遭 難 に 就 い て 横 田 和 雄
一人の人間が、その天寿を全うすることなく、突然の事故で他界すると云う事は、周囲の人に執って大きな衝撃である。
人はその生活を、自分の人生に対して最も有効でありたいと念っている。
此処に、サイドワークとして山に没頭し、山にその生命の歓びを見出している登山者が果して山で死んで幸いであるだろうか。傍観者がみれば、道楽で山へ行って死ぬとは愚の骨頂だとも云う。真にその通りで、返す言葉もない。然し又、東京の街中でさえ危険で何時死ぬかも判らない。好きな山に抱かれて死ぬ方が幸いであるかも知れない。
然しこれは何れも一方的な意見である。
個人としてならば、山に対しあらゆる手段を尽し、猶、刀折れ矢尽きて大自然に屈したならば、その人生に殉じ、その好きなな山に殉じた者として、いさぎよくあきらめもつくし、ある意味に於ては自己に対して有意義な人生であったろう。
然し人間は社会の一員として夫れ夫れに関係があり、社会に対して、自分の責任を持たなけれはならず、遭難により多くの人に迷惑を掛けるのは本意ではない。残念な事である。
山の危倹はたしかに多い。だからと云って山へ行くのは無責仕であると云うのは、人生の何かを理解しない者の言葉である。
人生は小心翼々たる虫になる事ではない。打算的には、最も馬鹿馬鹿しい行為ではあっても、自己の情熱を傾けて山に向った日々の、無形の得る物は大きく、人間らしい、内容のある人生と云えるのではないか。
そして、自らの青春に悔いのない生活を、美しき山々と共に回顧出来るだろう。
我々は山へ行く事を人生の道草であるとは考えない。
たしかに山には危険な要素が多い。
山へ行くからには、その遭難の可能性を意識して、あらゆる準備と心構えが必要である。遭難するつもりで山へ行く者は居ないが、丁度、戦中、空襲の初期、他人の家には爆弾が落ちても、自分の家だけは何となく被害がないような、根拠のない自信があったように、自分だけは何となく遭難しないような気分で、他人の遭難を身近なものと感せず、簡単に考えてしまう。
誰でも絶対に遭難しないとは断言出来ない。日常の生活に悔いのない生活を送り、山へも亦誤りのない山行を心掛ける事が必要で、常に万一の場合を覚悟する事が、山の遭難を無くし、山への真剣な態度となる。何と云っても遭難してしまえば全て終りである。常日頃、家庭の人として、職場の人としての責任を果し、よい生活を心掛けるべきである。真の山男は責任を回避すべきではない。職場、家庭、山仲間、そして自分自身に対しても無責任な行為は厳戒すべきである。