相撲で、幕内力士になることを、昨今は「幕に上がる」と言うそうだが、「幕」に「上がる」という日本語はおかしい、らしい。
「幕内」というのは、昔は本当に幕があって、ランクが上位の人は幕の内側、下っ端は外側、という体制だったことからついた名前だそうだが、現在はそういう使い方をする幕はなくなっているから、「幕内」という単語に物理的な裏づけがない。「角界」と同じである。
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相撲取りのランクに過ぎない単語になってしまったので、「上がる」という言葉が結びついた。この「幕」は幕そのものではなく「幕内」の省略形と考えるべきだろう。
これにケチをつけるのはいいが、だったら履物を「ズック」と言ってはいかんし、JR が走らせているのは「汽車」ではないし、鉛筆やボールペンを入れる文具を「筆箱」と呼ぶのは間違いということになる。
そこの線の引き方が人によって違う、という共時的な問題があることを認識しておかないと、いくらでも足をすくわれる。
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そもそも「幕下」はいいのか?
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で、噛み付かれた方が言った、「言葉は変わる」という事実もある。
これは、「弁当を食べる」と言う人や、なんでここで弁当が出てくるの? と思った人は、「弁当を遣う」と言う人に対して、「乱れた日本語を使って申し訳ありません」と謝罪した上でないと、他人の言葉に噛み付くことはできない、という通時的な問題だ。
前に「戸を閉 (た) てる」という例も挙げたが、言葉は実際に変わる。
「全然」を「全然いい」と肯定の意味で使うのは誤用だ、と言う人がいるが、明治期にはそれが主流だった。後に、否定にしか使わないようになったのである。つまり、ちょっと前の基準では「全然いい」は間違いだが、もっとさかのぼれば正しいのだ。
「正しい」と言うにはどこかに基準を置く必要があるが、言語が変化するものである以上、どこに基準を置くかによって正誤が変わってしまう、ということである。「正しい日本語」の人が使っている日本語だって、自分の上の世代から見たら「誤用」かもしれないのだから、うかつに「正しい」なんて単語は使わないほうがよい。
なんでこんなことをここで書いているかというと、「正しい日本語」への固執は、方言を否定することになるからである。
首都のものが優れている、というような価値判断を脇において、方言が相互に違っているのは事実。なぜ違ったものになるかというと、誰かがどこかで間違っているからである。
奇異な感じを受けるかもしれない。実は俺も、『
言い間違いはどうして起こる?』でそういう表現を見て、え? と思った。だが、よく考えてみればわかる。隣接したものが違っている場合、その原因は
のどちらか (あるいは両方) しかあり得ないのである。
日本語の方言が、各地で別々に生まれた言語でないことは言うまでもない。方言は、間違い (この「間違い」には価値判断を含まない) が固定化したものだ。「正しくない日本語」を排斥したいのなら、方言というもの自体も否定しなければならない。
しかも、この違いには実用的な理由がある。「ら抜き」は語法の単純化と意味の明晰化に寄与し、「〜の方」は敬語法の一つとして普遍的な考え方で、音便は発音を容易にし、省略形はコストを削減し、肩車を意味する「たかうま」には「高い」という説明が可能だ。
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これに対し、言語はコミュニケーション ツールだから一方的な変更はコミュニケーションを阻害する、という反論が出る。それはそうだが、「弁当を遣う」と言いつづけることはコミュニケーションを阻害することにならないか。方言の存在は、コミュニケーションを阻害してはいないのか。
さらに、単純にすればいいというものではない、コストが抑えられればいいというものではない、とも言えるが、このあたりから「言葉」の問題でなくなる、ということには注意が必要だ。
役人のカタカナ言葉が「わかりにくい」と槍玉に挙げられるが、(新奇さが欲しい、ということも含め) わざと耳慣れない言葉を使っている、という側面は間違いなくあるから、それは当然の結果なのだ。問題はどちらかと言えば、カタカナ言葉よりも、そういう姿勢にある。
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天気予報関係の日本語がムチャクチャだというのは俺も同意する。別記事で何度も取り上げているが、「雨は峠を越えてくる」はやめるべきだ。「雨雲が山を越えてやってくる」のか「雨量のピークを過ぎる」のかわからないからである。
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だが、「この夏一番」が、その時点で一番暑い日であるのは事実で、それがまずいのならスポーツの記録そのものが無意味である。あれは常に、「その時点で一番」というものなのだから。さらに、「ある夏の一番暑かった日」は我々の生活にほとんど意味のない情報 (「この夏で一番暑かったのは 8/3 だった」などと言うか?) なので無視することができる。したがって「この夏一番の暑さ」には問題がない。
自分の好き嫌いと正誤をリンクしてはいかん、価値判断と正誤判定とを混同してはいかん、ということなのだが、この溝ってそう簡単には埋まらない。