Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第189夜

ふるさと日本のことば (5) −京都、山口、群馬−



京都府−見ておくれやす (6/18)−

ほっこり」が「疲れた」という意味だとは知らなかった。
 国井アナウンサーは、進行上、わざと知らないふりをしているのではないか(勿論、リハーサルをしてるだろうから、知らないわけがないが、それ以前の段階で)と思うことがあるのだが、彼と同じで、芋の「ほっくり」と混同していた。

 冒頭、奈良から来た修学旅行生に京都弁で話し掛けている旅館のお上が取り上げられていたが、奈良と京都は隣県の筈。それでも話題になるほど知らないものか? 個々の表現では知ってたり知らなかったりする、というレベルではないのだろうか。

 京都府は、丹後、丹波、山城に別れる。
 南山城村の言葉が紹介されていた。申し訳ないが、取り上げられていた範囲では、俺には大阪弁との区別がつかない。
 また、丹後に属する伊根町では、「アイ」という音が「エァ」となる。名古屋弁と同じだ。「あかい」が「あけぁ」となる変化が、京都を中心にした周圏分布を示すとは知らなかった。
 このバリエーションでずいぶんと番組が厚くなったと言える。

 この番組ではいつも、視聴者からの手紙などを元に、10 個の表現を特に取り上げている。京都の場合は、以下のようになっていた。
おおきにおいでやすおはようおかえりやすよろしゅうおあがりやすほっこり
かんにんえはばかりさんおきばりやすおたのもうしますはんなり
ほっこり」と「はんなり」を除けば、人に呼びかける単語ばっかりである。敬語体系の発達した京都ゆえの現象であろうか。
 堀井 令以知氏によれば、首都ゆえ権力者との接触が多い。したがって、ダイレクトな物言いは危険。京都弁が遠まわしの表現を好むのはそうした理由だそうだが、これも同一の事情によるものであろう。

 しかし、若者は京都弁を使っていない。彼らは自分たちの言葉を「関西弁」と認識している。この「関西弁」は大阪や神戸の影響下にある
 彼らにとって「京都弁」は、花街で使われるような言葉なのである。

 では、その花街はどうか。
 これも聞いてびっくりだが、舞妓の 8 割は、京都府外の出身者なのだそうだ。であれば、彼女らに京都弁を叩き込む必要がある。
 単純化すると、京都ネイティブの若者は京都弁を使わない、京都弁を使っているのは県外出身者。
 京都弁は、そのステータスとは裏腹に、他地域の方言同様、もはや必死になって支えなければ維持できない状態になっている、というのが現実なのではないか。

女優 高田 美和
関西外大 堀井 令以知
京都放送局 白鳥 哲也
山口県−見てくれさん (6/25)−

 いきなり長州弁を使った小唄から始まる。粋なオープニングである。ただ、あれを「小唄」というのかどうか正確なところは知らない。
 前回放送分の京都でも花街が舞台になったが、こうした世界では、他地域から来た客をもてなすために、方言を維持しようという力が働く。秋田にも、ちょっと前までは花街があったらしいが、もしそれが残っていたらどうだっただろうか。秋田弁は悪い言葉だという教育が徹底していたとすると、意外に方言維持には寄与しなかったかもしれない。
 実は、一人だけ若い芸者さんがいるらしいのだが、その人がどういう言葉遣いをしているのかは不明である。

 一番面白かったのは、「たえがたい」という表現である。これは、「おたえがとうございます」という風に、礼を言うときに使う。私のためにこんなことをしてくれて、あなたは大変でしょうね、耐えがたいでしょうね、ということから来ているのだそうだ。
 同時に、お悔やみの言葉としても使うらしい。あるいは、「可愛そうにねぇ」という意味もあるのだそうだ。こっちはわかりやすい。
みてる」というのが「なくなる」という意味である、というのもあった。つまり、ある場所が「満つる」ということは、別の場所では「無くなっている」ということだから、という理屈がついていた。
たえがたい」にしろ「みてる」にしろ、ワンクッションある。車のバックギアみたいなもんである。長州弁全体でそうなのか、たまたまそういう例が続いただけなのか、敬語体系との絡みはどうか、解説が欲しい。

あります」が敬語として多用される。「知っちゃぁありません?」「どうぞであります」というような表現が、料理屋の女将の口から山ほど出てくる。
 俺も、ここから軍隊用語を連想したのだが、必ずしもそうではないらしい。維新期に軍隊を作ったのは長州だし、と言ったのは司馬遼太郎だそうな。
そのアクセントが、
りょうたろう
であった。この「あります」も「あ」が高い。そう言えば、アクセントやイントネーションについては触れられなかった。

 最初、長州弁って聞き取りやすいなぁ、標準語にかなり入っているのかなぁ、と思って聞いていたが、早とちりだった。豊北町に行ったとたんわからなくなった。やはり、そう簡単なものではないらしい。
 その傾向は、2 人のゲストの話がのってくると強くなる。はっきり言って、2 人とも話が巧くはない。地の文と例文との境目が明瞭でないため、非常にわかりにくい。

 象徴的なのは、残したい、という支持が最も多かった表現の「のんた」。これは「ねぇ、あなた」から変化した語尾だそうだが、では使っているか、というと、若い層を中心にほとんど使われていないらしい。
のんた」はもはやノスタルジーの領域に押しやられてしまった表現なのであろう。

作家 古川 薫
中原中也記念館 福田 百合子
山口放送局 福井 弓子
群馬県−見てくんない (7/2)−

 へぇぇ、と思ったのは「上州江戸弁」という言葉。つまり、古い江戸弁が残っている、というのである。この場合の「江戸」は、開幕以前をも含む。
 まぁ、方言周圏論の一例と言ってしまえばそれまでだが、普通、「古い言葉が残っている」というと京都の言葉を思い浮かべてしまうので、意外だったのである。
 前にも書いたが、開幕以前の江戸の住民は周囲に移住させられているので、古い表現が残っているのも当然か、という気もする。
 談四楼は普段の言葉は訛っているのに古典落語をすると訛らない、と談志が不思議がっていた、というエピソードが紹介されていた。

 上州といえば、カカァ天下ということで、そういう夫婦を取り上げていたのだが、正直言って滑っていると思う。極端な例ではなく平均的な方である、とのことだが、俺にはごく普通の夫婦に見えた。確かに、多少ズバズバものを言っているようには見えたが、運送業を営み、バックヤードを回している人といったら、あんなものではないのだろうか。
 勿論、言葉との絡みに関する説明も根拠が希薄。

 農作業にかかわる表現が多く取り上げられていた。
 上州名物のもう一方、からっ風と絡めた話題だが、ずっと遠くの御荷鉾 (みかぼ) という山の方に雨雲が見えると、あっという間に里まで降りてきてしまう、というのを「御荷鉾の三束 (さんぞく) 」と言っていた。三束刈り取るのがやっと、という意味である。
 また、上州といえば、養蚕も盛ん。蚕を「おこさま」と呼び、繭を作る直前の蚕を「ズー」、繭を作ることができなかった蚕を「タレコ」などと呼び分けている。
 こういう表現が楽しい。特に、形の上では方言とはいえない前者のような例が面白い。共通語に取り入れられた「春一番」を筆頭に、全国に山ほどあるはずである。

 談四楼の話術で話に彩りが出る。流石に、立川流である。
 が、その裏返しで、ポイントがはっきりしない。それぞれのエピソードが面白いのが災いして、塊が後に残らないのである。まぁ、この番組は学術的なものではないから (その足がかりにはなる) それが正しいのかもしれない。

 その談四楼が、のこしたい言葉として「ふったかる」を挙げていた。これは、元は「燃え盛る」というような意味らしいが、転じて「隆盛しているさま」をあらわすのだそうだ。
 で、この語は埼玉でも使う、という指摘を本人がしていた。こういうのがあると、方言っていうのはアナログなものだということが再確認できる。これで番組にふくらみが出た。

落語家 立川 談四楼
群馬県立女子大 篠木 れい子
前橋放送局 森 吉弘




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