Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第351夜

いい間違い、悪い間違い、普通の間違い (後)



 相撲で、幕内力士になることを、昨今は「幕に上がる」と言うそうだが、「幕」に「上がる」という日本語はおかしい、らしい。
「幕内」というのは、昔は本当に幕があって、ランクが上位の人は幕の内側、下っ端は外側、という体制だったことからついた名前だそうだが、現在はそういう使い方をする幕はなくなっているから、「幕内」という単語に物理的な裏づけがない。「角界」と同じである。*1
 相撲取りのランクに過ぎない単語になってしまったので、「上がる」という言葉が結びついた。この「幕」は幕そのものではなく「幕内」の省略形と考えるべきだろう。
 これにケチをつけるのはいいが、だったら履物を「ズック」と言ってはいかんし、JR が走らせているのは「汽車」ではないし、鉛筆やボールペンを入れる文具を「筆箱」と呼ぶのは間違いということになる。
 そこの線の引き方が人によって違う、という共時的な問題があることを認識しておかないと、いくらでも足をすくわれる。*2
 そもそも「幕下」はいいのか?*3

 で、噛み付かれた方が言った、「言葉は変わる」という事実もある。
 これは、「弁当を食べる」と言う人や、なんでここで弁当が出てくるの? と思った人は、「弁当を遣う」と言う人に対して、「乱れた日本語を使って申し訳ありません」と謝罪した上でないと、他人の言葉に噛み付くことはできない、という通時的な問題だ。
 前に「戸を閉 (た) てる」という例も挙げたが、言葉は実際に変わる。
「全然」を「全然いい」と肯定の意味で使うのは誤用だ、と言う人がいるが、明治期にはそれが主流だった。後に、否定にしか使わないようになったのである。つまり、ちょっと前の基準では「全然いい」は間違いだが、もっとさかのぼれば正しいのだ。
「正しい」と言うにはどこかに基準を置く必要があるが、言語が変化するものである以上、どこに基準を置くかによって正誤が変わってしまう、ということである。「正しい日本語」の人が使っている日本語だって、自分の上の世代から見たら「誤用」かもしれないのだから、うかつに「正しい」なんて単語は使わないほうがよい。

 なんでこんなことをここで書いているかというと、「正しい日本語」への固執は、方言を否定することになるからである。
 首都のものが優れている、というような価値判断を脇において、方言が相互に違っているのは事実。なぜ違ったものになるかというと、誰かがどこかで間違っているからである。
 奇異な感じを受けるかもしれない。実は俺も、『言い間違いはどうして起こる?』でそういう表現を見て、え? と思った。だが、よく考えてみればわかる。隣接したものが違っている場合、その原因は

互いに独立していて接点がない
接点はあるが変形して伝わった
 のどちらか (あるいは両方) しかあり得ないのである。
 日本語の方言が、各地で別々に生まれた言語でないことは言うまでもない。方言は、間違い (この「間違い」には価値判断を含まない) が固定化したものだ。「正しくない日本語」を排斥したいのなら、方言というもの自体も否定しなければならない。
 しかも、この違いには実用的な理由がある。「ら抜き」は語法の単純化と意味の明晰化に寄与し、「〜の方」は敬語法の一つとして普遍的な考え方で、音便は発音を容易にし、省略形はコストを削減し、肩車を意味する「たかうま」には「高い」という説明が可能だ。*4
 これに対し、言語はコミュニケーション ツールだから一方的な変更はコミュニケーションを阻害する、という反論が出る。それはそうだが、「弁当を遣う」と言いつづけることはコミュニケーションを阻害することにならないか。方言の存在は、コミュニケーションを阻害してはいないのか。
 さらに、単純にすればいいというものではない、コストが抑えられればいいというものではない、とも言えるが、このあたりから「言葉」の問題でなくなる、ということには注意が必要だ。
 役人のカタカナ言葉が「わかりにくい」と槍玉に挙げられるが、(新奇さが欲しい、ということも含め) わざと耳慣れない言葉を使っている、という側面は間違いなくあるから、それは当然の結果なのだ。問題はどちらかと言えば、カタカナ言葉よりも、そういう姿勢にある。*5

 天気予報関係の日本語がムチャクチャだというのは俺も同意する。別記事で何度も取り上げているが、「雨は峠を越えてくる」はやめるべきだ。「雨雲が山を越えてやってくる」のか「雨量のピークを過ぎる」のかわからないからである。*6
 だが、「この夏一番」が、その時点で一番暑い日であるのは事実で、それがまずいのならスポーツの記録そのものが無意味である。あれは常に、「その時点で一番」というものなのだから。さらに、「ある夏の一番暑かった日」は我々の生活にほとんど意味のない情報 (「この夏で一番暑かったのは 8/3 だった」などと言うか?) なので無視することができる。したがって「この夏一番の暑さ」には問題がない。

 自分の好き嫌いと正誤をリンクしてはいかん、価値判断と正誤判定とを混同してはいかん、ということなのだが、この溝ってそう簡単には埋まらない。






*1
 土俵の俵は丸く並んでいるが、その周囲の盛り上げた部分は四角である。土俵の上に屋根が吊るされているのに気づいている人も多いと思うが、昔はその屋根を、土俵の四隅で 4 本の柱が支えていた。だから「角界」。
 柱がなくなったのは、テレビ中継で邪魔になるからである。 (
)

*2
 相撲の歴史に詳しい人は「幕に上がる」は許せないだろうが、詳しくない人はそう感じない。
 例えば、特撮ヒーローの話をしていて「イナズマンに変身」と言う人がいるが、これは俺のようなオタクにとっては看過しがたい間違いである。「変身」と叫ぶのは仮面ライダーで、イナズマンは「変転」、ダイレンジャーは「転身」だ。これも、詳しくない人にはどうでもいい話であろう。(
)

*3
「幕内」の反対は「幕外」ではないのだろうか。 (
)

*4
・ら抜きのメリット
「られる」はもともと、尊敬・可能・受身・自発と担っている意味が多いので、「食べられる」という発話を聞いた時、どの意味なのかを判断するのは、話をきちんと聞いていないと割と難しい。
 と言うと反論されそうだが、仮に旅館に行ったとする。予想外に寒いので毛布を追加してもらった。そこで、旅館の人に「これを掛けられてください」と言われたらどうか。奇異に感じないだろうか。前後関係から考えてこれが尊敬の「られる」であることは明白だが、奇異に感じるのは、受身という解釈を排除できないからである。
 近年は、敬語専用の単語 (「食べる」−「召し上がる」) を使わずに、助動詞との組み合わせで表現する傾向が強くなっているので、ますますこの摩擦も強くなる。
 が、「ら抜き」の「食べれる」で可能を現わすことにすると、「られる」の担う意味が一つ減るので、誤解の可能性が低くなる。上の例も、「られる」を使わず「お掛けください」とすれば問題は生じない。
・「〜の方」のメリット
 対象を直接、指さずに、ぼやけた、あるいは、遠まわしな言い方で敬意を表現する、という方法は日本語に限らず広く使われている。「殿」はもともと建物のことだし、「陛下」も「閣下」もその人がいる場所の下から、というのが原義。英語の“Her Majesty”, “Your Excellency”なども同様。
「方」がいやなら「あなた (貴方)」は使えない。
(
)

*5
『日本語学 (明治書院)』誌 の 7 月号、「特集 いまカタカナことばを考える」に詳しい。 ()

*6
 いささか極端な例だが、「雨が峠を越えてくる」「ピークを越える」を登山者に対して使うと、最悪の場合、生死にかかわる問題になるのではないか。(
)





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