Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜
第283夜
「豊かな表現」ふたたび
それぞれの方言間の違いは、世間を切り取るグリッドの違いである、というようなことを何度も書いてきた。
秋田で言う「まがす」を、東京弁で一言で表現することはできないが、それは、秋田弁が優れているのでも、東京弁が劣っているのでもない。世界の見方が違う、といううだけのことである。
ここで、東京弁が「まがす」を導入すると、スープ皿からスープがこぼれるのと、コップを倒してしまったのとを、一単語で言い分けることができるようになる。
こうしたことを繰り返して語彙を増やしていくときめの細かい表現が可能になる。
恐らく、秋田衆は、これを喜ぶと思う。
短期的には。
それが定着すると、「まかす」は東京弁である、ということになる。例えば西日本の人には、それが秋田起源の語である、という情報は伝わらないものと思われる。
「まかす」は東京弁だ、と言われたら秋田衆は面白くないだろう。おそらく。
だが、これは間違いなく「秋田弁の普及」なのである。
それは、方言者の考える経過でないのではないか。
似たような例が既にある。静岡から神奈川にかけて使われるのに、横浜言葉だと一般的に思われている「じゃん」という語尾である。
これは、「じゃん」が東海道を伝わったからである。東京からは、横浜から流入してきたように見える。
たぶん、横浜サイドからは、西の静岡方面から入ってきた、という意識はあったと思われる。静岡側も、俺たちと同じ言葉を神奈川で使っているなぁ、と思ったに違いない。
それが横浜にも伝播する。ところがその次の時点で、横浜言葉、ということになってしまった。中には、東京の言葉だと思っている人も少なくない筈だ。
それはやっぱり面白くないだろう。
やっぱり、「違うものは違うものとしてお互いに認める」ということなのだと思うのだよ。
秋田では「まがす」と言うんです。それでいいのである。何もこれを他の地域に押しつけることはない。それを採用するかどうかは、他の地域に任せればよい。
きめの細かい表現というのは、裏を返せば、使い分けの面倒くさい表現、ということになるのだ。
日本語で「帽子」で片付く言葉が、英語では“cap”と“hat”に分かれる。これは明らかに違う言葉なので、英語を話そうと思ったら、その違いはきちんとマスターしなければならない。そういうことが、例えば「端」の“edge”と“end”、「できる」の“able”“capable”“possible”と至るところにある。
また、間に合ってます、ということもある。
前述の「じゃん」だが、東京弁という誤解も影響して、全国的に使われているかと思えば、西日本では旗色が悪い。例えば、大阪ではほとんど使われない。
これは、大阪の対抗意識によるものではなく、大阪には「やん」という語尾があるからだ。この「やん」と「じゃん」は使われ方がほとんど同じなので、「じゃん」の入る余地はないのである。
それを権力で強制したのが「標準語」というわけだ。
これは間違いだ、という話もあるようだが、「春一番」は元を辿れば方言語彙だ、と言われている。
この語を受け入れることによって、春先の特異な自然現象が簡単に表現できるだけでなく、「やっと春になりましたねぇ」「まだ肌寒いけどもうすぐ春なんですねぇ」というような、人の気持ち、すなわち「文化」にも影響を与えることとなった。「豊か」になったと言っていい。
が、それすらも流れに任せるのが良い。使うか使わないかは当事者に任せればいいのである。
仮に、これに倣って「夏一番」なんて単語を使わせようと思ったって、ノる人は多くあるまい。この風が吹いたらクソ暑くなると思っただけでゲッソリするってもんである。
ミクロのレベルでは、あるグループに別の地域の方言を話す人がいて、その人の使う表現が面白かったり便利だったりすると、そのグループにおける標準的な表現になる、ということがある。
それが広い範囲で行われる。これが、色んな人のいう「豊かな表現」なのだろう。
実はその先にあるのは、均一な日本語、なのだが。
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