Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第267夜

英語公用語論について (前)




 何を今更、というむきもあろうが、『日本語は生き残れるか -経済言語学の視点から-』で『あえて英語公用語論』を取り上げていたので、遅まきながら読んでみた。
 しかしまぁ、ここは方言のホームページでもあるし、そっち方面の話題から。

 カナダのイマージョン教育 (全ての教科を別の言語でやることによって、その言語の習得を図る教育方法) を取り上げた後で、二つの言語を学ぶと「同じことを言うのに二つの言い方があるということを知るようになる」と述べている。
 全くその通りである。
 東京生まれ東京育ちの人間が、自分の言葉遣いを説明しようとして「いや、テレビでやってるような普通の言葉」と言うのは、その対極にある。自分の言葉遣いが全国で通用するものだから、簡単に「普通」などと表現する。
 じゃ、あなたはアナウンサーがニュースで使っているような言葉で日常生活を送っているのか、と問うと、そんなわけはないから否と答える。じゃぁどんなの、と改めて問うと、にわかに答えに窮することになる。自分の言葉について考えたことがないからである。
 同じことが大阪弁にも言える。
 大阪弁話者がよそで大阪弁を押し通すのは別にいいのだが、それが可能になるまで、自分の言葉で苦労した先人のことは頭にあるだろうか。勿論、大阪弁を完全にモノにしているわけではない他地域の人の困惑について気にしているだろうか、ということはここでは問わないことにして、の話だが。
 他地域で通用しない方言を押しつける人などは言うまでもないわけだ。自分は共通語を使っている相手の言っていることを理解できる、という、公平でない立場を利用しているのだ、と言われても文句は言えまい。

 次に出るのはイングリッシュ・ディバイドという表現である。英語ができるかどうかで、待遇や収入、ひいては人の人生が分けられてしまう、という意味だ。
 が、同様のことが 20〜30 年代の日本にあったことが忘れられている。言葉を借りるなら、「ダイアレクト・ディバイド」とでも言おうか。
 前にも書いたが、集団就職で東京に行き、そこで言葉遣いをからかわれて殺人事件まで起こしてしまった、という例がある。つまり「標準語」を話せないことは、ディバイドするべき要件だったわけである。
 どうやら日本人は、そこから学んでいないようだ。
 勿論、全体的な趨勢としては、各地の方言は認めましょうという空気になっている。だが遅かった。日本語全体の画一化は進んでいる。方言の側が力と多に屈してしまったという事実は隠しがたい。
 実は「地方の時代」というお題目そのものが、一極集中は問題だね、という経済上の要請からスタートしている。
 何もかも、現在の、英語を巡る状況とあんまり変わらない。同じ轍を踏んでいるとは言えないか。

 広辞苑の第五版で「カタカナ語」の比率が 10% の大台に乗ったことが取り上げられている。このような「カタカナ語」の増加を「無防備」と表現している。
 まず確認しておきたいのだが、「カタカナ語」はれっきとした日本語である。カタカナで書かれているから、ということでだけではなく、使われ方が日本語のルールに則っている。
 例えば、“simple”をカタカナ語として使おうとすると「シンプルな内容」と「な」を補わなければならない。「シンプル内容」は日本語としては辛い*1。「カタカナ語」は、単語を借りているだけであって、骨格たる文法は依然として日本語なのだ。*2
 日本語は生産性の高い言語である。カタカナ語のすさまじい増加そのものが、それを証明している。どんな言語の単語であっても貪欲にとり込むことができる、力強い言語なのである。その生産性が 0 になったとき、その言語は死ぬ、と言われている。
 つまり、残念ながら、贔屓の引き倒しとでも言おうか、この純潔主義は言語を殺すことになってしまうのだ。
 変化を抑制しようと思うと、別の言語との接触を禁じなければならない。それはすなわち、人の交流を禁ずるということである。それがどういう結果を招くかは既に江戸時代に経験済みである。あの頃だって、全く閉ざされていたわけではないのだ。もし完全に隔離したとすれば、その言語だけではなく、民族自体が亡びることは想像に難くない。
 ただ、「かぶさり方言」という言い方があるが、全国に通用して経済力すら保持している「標準語」、同様に「英語」の存在が話をややこしくてしている、とは言える。
 いや、経済的には「シンプル」なのである。標準語オンリー、英語オンリーにしてしまえばこんな単純な話はない。だがそれは、別の言語の滅亡を伴う。それを許容できる人は少ないだろう。




*1
「シンプルな構成」を「シンプル構成」とするのは通る。
「グリーンのセーター」はいいが、「グリーン セーター」は通らない。(
)

*2
 宇多田ヒカルの歌で「君に addicted かも」という歌詞がある。こうした表現が日常的に使われるようになったとすると、英語が文法面に進入してきたことになる。
 ただし、「君に addicted かも」自体は、異性を口説くときに使われている可能性はある。あくまで、「こうした表現」であって「この表現」ではない。(
)






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