Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第343夜

御訛り (前)



 伊藤 秀志氏の「御訛り」を聞いた。
 前とは違い、氏の方言ソングが笑いを取ることを排除していないことがわかっているので、心穏やかに聞けた。
 今回は、70 年代フォークを「訛って」歌っている。

 別にどんな聞き方をしようが勝手なのでケチをつけようって気はさらさら無いのだが、これで「癒される」っていうのがよくわからない。ニヤニヤしたりしながら聞くものではないのか。
 まぁ、確かに、「故郷を離れ、ささくれ立った都会の生活に疲れている人」は癒されるかもしれないが。『案山子 (さだまさし)』あたりなんか特に。
 ただ、伊藤氏の歌そのものは「ウケを狙った」ものではないので、そういう聞き方には無理はない。俺が「癒し」という言葉に胡散臭さを感じているからかもしれない。

 まず気がつくのが、音数の違いである。
 聞いても分るが、歌詞カードを見ると一目瞭然。
 歌詞カードでは、原詩と秋田弁詩が並べてあるのだが、ほとんどの場合に秋田弁詩の方が長い。
 最も顕著なのが、『案山子』で、原詩が 22 行なのに対し、秋田弁詩の方は 33 行。縦方向もさることながら、横の、同じ 1 行の文字数も大幅に増えている。あるいは、原詩では 1 行に納まっているものが 2 行に分割されていたりする。
 例外はチューリップの『サボテンの花』。これは、原詩の方が(縦に)長い。尤も、これは改行位置の関係によるもので、文字数から言ったら秋田弁詩の方が圧倒的に多い。
 これは何故か。
 メロディを維持しようとしたからである。訳詩なんだから当たり前だが。
 どういうことかと言うと、原詩をまぁ標準語、秋田弁詩を秋田弁とし、これを二つの異なる言語とみなす。その場合、異なる言語なんであるから、語彙のレベルから違っているわけである。なんか、当たり前のことばっかり書いてるな。
 で、あるメロディにある語が乗っているとする。『赤ちょうちん (かぐや姫)』から借りて、「ひざをかかえて泣きました」の「ひざ」にする。
 これを秋田弁訳すると「ひじゃかぶ」となる。音数が 2 から 4 に倍増する。これを、メロディを維持したまま置き換えることはできない。
 方法はいくつかある。
1) 全体を再調整して、「ひざ」のメロディに「ひじゃ」をあて、余った「かぶ」をそれ以降に割り当てる。
2) メロディに隙間があれば、そこに割り込ませる。この曲の場合、メロディとしては「ひざぁをぉ〜」で、秋田弁に限らず方言の発話で「を」などの助詞が脱落する傾向を利用すれば、ここに「ひじゃかぶ」をはめることは充分に可能。
3) 早口で「ひざ」に「ひじゃかぶ」をはめてしまう。
 伊藤氏がどれを使ったかは曲を聴いてみてほしい。
 いずれ、1) を多用しない限り、早口で字数が多い歌になってしまうのは必然である。ただし、1) は、全体の音数にが決まっている以上、かなり注意深くやらないと、内容が欠落してしまうので (翻訳の世界では「訳抜け」と言う) 使い方は難しい。

 早口になる理由はまだある。秋田弁的表現の中に、原詩の表現と対応するものがない場合である。

 ここで「秋田弁的表現」と書いたのは、「秋田弁」というのは「秋田の人の言語活動の全て」を指す、という考えによる。「株価の下落による含み損の増加」というのはいかにも標準語っぽい表現だが、これを秋田で秋田の人が発話して、それで秋田の生活が営まれているのだとすると、これも「秋田弁」に含まれる、ということである。

 で、『東京 (マイペース)』の冒頭に、「最終電車」という単語が出てくる。これは、秋田でも「最終電車」である。まぁ、「電車」よりは「汽車」の方が多いかもしれないが、「最終汽車」とは言わない。
 が、これを単に「最終電車」と言ったのではつまらないわけである。なので、説明的に「えっと後の電車ッコ」と言ってみる。これを「さいしゅうでんしゃ」と同じメロディに押し込めると、やはり早口になるわけだ。

 こういうのは多いが、意味が変わるのを承知でわざとやってるな、というところもある。
『サボテンの花 (チューリップ)』では、「洗いかけの洗濯物」というフレーズがあって、これを「脱水かげで無ぇ洗濯物」としているが、「洗いかけ」と「脱水していない」は同義ではあるまい。
 ほかに、「城跡」が「殿様の家の後」、「造り酒屋」が「酒こしぇる家」、「レンガ煙突」が「焼き土の煙突」(どれも『案山子』)というのがある。

 逆のケースは見当たらない。
 つまり、原詩で長々と説明しているものが、秋田弁ではすっぱりと表現できる、というケース。
 そういうもの自体がそうは多くない、ということのほかに、それをすると、相当の音数を、意味とメロディを変えずに埋めなければならなくなる、ということがある。これは冒険である。

 さて、全体として字数が増えると、バランスをとる必要が生じる。
『案山子』の冒頭、「元気でいるか街には慣れたか友達出来たか」は全く同じ詩なのだが、ここが妙にさびしく感じられる。ほかが早口になっているからである。
『赤ちょうちん』の「裸電球 まぶしくて」が「裸電球の玉 明かりすぎで」になっているのは、その調整の結果ではないか。




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