」と評している人がいたが、それが割と俺のイメージに近い。

 去年の暮れから、『サライ』誌に「今日から使える 粋な『ことのは』」という連載をしていた。江戸弁について一言ある人だった。
 言葉のプロだから当然、というのは嘘で、最近は、アナウンサーや物書き、政治家など、言葉で食ってるはずの人がいい加減な (間違った、というのとは違うので注意) 言葉づかいをしている。残念ながら、桂 文治の場合が特殊、ということになってしまう。

 第 1 回は「ありがとうございました」ではじまる。
 これは、「ありがとうございます」ではないのか、という形で色々なところで話題になる。恩恵を施して貰った、という事実が過去のものである、というところに立脚すると「ました」になるわけだが、文治の言葉を借りれば「(商人は) 過去形にして、客との縁を切るのを嫌う」わけで、商店などで言われて違和感を覚えるというのは自然な感覚かもしれない。
 商売の関係ではなく、助けてもらった、というような場合は、それが常態ということはあまりないだろうし、「ご迷惑をおかけしました」との対応で、「ありがとうございました」になるのかなぁ。

 第 2 回は「向こう」。
「向こうの空き地に囲いが出来たってねぇ」「へぇ」では、「向かい」ではなく「向こう」でなければならないらしい。
『大辞泉 (増補・新装版、1998、小学館)』によれば「向こう」は
1. 正面。前方。また、前方の比較的離れた場所。
2. 物を隔てた、あちらの方。
『大辞林 (初版、1989、三省堂)』では
1. 向かい合っている正面。向かい。前方。
2. 自分からやや離れている方向・方面。
 微妙に違う。離れているかどうか、である。
 俺の語感では、「向こう」には距離感がある。通りを隔てて反対側、は「向かい」である。それを「向こう」と言うのは、人が間違って尋ねてきた、ケンカで責任のなすりあいをしているなどで、「こっちじゃない」ということを強調したいときである。
 が、文治が挙げている「向島 (むこうじま)」「向こう三軒両隣」、あるいは相撲の「向こう正面」など、江戸弁としては「向こう」であるらしい。

 最後に出てくる人のことを「トリ」と言うが、これは「給金を余分に取る人」から来た、落語界の隠語だそうである。つまり、人前で使ったり、ましてや、トリを取る人に面と向かっていっていい言葉ではない、ということになる。すると、「トリを飾る」なんて言語道断か?
 飲食店で勘定をする際の「おあいそ」も、本来は、店のほうから、「大したものも出せず、愛想もつきているかもしれませんが」と会計をお願いするときに言う言葉から来ている。客が使っていい言葉ではない。これは「正しい日本語」の人たちが口にすることが多いから、知っている人もいるかもしれないが。

 第 3 回は、八っぁん、熊さんの言葉づかい。
 文治曰く、彼らは修業を経て職人になったのであり、無知ではあるが、馬鹿ではない。したがって、常に乱暴な言葉づかいをしているわけではない。
 だが、そうやって演じないと、聞く方が「江戸」を実感できなくなっている、ということは言えるのではないか。

 急に話が特撮にふれるが、今、衛星の東映チャンネルで「超新星フラッシュマン」をやっている。1986 年の作品だが、敵方の幹部を清水 絋治氏が演じている。*1
 この演技がすごい。
 最終回の鬼気迫る演技がすごい、というのは当時でもわかったんだが、第一話も、台詞の一つ一つがすごいんである。そういう細かなところを感じとるには、見る方でもある程度の蓄積がないとだめなんだなぁ、と思った次第。

 話を文治に戻す。
「甥っこ」「姪っこ」という言い方を嫌うらしい。それは「鍋っこ」「しがっこ (氷)」など、東北弁の影響だ、という。
「甥」「姪」の方がすっきり聞こえる、とのことだが、この「子」はひょっとしたら、「可愛いくてしょうがない」という気持ちの表れかもしれない、と思う。あるいは、見下している、という感覚かもしれないが。

 飛んで第 6 回。
「色物」。
 びっくりしたのでそのまま引用する。
東京の寄席では、落語以外の演し物 (だしもの) を色物と呼びます。
 まず一点、「色物」は「東京の寄席の言葉である」。単に東京の寄席のことを書いただけで、関西では、というつもりは全くなかった、という可能性もあるが。
 次が、「落語以外」。漫才も「色物」なんだ。『大辞泉』では「落語・講談以外」、『大辞林』ではこれに義太夫も加わる。
 由来は、看板に色つきの文字で書いたから、だそうだ。

 次が最終回で、川柳。
猫の子を秤にかけてもらいしが昼と夜とで目が違うなり
 野暮を承知で解説すると、猫の「目」の大きさが昼と夜とで変わることと、「目方」の「目」とをかけてある。
 この「目」は低いアクセントかなぁ。高いほうがいいかな。
 前に、アクセントは意味の弁別にそれほど寄与しない、ということを書いているが、この場合は重要である。なぜなら、川柳というのは、小難しくないとはいえ一種の芸術だから、意味が伝わればいい、というものではないからである。

 途中、今時の日本語に対する苦言が書かれている。
 うーんやっぱり、といささか流し気味に読んでいたが、これは上の「甥っ子」にも感じられる。
 たとえば「すごいおいしい」。「すごい」は形容詞で、「おいしい」を修飾するには「すごく」でなければならない。だが、強調にかかわる表現は、それが強調であるがゆえに、目立たせるために破格な表現が生まれやすい。これはしょうがないことである。
 これを文治は「耳障り」と表現しているが、これも最近、槍玉に挙げられることが多い。「障」の字でわかる通り、これは不愉快なことを指しているのだが、「みみざわりがいい」という言い方をするからである。
 おそらく「耳触り」と書く。「手触り」からの連想であろう。
 音は「さわる」と同じなのに、それが「手」の時はプラス、「耳」や「目」(あるいは「体に」) の場合はマイナス、という一貫性のなさが原因だ。これもある程度はしょうがない。

「七代目」「九代目」をなんと読むか。
 最近、「ななだいめ」と読むことが多いが、これは「しちだいめ」である、と文治。
 ふーん、と調べてみて驚いた。「シチ」は音読みだった。
 一方、「九」の方は「キュウ」も「ク」も音読みである。訓読み、つまり、日本語としては「ここのつ」で、これは熟語には使えない。
 一応、挙げておく。
音読み訓読み「…代目」
イチひと*2
ふたニ だいめ
サンサン だいめ
よんよ だいめ
いつゴ だいめ
ロクロク だいめ
シチななシチ だいめ
ハチハチ だいめ
キュウ、クここのク だいめ
 まず言えるのは、数字の読み方を統一的に説明できるルールはない、ということである。
 例えば、1、2、3…と口に出して数えてみて欲しい。4 は、「シ」でも「よん」でも、さして違和感はないと思う。だが逆に、10、9、8…とカウントダウンしてみると、4 を「し」とは言いにくいはずだ。
 音と訓を行ったり来たりする、行けない場合もある。つまり習慣で成り立っている。別の言い方をすれば、個別に覚えるしかない。煩雑である。異なる言い方が生まれる下地がある。
 更に、放送が影響を与える。
「しち」は「いち」と似ているのである。ものが数字だから、正確に伝わらないとまずい場合がある。そのため、放送の現場では「なな」を好んで使う。これが「ななだいめ」になる理由だろう。

 以上、故人の冥福を祈りつつ。






*1
「絋」の右側は、本当は「宏」。
 なお、清水氏は、「ウルトラマン A」「シルバー仮面」「仮面ライダー アギト」などにも出演している。シェークスピアの舞台をやる人で、そういう「けれん」が特撮にマッチするのだと思われる。(
)

*2
 最初の人を「一代目」と呼ぶ人がいるが、「初代」である。
 斉藤 由貴が演じたスケバン刑事をそう呼ぶ人が多くて、なんでだろう、と思っていたのだが、スタッフがそう言っていたことが分った。グッズにそう書いてあったりするのだ。おいおい。(
)





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