Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第186夜

ふるさと日本のことば (4) −長野、青森、鹿児島−



長野県−見ておくれや(5/28)−
 今回も俚言たっぷりでうれしい。「ふとい」が「豊かな」であることなどは、九州では「大きい」という意味であることなども考え合わせると、そのバリエーションの広さに楽しくなってくる。

 前から思い出せなくて困っていたのだが、「行こうよ」という誘いかけを「いかず」というのは長野だった。
 これを「行こうよ」の長野弁訳だと考えると、妙な表現だという印象をもってしまうわけだが、これは「行かない?」に対応する形なのである。「ない」−「ず」の対応には不思議はあるまい。大体、勧誘のときに否定形を使うのを忘れている方が悪い。
 ただ、「に」という語尾がつくので始末が悪い、とは言える。
 これはどうやら「ねぇ」「ね」に相当する語尾らしく、どこにでも着く。したがって、「ねぇ、行かない?」なんてときに「行かずにぃ」となる。これを東京弁にそのままの形でもってって「行かずに」→「行かないで」と訳すともっと話がわからなくなる。

 長野が、青森や山形に負けず地域差の激しいところであることは知っていた。明治政府が信州に含むところがあり、本来はつながりの乏しい地域をわざとくっつけたのだ、という話を聞いたことがある。東北で言うなら、秋田と岩手をくっつけて南北で別の県にした、というような感じなのだろうか。
 行政区分としては北信・東信・中信・南信なのだそうだが、言語的には、奥信濃、北信(長野)、東信(上田、佐久)、中信(松本)、南信という具合だそうだ。
 「めんこ」「かわいそう」「まぶしい」をそれぞれの地域でなんと言うかを取り上げていた。
 その方がわかりやすいと思うので、表にしてしまう。
 北信 東信 中信 南信
めんこ ぱっち ばっちん めんこ けん
かわいそう もうらしい おやげねぇ もげぇ むごい
まぶしい かがっぺぇ かがっぽしい ひどろってぇ ひだらっこい
 というような感じで、語によって境界線が異なる。これこそ、言語の変化がアナログなモノであるという証拠だ。

 「恥ずかしい」という意味の「しょうしい」がここでも使われていた。

 面白かったのは、「おめぇ」と「おまえ」の対立である。
 前にも触れたが、「おまえ」は本来は「御前」であって、第二者に対する敬語である。現在ではすっかり価値が低下しているが。
 奥信濃にはこの使い方が残っていて、自分の母に対して「おめぇ」と言う。
 一方で外部からは既に価値の低下した「おまえ」が入ってくる。
 ということで、「おめぇ」と「おまえ」の使い分けが生じているのだそうだ。

 後半は、話を「ずく」でまとめようとしていた。
 「ずくがねぇ」というのは「だらしがない」というような (しかし、それだけではない) 意味である。この「ずく」の有無が、長野の県民気質を語る上で重要なのだ、ということを言いたいらしい。
 でも、今一つ盛り上がりに書ける感じは否めない。「長野衆」が見えてこないのである。あるいは、「ずく」について語る老夫婦を取り上げるのが遅かったのではないか。
 スタジオの会話もかみ合ってなかったし。

作曲家 神津 善行
信州大学 馬瀬 良雄
長野放送局 西東 大

青森県−見でけへ、見であんせ(6/4)−
 木野 花氏が、上京したときに「標準語」を身につけてしまい、その平板さに悲しくなってしまったというエピソードが紹介されていた。恐らく、一切の特徴を殺ぎ落としてしまったのだと思われるが、周囲の、例えば東京ネイティブが東京弁を話しているのを聞いて、なんだそれでいいのか、と開きなおった。実に象徴的な話であろう。
 「東北の田舎」というと、青森や秋田を連想する人が多いが、そういう人が津軽弁を聞いたときに「私の知っている東北弁と違う」と言うのだそうだ。安物のドラマで使われるような「東北弁」は、東京に近い東北、福島や宮城の言葉がベースになっているからこうなるのである。

 田舎館村にあるコミュニティ FM、 「ジャイゴウェーブ」のセンスには恐れ入る。「コンサドーレ」に匹敵する優れたネーミングだと思う。

 よく、「 (一人称)」と「 (二人称)」や、「せば」「まず」などを取り上げて、東北弁は単語が短い、というようなことを言うが、これは統計でもあるのだろうか。

 今週も「しょし」が出てきた。これは、南部。

 面白そうなのが、下北弁。
 ここは、区域としては南部だが、海運で北海道や津軽とダイレクトに繋がっているため、そうした地域の特徴をもっているのだそうだ。是非、実例が聞きたかったところなのだが。

 津軽と南部の境界が、平内と野辺地の境界に一致するとは知らなかった。
 勿論、ここには藩の境があって、実際に津軽と南部の境界だったわけだが、それが今でも残っている理由が学区で説明されていた。
 しかし、自転車のレースで平内に行くと、なんとなく南部の雰囲気がしてくるような気がする、ということは言っておこう。部外者だからかな?

 学校の授業で、パソコンのソフトを使って南部弁を覚えよう、という試みが紹介されていた。
 最初、学校で教えなければならないほど衰退しているのか、と思ったのだが、インタビューを受けていた子供のイントネーションはきっちり南部弁であった。一安心。
 更に、子供たちが喜んでいるのは、彼らがまぎれもない南部弁話者だからであろう。自分たちの言葉をベースに、古い俚言などを吸収することに楽しみを感じているだと思う。まぁ、パソコンが面白いのかもしれないが。
 また、佐藤教授の、多元的なことを学校で教えることに意味がある、という発言には共感を覚える。

 最後に「わいは」がとりあげられていたが、その説明がまたいかにも舌足らず。あの説明では、「強調の副詞」だと思ってしまう人が出るだろう。
 「わいは」は感動詞だ。誤解の無いように。

 サブタイトルの「見てね」が 2 つあるのは、津軽弁と南部弁。

演出家・女優 木野 花
弘前大学 佐藤 和之
青森放送局 堀 伸広

鹿児島県−お見やったもんせ(6/11)−
 流石にわからん。
 一つ一つの単語を切り出してくれればなんとかなるのだが、会話になると全然。
 後半に、徳之島での会話が出てくるが、これなんかもっとわからない。
 鹿児島弁については、島津氏が江戸幕府のスパイの任務を妨害するために、わざとわかりにくい言葉にしたのだ、という話もある。

 「っ」が多いのが鹿児島弁の特徴であることは知っていたが、イ段やウ段の音がほぼ「っ」になってしまうらしいから、それも当然か。
 「席/咳」も「節句」も「せっ」になってしまう。また、「口」も「首」も「くっ」だから、「くっが痛い」と言われてもわからない、というような話があった。

 「アイ」や「オイ」が「エ」になる、というルールがあって、「暗い」も「黒い」も「クレ」になるのだそうだが、前者が「」、後者が「」だそうだ。
 秋田でも、どちらも「」で、イントネーションも一緒である。

 「牛」が「ベグ」であるらしい。
 秋田の「ベゴ」はアイヌ語起源であることがわかっているが、「ベグ」もかい?
 そういえば、「とぜんね」もあった。

 豆腐は「おかべ」らしい。
 これは勿論、女房詞であるわけだが、中央 (この場合は京都) の言葉が地方に残っているのはいいとして、なぜ女房詞が使われているのだろう。

 小学生の方言調査が紹介されていた。
 その中で、「大根」を「でごん」と発音していたが、手元のノートは「でこん」であった。
 この辺、意識としては共通語が残っているのではないか、と想像してしまったりもする。単なる書き間違いかもしれないが。

 子供たちに方言劇の台詞を教えるのは、英語の勉強と同じであったらしい。つまり、丸暗記させるしかなかった、というのである。
 この辺り、子供に通じないので、年寄りが鹿児島弁を使わなくなってきている、という指摘と併せて考えると興味深い。
 方言主流社会である鹿児島ですら、そうなのである。

 番組自体について言うなら、淡々としててヤマがなかった。

歌手 中島 啓江
鹿児島大学 木部 暢子
鹿児島放送局 品田 豊隆





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