遺 体 発 見 の 日     連絡員として
                                  柿沼 弘太郎,井上 武 夫

 8月25日 まだ完全に明けきらぬ霧の山へ向って低い金属音を河原の石に残し乍ら、最後の捜索に出発した山岳部員を見送ってからどれ位時間がたっただろうか。雨がひとしきり降ってしばらく止み、そして再び激しく降り始めたのを覚えている。赤湯をとり巻く山肌が遠近を失って白く霞み、前の渓流が濁って音を高めていた。

捜索を開始して既に4日目。
ポータブルラジオは折からの17号台風の動きを刻々報じ、山岳地帯の荒れ始めることを告げていた。それに何より捜索に連日出勤している山岳部員の疲労を心配しなければならない時期だった。連日の雨で濡れきった服装のまゝで充分の睡眠もとらず、栄養の少ない山の湯の食事だけでこれ以上に捜索を続行することは、山岳部員自身に危険をもたらす事態であることを、山の素人の私達にも自ずと感ずることが出来た。昨夜の捜索会議の結果、今日の捜索に私達のすべての、そして最後の望みを託さなければならなかったのである。
山からの連絡がないまゝ昼がゆっくり過ぎて行った。待機する私達の焦燥の中で希望と絶望が絶え間なく交錯して流れた。それからまたしばらくの時が経過した。しかし山からは依然として連絡はなかった。いつしか空しくその日も暮れようとし、私達は宿の二階の一偶で互に話す言葉もなく、唯しめっほい感傷を歯むだけだった。

「遺体発見」の知らせはその様な中で受けとったのである。
二階にいた私達にそれを告げに来たあの時の後藤さんの緊張した顔と声は忘れられない。たまたま下の母屋に行っていてそこでずぶ濡れで走り帰った赤湯の若主人からその知らせを聞いたのである。二階をかけ上って来て息づまる様な切実感を感じさせ乍ら、「見つかりました」と私達に告げたあの瞬間・・・短いが激しい沈黙の中で私達はすべてを理解しなければならなかった。きびしい「せんりつ」に似たものが体中を走った。今まであらゆる努力をして否定しつゞけて来たあの絶望は現実となった。

走り降りた私達の眼に母屋の縁側にしよう然と立ちつくす赤湯の主人とその足許のリックが飛ひ込んだ。持ち帰えられたその遺品のリックは横がさけ、中からビニールがのぞいていた。山馴れた故人が最後の装備をし終り、その持物を全部それに包んだのだろう。さけたリックは吉田さんの遭難が墜落であることを無言で告げていた。
それからどうして私達二人が赤湯を出たのかもう記憶にない。
とに角、早く電話のあるダム工事現場まで下ってそこから湯沢の本部へ連結しなければならないと言う義務感だけが頭にあった。たそがれかけた山に雨脚がひときわ激しくやって来て私達を頭から濡らして行った。何回転んだことだろう。
滑った体を支えようとして握った笹で何度手から血がにじみ出ただろう。山の紅葉がぐらぐら揺れると、坂道はいつしか川になっていた。泥が盛んにはね返った。
人気の全くない山道に、しかし不思議に悲しさも淋しさも感じなかった。冷さも、そして疲労すら感じない様に頭と
体が澄み切って水になってしまった気持だった。前日もその前日も休み休み連絡のために上下したこの山道に
私達は遂に休むことを忘れて歩いた。
最後の沢を渡った頃は、あたりに夕やみが迫っていた。そしてしばらくの樹林の陰の暗さを抜け出るところにダム工事現場が開け、暖い灯が見えた。

大東建設のダム工事現場の電話で私達は湯沢へ連絡した。電話口で話す自分自身の言葉の中で始めて事実を確認している様な気持がした。 『8月25日午后3時頃、苗場山棒沢・千丈岩附近で遺体発見。発見者は赤湯主人。死因は約80米からの墜落と推定・・・・・・』
ダム工事の事務所の人は心から我々を歓待してくれた。遭難と言うものに対する同情もあったのかも知れない。
しかし、その親切は濡れた私達の心に暖くしみ入った。すゝめられるまゝに私達は一番風呂に入り、そして久し振
りの暖い豊富な夕飯に満腹した。その夜、私達はそこへ泊った・・・雨がひどく夜道の帰りは危険だったので・・・
夜の更けるに従い雨は嵐となった。雨と清津の流れがすさまじい音を立て、私達のいる事務所を揺さぶった。眠れぬまゝに私達はその夜今度の遭難を静かに考えた。思えば考えると言うことはこゝ数日来の私達に久し振りの甦りであった。

あの人は山をこよなく愛した。そして一人で山に登り孤独な山旅の中で静かに自分を深めて行った。そして不幸にして逝った。今私達は一体何をなげき何を悲しんだらよいのか・・・・吉田さんが何を胸に抱いて山に登り死の瞬間に何を考えようとしたのか・・・・しかもその時に私達は一体何が出来たと言うのか・・・・・・私達の可能性は唯この雨でたゝかれ乍ら棒沢に横たわる吉田さんを早く葬ってあげることだけではないのか・・・・何故とか、あゝすればとか・・・・そんな一切の仮定はなぐりつけたかった。一人の人間の死〜唯それだけが今の私達の確実な現実のすべてだった。雨に打たれた破れたあのリックだけが不思議に脳裏にこびりついて離れなかった。しかし吉田さんの遺体は何故か想像することが出来なかった・・・・

一日おいて27日の朝 嵐の去った上越国境の山なみは既に麓から頂きに昇るにつれてその山肌に秋の色を探め乍ら澄んだ空に浮び上っていた。
私達は湯沢から来た山中さん、吉田さんの兄姉それに検死の巡査と共に、ダピを予定してガソリンを下げて山に向った。
その途中、夜中から起き出し遺体を守り乍ら山を降りて来た山岳部の人達にあったのである。
ボンチョに包んだ遺体が痛々しかった。遺体の上にそっと飾られた可燐な秋の草が揺れていた。
静かな祈りの中に私達は人間の運命を翻弄するものへのいきどおりを押えることが出来なかった。

透明に澄んだ国境の空は、人間のはかなさを象徴する様に淡い青で、白い秋の雲がさらさらと流れていた。
『雪山讃歌』がゆるやかに流れて行った。そして私達は静かに山を下った。
捜索に行った者には行った者だけに判り、行かない者には決して判らない或る悲しみと、はかなさがあるものである。


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