ここのところ不調である。あんまり「言葉」のことを考えようという気にならない。
それはひとえに、「正しい日本語」信者のおかげである。この人たちが存在している、ということが意識に上るだけで、かなり暗澹とした気分になる。
言葉は変わる。これをまず認めてもらわないことにはしょうがない。
台風が来れば被害が出る。だからといって、「台風はけしからん」と言ったところで始まらない。乱暴な例えだが、「正しい日本語」の話って、それと同じだと思うのである。日本列島に住んでいる限り台風は避けられない (ほかに引っ越したって、サイクロンもあればハリケーンもトルネードもある) し、言葉は変わるのだ。
なぜ変わるか。
例えば、「敬語の乱れ」。
敬語がなぜ敬語たりうるかというと、敬語でない表現と違うからである。「座れ」とは異なる、「おかけください」という表現を使うから敬語なのである。
だが、「違う」という感覚はやがて麻痺する。日常的に使われて「違う」という感覚を引き起こさなくなってくると、これまでの敬語では敬意が不足しているように感じられてくる。
なので、新しい表現が登場する。これが「乱れ」と受け止められるわけだ。
これを「あいつら (「乱れた」敬語を使った人) 馬鹿だから」と表現した人間を数多く知っているが、ここに注意して欲しい、彼らは「敬意が不足しているのではないか」と思って新しい表現を編み出したのである。
逆に、自分が使っている敬語は旧態依然の磨耗した表現であって、それを使われた相手はひょっとして不快に感じていたのではないか、ということに思い至って欲しい。寧ろ、彼らのほうが鋭敏なのかもしれないのだ。
あるいは簡略化。
「おかけください」を使うには、これが「座れ」の敬意表現であることを覚えなければならない。覚えてしまっている人は、「覚えろ」と言うだろうが、英単語の不規則活用を暗記できない人には、それを言う資格はない。同じ内容のことを表現するのに、外見上、全く関連のない (「掛ける」という字面から「座る」という意味は引き出せないし、それを理解するには、「腰を掛ける」という表現を知っていなければならない) 複数の用法を覚えなければならない、というのはとてつもなくコストのかかることなのである。
なので、汎用性の高い「お〜ください」という形式を適用して「お座りください」と言う。文法的に間違ってない。違和感がないこともないが、それは「おかけください」の存在を知っているからである。「お書きください」「ご来場ください」がよくて「お座りください」が「間違い」であることの説明は不可能だ。
変化にはちゃんとした理由があるのだ。
「正しい日本語」信者は、文法には自信を持っている。
では、アクセントは。
イントネーションは。
発音は。
そもそも、その文法は「正しい」のか。
*1
知識は。理解は独り善がりではないか。
例えば、「会社に行っ〜た/てない」のように、最後まで聞かないと「した」のか「しなかった」のかわからないから、日本語は曖昧だ、という人は今でもいる。
*2
では訊くが、最後まで聞かないと、どこに行ったのかわからない英語は曖昧ではないのか。
「正しい日本語」信者は、自分が「正しい日本語」を使っている、という自信があるのだろうか。先人から伝えられた日本語を間違いなく再現しているか?
「全然おいしい」というような、「全然」に肯定表現が続く形式はよく指弾される。これが、大昔は正しい表現で、一旦、「全然」+否定表現が正しい、という形に変化したのだ、ということは前にも書いた。
では「とても」はどうか。「とてもおいしい」「とても美しい」。違和感を覚える人はそうは多くないはずだ。
*3
だが、これはどうか。
そう。「とても」は本来、後ろに否定表現を要求する語なのである。
気づかないのは気づかないでいいが、それとは別に、「とてもおいしい」を使う人は全て「正しい日本語」信者であることを返上しなければならない。
なぜか。
自分が関与してきた (あるいは自分よりも前の) 日本語の変化は肯定し、現在、行われている変化を否定する、という行為だからである。
俺が「暗澹」という表現を使った理由はわかっていただけたであろうか。
「お前はやるな。俺か? 俺はいいんだよ」という選民思想に与することはできまい。それは全く「正し」くない。
「あたらしい」は間違いだ! というところまで戻る覚悟があるのならいいが。
*4
これは、「詳しいことは○○に伺ってください」のような、既存の、丁寧語と謙譲語の混用、というようなのとは別の話だ。コミュニケーションが損なわれる、成立しない。それは指摘するべきだ。
“Yomiuri Weekly”の
記事がある。
別に目新しいことはないが、ビジネス メールについて言及している。一部を引用する。
仕事のメールなのに、名前だけしか書いてよこさない、と怒っているのだが、この「
友達仕様」にはひっかかりを感じる。これは「正しい日本語」か。「正しい日本語」を論じるときに使っていい言葉だろうか。
*5
この記事、ビジネス シーンで使うべきでない表現を上げているが、「ちなみに」が抜けているのは、取捨選択の結果か、それとも気づいてないのか。
法人名に「さん」をつけるのはどうだ。気持ち悪い、という人はもうかなり減ってしまっているのかもしれないが。
その記事にもあるが、「流れに掉さす」「役不足」などもよく槍玉に挙げられる。
これは、間違った人を責めるのではなく (間違いだから責められても文句は言えないが)、この表現が死にかかっていることの証拠だ、という見方もあることに気づいて欲しい。
「役不足」については、この字面には「自分の実力が追いつかない」という解釈を排除する要素がまるっきりない (「汚名挽回」の方は考えればわかる)、ということは指摘しておきたい。逆に言えば、「実力に比して役目が軽すぎる」という意味がここまで維持されてきたことの方が不思議だと思うのだが、どうだろう。「気がおけない」あたりもそう感じる。
*6
これが「正しい秋田弁」になるともう一つ、別の事情が加わる。
それは、どこで話されている言葉を指すのだ?
秋田市だとしよう。その根拠は何だ。県庁がある、あるいは城があったことが、言語の正当性を示しうるのか。
県庁がないが故に、横手や男鹿のことばは「正しくない秋田弁」ということになるのか。江戸時代に遡るのなら、秋田藩ではなかった鹿角や本荘はどうなるのか。
河辺町と雄和町の言葉は、秋田市に編入された途端に正当性を帯びるのか。
そもそも、県庁所在地を以って地域の方言を代表させた瞬間に、東京の言葉が全国を席巻することを否定できなくなってしまう、ということに気づいているか。
あるいは、「正しい」という表現に引っかかりすぎなのかもしれない。「正しい日本語」信者は、「正しい」という言葉に大した重きを持たせてないのかもしれない (それはそれで、言葉をもっと大事に扱え、と反論するが)。
要は、communication と hospitatlity と politeness の問題であろう。通じないとか、わかりにくいとか、不正確だとか、不快になるとか、そういうことをいかにして避けるか、ということだ。
という観点に立てば、「乱れた日本語を使うのは、そいつらが馬鹿だからだ」というのは大間違いのこんこんちきであることは自明であろう。昔から言う、馬鹿って言う奴が馬鹿なんである。