捜索本部を担当して 教育課 山中 博
「吉田さんは?」 「お休みです」 「どうしたの?」 「山え行ったんです。明日から出ます。」こんな会話は何回あったろうか。「又山え行くの、今度は何処?」 「今度は△△山」。「山って全く素晴しいわ、又写真をとって来るんだ」。こんな直接の会話も吉田さんと何回あったろうか。土曜、日曜、機会を見つけては山え行っていた吉田さん。我々はもう馴れっこになっていた。
8月21日出社せず“おかしい”という莫然とした疑問が小さな輪となって浮んだ。然しその輪はまだ小さかった。
が昼過ぎる頃からその輪は大きくなり、小さくなり動揺を初めて行った。「山岳部」、「安保課」 「健保組合」と。
山岳部に捜索命令が出された。21日夜出発だ。22日急拠勤労部会議開催、本部を前線に置き本社と連絡に当ることとなる。22日夜出発、山中、柿沼、井上及吉田兄姉の5名。かくして越後湯沢に遭難捜索本部が設置された訳である。
私としても初めての捜索本部であるし、又山岳遭難の経験もない。適切な指令が出来るや否や疑わしいが凡ゆる客観条件を網羅し判断する丈だと腹を決めて出発した。
湯沢駅頭の湯沢派出所市川氏と高波吾策さんとの状況確認と推定及び今後の方針の打合実施。
湯沢派出所に於ける新たな情報の蒐集によれば「吉田さんは未確認だが、苗場山迄は問題はなく、苗場山から赤湯に向う昌次新道の中途に貝掛えの導標があり、その導標にも“単独行者18日貝掛え行く”としてある」。とのことで、我々は苗場山よりコースをとつたことは間違いなしとし、赤湯よりのコースをとることゝした。
直ちに後閑の柿沼、井上君(当初の計画では後閑からバスを利用して三国を経て湯沢に来る予定) に対し、次の列車による湯沢直行の指示を与える。又高波氏に対しても捜索援助を依頼した。
宿舎に入り第一報を本社に電話する。午前9時。11時の三国行バスの出発が迫って来る。11時着の列車で柿沼、井上君が来る。吾策さんは何時で来るか。吉田兄姉も宿舎で待っていても仕方がないと云う。直ちに行かねばならない。
じっとしてはいられないのだ。一刻も早く筆跡鑑定が必要だ。捜索範囲を縮めねばならない。未確認乍らも確率の大なるものえと決断し実行することが必要なのだ。
11時列車が着く。柿沼、井上両君来る。吾策さんと屈強の青年(小林さん)が来る。ほっとする。
六日町署よりジープが折よく来る。直ちに吉田兄姉、柿沼、井上、高波氏等便乗して出発。
私と六日町署N氏は宿舎に残る。休む間もなく六日町署より電話。「苗場山頂での吉田さんの確認者が現れ、18日に昌次新道に出発していることも確認、愈々メモの信実性がクローズ・アップされた。又写真もある」とのこと愈々苗場より赤湯迄の間に焦点がしぼられていった。ジープが出発して僅か5分〜10分の違いである。何とかジープの部隊に連絡をつけねばならない。三俣派出所に電話、通ぜず。二居の役場に長距離電話。漸くに連絡をつけ待つように指示。序で車の手配、消防団副団長が運転の上乗用車を廻してくれる(注、消防副団長は湯沢タクシーの常務である。ニ居の消防団出動の問題ありと判断し、特に自分で来られた由、蔭になってよく援助してくれた方である)
直ちに出発、二居役場で総合打合の結果、消防団には出動準備を依頼し吉田兄姉はメモ確認を急ぐこととなり、柿沼、井上、高波氏等と赤湯に向け出発、私は湯沢の本部えと引返した。
以上が本部第一日の行動である。此の間本社からは再三に亘って電話があったらしい。午前9時に第一報が発せられてより夕刻迄本社では大分ヤキモキしたらしい。本部は動いては駄目だと云はれるが、上述のような情勢の変化は刻々と来るものなのである。
以上割に知られていない事実をお知らせしておきます。
尚、今度の吉田さんの不慮の捜難に就いて及び捜索隊の行動に就いて気のついたことを断片的に書き筆を欄きます。
〇 一度、二度、三度・・・・大丈夫。然し単独行は止めたいものです。「吉田さん僕等は二度と単独行をしないこと
を誓います。それが貴女に対する最も良い追悼の言葉だと思いますから」。
○ 本部も2名、連絡も2名、捜索も2名以上。・・・ このことはようく解りました。
○ 唯通りいっペんの人情では人は動けない。義務でも動けない。 まして金銭においては。
捜索隊に参加した人も留守部隊の人も山を愛し、人を愛する 気持のみで動き得た。
吉田さん貴女には悪いが、石川島の人々の心の暖さをしみじみ味わされ、嬉しくて仕方ありません。
○ 捜索には現地の交通状況、電信電話の状況、宿泊施設及び物資 補給資設、警察、役場及応援依頼可能
の有無、土地に精通した案内人の有無等先づ確認の上、総合計画が必要である。
今回の捜索には
@電信電話では警察電話、市外電話、東京電力連絡電話が十二分に利用出来たこと。
Aバス、ハイヤー、トラック等の利用により機動力が発揮出来たこと。
B土地の警察、役場及東京電刀関係者(下請関係も含めて−大東建設)が好意的であったこと。
C土地案内人に高波、山口、小林さん等立派な人々を得たこと。
D応援物資も宿舎の厚意により直ちに手配出来たこと。
があげられようが、勿論吉田さんの貴重なメモが発見を早め、又山岳部員を初めとする関係者全員の心の結合が
発見を早めたとも云い得ることを忘れてはならない。
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