先日、「『
ジョヤサ』ってどういう意味ですか?」というメールを貰った。
これは、
秋田市にある三吉神社の小正月行事「
梵天 (ぼんでん)」で聞かれる掛け声である。
「掛け声に意味なんかあるのか」と思ったが、例によって Internet の検索エンジンにぶちこんでみた。
まず、「
ジョヤサ」は意外に広く使われている。
そもそも、梵天祭り自体が、
秋田市だけでなく、
大曲・
横手・
東由利町でも行われている。
他に、
秋田市土崎の
港まつり、
西仙北町刈和野 (かりわの) の大綱引き、八郎潟町一日市 (ひといち) の裸参り、などなど、あちこちのサイトがひっかっかった。が、残念ながら、語源についての説明が無い。
説明は、お隣の岩手県にあった。
水沢市にある黒石寺の
蘇民祭で使われるという。
孫引きになってしまうが、そこで引用されている『黒石寺蘇民祭 (末武保政、文化総合出版)』という本によれば「
常屋作」が元だという。永遠の住まいを作る、という意味らしい。なるほど。
一応の解決は見たが、気になることがある。
秋田と岩手だけなのである。
Internet の検索エンジンで調べでくらいで「だけ」というのも問題あるが、一応の傾向として、この辺だけなのだろうか、くらいは言える。
さて、
蘇民将来の伝承は次のとおりである。
旅人が、巨旦 (こたん) 将来という男に一夜の宿を願ったところ、金持ちであるにもかかわらず断られた。
巨旦の弟である蘇民将来の家に行ったら、貧乏であるにもかかわらず快く泊めてもらえ歓待を受けた。
そこで旅人は、巨旦の一族を滅ぼし、蘇民将来とその子孫には加護を与える、と約束した。*
そんなわけで、「蘇民将来 (之子孫)」と書いておくと、無病息災家内安全が図られる、というわけである。
この話自体は全国に伝わっている。
宿を請うた旅人は、仏であったり、スサノオノミコトであったりする。どっちが兄か、など場所によって違うようだ。
水沢の祭りでは「蘇民袋」というのを奪い合うのだが、これが蝦夷の頭目・阿弖流意 (アテルイ) の首を模したもの、とかいう話もあって、色んな話がまじっているらしいことがわかる。
石ノ森章太郎の「
イナズマン」では、変身時の掛け声が「
ゴウリキショウライ」「
チョウリキショウライ」なのだが、これ、関係ないのかね。2 つ揃ってるし。インスピレーションの元、位にはなってないかな。
話を戻す。
蘇民将来のエピソードは全国にあるにもかかわらず、「
ジョヤサ」は秋田と岩手にしか見当たらない。
言えば、この両県の場合、何かを納めるなり、お参りするなり、勝ち取るなりの
アクションを起こしている。掛け声が必要なわけである。注連縄なり札なりを貼っておくだけ、というのとはちょっと違う。
しかし、それならそれで、どうしてそういう祭りが他の地域にないのか、という疑問が出てくる。
札を貼る、という行為自体は、例えば
横手のかまくら祭りでも見られるそうである。
音の似た表現として真っ先に思い浮かぶのは「ヨイヤサ」だが、こっちは全国区。岸和田のだんじり、阿波踊り、祇園山笠とメジャーどころが並ぶ。
これには「ヨイヤサ、コレサ」など、「コ」ではじまる掛け声が続いたり呼応したりすることが多い。そうなると「よいしょこらしょ」が連想されてしまって、語源なんかあるのかいな、という気になってくる。実際、意味を説明しているサイトは無かった。
それに、地引網を紹介したページも引っかかるので、いよいよ、信仰とは関係の薄い、単なる掛け声なのではないか、という可能性が高くなる。
掛け声と方言をつなげるとすれば、「
ソイヤソイヤ」という掛け声がある。俺がはじめて聞いたのは、刈和野出身・柳葉敏郎の一世風靡セピア。関係ないが、『前略、道の上から』は、わが母校の応援歌にそっくりである。初めて聞いたときはビックリした。
彼らのおかげかどうかはわからないが、この掛け声は若い世代を中心にすっかり定着した。で、色んな祭りでも使われるようになった。
が、生粋の江戸ッ子に言わせると、あれは「
下品」なのだそうだ。正しくは「
ワッショイ」でなくてはならないらしい。
…という話をどっかで読んだ記憶があるのだが、何で読んだのか思い出せない。
青森・岩手・秋田にかけて、「
ナニャドヤラ」という盆踊りがあるのだが、ヘブライ語で解釈可能なのだとか。
新郷村には、キリストの墓がある、という言い伝えもあるらしい。これも中々に興味深い。
ねぶたの「
らっせらー」、ね
ぷたの「
やーやどー」と、語源があるとは思えない掛け声も少なくない。
竿灯は「
どっこいしょー」で今イチ面白みに欠けるが、まぁそれはいい。
大体、このあたりになってくると方言というよりは民俗学の守備範囲である。方言学と民俗学は近いから避けて通れないのは確かだが、今のところ苦手分野である。そういう本を読むのは好きなのだが。
というわけで、及び腰である。きっと、真面目に調べようと思ったら大変なことになるに違いない。