捜索隊員と赤湯に同行して
厚生課 後藤 雄二郎
宿で出されるおかずが三度三度、一握りほどのふき料理におつゆ、わずかに湯沢から持って行った缶詰がこの上もない御馳走であった赤湯とは、その名の通り手ぬぐいが赤茶色に染まる河原の露天の温泉で、旅館といっても山小屋にすこし毛がはえた程度のものが一軒だけという誠にさびしい処であった。
この赤湯に8月24日から27日迄捜索隊と同行して吉田さんの捜索及び遺体収容のため過した私が特に感銘を
受けたことは、最初に出発した第一次捜索隊員が疲労に屈せず最後迄ねばり強く活動したことや、又第二次捜索隊員の中の貝掛林道班が昼間の捜索行動のあとにも拘らず、その日の中に雨中を夜おそく赤湯まで追及して来にことなど例をあげればきりはないのであるが、捜索に当つた山岳部員全部が連日の雨の中を長期間の肉体的及び精神的疲労を克服してリーダーの指揮の下に最後まで団結して、一糸みだれない行動をとられたことであり、単なる山男の集まりとしか考えていなかったこれまでの私の認識の浅さを是正させられたことをまず率直に記しておきたい。
又この間、山に不慣れな我々勤労部関係者に対して寄せられた山岳部員の親切味のあふれる取扱いに対して、ここに紙上をお借りして厚くお礼を申し上げる次第である。
然しここで特に山が好きでよく山に行かれる方達に考えていただきたいと思うことは、よく「俺は山が好きだから山
で死ぬのは本望だ」と放言する人を時々見かけることである。御本人が山で行方不明になってから運良く(?)
遺体が発見され葬儀がとどこおりなく行われたとしても、或いは運が悪くて行方不明のままになってしまう場合に
しても、御遺族の方々のおなげきは勿論のことではあるが、捜索その他のため親戚や知人、同僚はもとより余り
縁もゆかりもない人々に与える多くの御迷惑、更には多大の捜索費用等有形無形上の損失を考えると、かりそめ
にも本望だなどと考え、又は口走ることができるであろうか。
山に登る方達に特に慎重に計画し行動していただきたいことを念願してあえてこのようなことを書いたわけである。
さて吉田さんとは山中湖のわかさぎ釣りや相模川の鮎釣りに二、三度出かけたり、又同じ勤労部の部屋にいたために時には、冗談を言い合う間柄であった私が、今回の遭難に際して捜索のために赤湯に行くことになった時には何か浅からぬ因縁というものを感じ、又私が行けば必ず吉田さんを見つけることができるという予感が胸中に湧き起るのを禁じ得なかった。
しかし遂に生存している吉田さんに会うことができなかったことは、27日の遺体収容中に一名の頭部負傷者を出したことと共に、かえすがえすも残念なことであった。ただ捜索の最終日と予定していた25日の午后3時頃に棒沢において遺体が赤湯旅館主人の山口氏によって発見され、その翌々日の27日無事に湯沢迄運ばれてお骨にすることができたことは、せめてもの慰さめであり、之は山岳部員はもとより特に捜索に加わっていただいた国鉄の土樽山の家の管理人である高波吾策氏及び小林氏並びに前記の山口氏その他各方面の捜索に御協力をいただいた多くの方々の努力のたまものであったと確信している。
「谷川岳の高波さん」としてあまりにも有名な高波吾策氏とは今回始めて赤湯でお目にかかったのであるが、その穏かな人となりや経験に満ち満ちた話し振りと、自信のあふれた行動、又お酒が入った時の好々爺然たる風貌は我々を引きつけずには置かないものがあり、「吾策さん、吾策さん」と誰からも親しまれ信頼されていた。又山口さんは年は若いが非常におとなしい真面目な方で、我々捜索隊員や吉田さんの御遺族の方々に対する数々の御配慮は誠に感謝に堪えないものがあった。
そしてこのような立派な方々と今回のことを機会に親しくおつき合いができたことは、思いがけない大きな副産物であった。
そのほか当時を回顧すると、25日には連休を発見したけれども夕方のためその日に収容できないで翌日に延ば
したところが、その晩からの台風による清津川の増水で26日は一日中赤湯にとじこめられ、その間、遺体が流されてしまうのではないかとはらはらしていたこと。27日の遺体収容および湯沢への引揚げに際して味わった色々の苦労。或いは私が遺体のそばから拾った棒沢の小石を吉田さんのお姉さんに差し上げたことなど、
書きたいことはたくさんあるがこのあたりで筆を止めることにしたい。
終りに臨んで御遺族の方々の御多幸を祈ると共に、今回の吉田さんの遭難に際して寄せられた多くの方々のお力添えに対してここにあらためて御礼を申し上げる次第である。
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