し ゃ く な げ に 思 う
                     ー山岳部のみなさんへー       大堀 照司

赤場からの帰途、真先きの胸突きを登り切り、一汗入れてなだらかな細道をはずみのついた足取りで横切りわたり、落葉松の樹影から久し振りにあったような気持で太陽を迎えた処で一休みする事にした。
幽蒼な脚下には滔々たる碧水が断崖を噛み、巨木を洗っているであろう様相がみるすべくもないが耳によみがえって来る。汗をぬぐった足下に照葉に露をきらつかせたしゃくなげが眼に入った。

しゃくなげは私の好きな花物の一ッである。さるすべりの肌のようであり乍ら、あれ程のあらわさがない。椿のようなしなやかさを想わせ乍ら、あれ程の葉っぱのわずらわしさがなく、枝は惜しげもなくその美しい姿態を見せてくれる。
泰山木のように見事な葉を、のびきった枝先きに行儀よくつけているが、あれ程の物々しさがない。全体に程よいまとまりがあり乍ら、しかもいじけた処がない。盆裁物としても、山から堀りとったそのままで、活花の何々流の宗家が手づから活けたもとの並べて遜色を見せるものは一ッも出ないであろう。

事程さように、この灌木の風姿は自然のまとまりに富んでいる。言い落したが花もいい。
冷気にめげず天に向って開く誹色の大柄な花形は君子菊のそれに似て冷気に惰せず、ひなげしの色彩の見事さをそなえ乍ら、あの弱々しさがない。
難を言えば匂いを持たない事だが、樹勢の見事さと深緑葉に映える花の色彩美がこれを補ってあまりある。

私は思はず手を延して、指程の太さの葉のつけ根を引っばって見た。あわよくば鉢にとってという一抹の期待を裏切るように、枝は腐葉土を無雑作に左右に掘り分け黄緑に濡れた木肌を段々と太らしながら1メートル程離れたコプシ大の樹幹を見せた大木に繋がっていった。髭毛程の根さえもつけていないうるおいに富んだ枝だった。

この高山に住み風雪に耐え、荒さに生きるしゃくなげが何が故にこれ程の見事な自然のまとまりを見せるのであろうか。しゃくなげと雖も生きている。落葉松の下蔭に生きるより、育ち越して太陽に少しでも近づきたいであろう、せめて椿に負けない位のドッシリした樹姿を見せたいであろう。
針金細工のような枝線を見せるより、どんな大風にも巍然と立ち向える樹勢を保ちたいであろう。そう欲し、そう努力しながら現実の生きる姿は、常にぎりぎりの妥協の中で己の生きる道を満喫し、見事な花を開いている。

山と言われる程の山は、自然法則の最も厳粛な履行者である。そこにはいさゝかの仮借もない。
一度山に入った以上「人間性の貴さ」等通用するのは、大海のケシ粒にも似た人間同士の間だけしかない。
山に生きようとする限り、常に自然法則とのギリギリの線での妥協しかない。
己れを誇らず、自然を愛し、己れを虚くして、自然の懐に入り込み、そこに己れの安息を求める。こんな心懸け特に己れの生命を懸けなければならない場合には最も強く要求される。
人間である以上吾々は他の生物に持たない意思と感情を持合せている。有難いようで邪魔になるのがこの意思と感情である。自然のカはこの人間の宝物等一切目も呉れない。それは実に無慈悲でもあり冷厳でもある。
然も人間である以上この「意思と感情」を失ってしまう事は、人間からの失格になる。最低限人間の宝物と守り乍ら自然法則との妥協を試みる。これは自然の力が強ければ強い程苦しい事になる。

例えば今回の吉田さんの場合を想起して見よう。一通りの山の常識を心得、一通りの山の経験を持った人が己れの生命を自然法則にプッツける段になって、その場その時の本人の感情、意思をどう統禦しようとしたであろうか?
どのような心理的葛藤を経てあの最後のコースに進発したのであろうか?
私はそこに山嶽部の皆さん一人一人によく思いをめぐらして載き度いものがある。
生命との対決、自然との取組み、その窮極の場における「意思と感情」の統禦は決局において個人が解決せざるを得ないものである。全員がリーダーであり全員が班員になる。そして誰もが突き当る現実の場は既に常識の域ではいかんともしがたい応用の場になってしまう。「意思と感情」を失わずにギリギリの線を自然法則との間に見つけ、そこに生きる道を見つける。そこには歌声を揃えて爽涼透徹した山気を縫う楽しさも、目的を達した満足感のみじんもない。
恐怖と自然法則の重圧と消えんばかりの人間意思の最後の相互作用が試みられるだけである。

そうした中で人間として生きるには矢張り、最後の相互作用に妥協を見つける本当の意味の智慧と才覚を山嶽人は持たなけれげなるまい。それは外来語を余計読める事ではないし、数字の処理が桁外れに多く出来るという事でもない。
まして金を余計もうける力でもない。全く人間として本当のギリギリの線を乗り越した見事さなのである。こうした見事さは、恐らくしゃくなげの示すまとまりのある美しさに通ずるものであろう。
そしてそうした美しさは決して座していてできあがるものではなく、自然の懐に入りこむ日常の山嶽部の一ッ々々の中から形成されて行くものであろう。山嶽行を口笛を吹き乍ら小川のほとりをさまようような気持で取り組む限り、決してしゃくなげの枯れた美しさは身につけようがないであろう。
山嶽部のみなさん。私は今度の赤湯捜索でみなさんのよい処の数々を体験して来ました。
そして更に私はそれ故に尚しゃくなげの美しさをみなさんに期待して止みません。
                                                 以 上


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