みんなの広場
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 アクセスされた方々との交流の場です。今月は次の三項目を取り上げました。先月の「みんなの広場」は「12 改訂履歴とみんなの広場(バックナンバー)」に移しました。
 7月は暑い日が続きました。20日頃、梅雨が明けたとの発表がありました。雨が少ないと、今度は夏の渇水が心配されます。
1. 「今月の追加内容」など
 1.1 今月の追加内容
  今月追加した内容の、ご紹介です。
 1.2 新聞の記事から
  筑波大学教授(元東京都美術館学芸員)、斉藤 泰嘉さんの「美術館の火ともした石炭商」という東京都美術館の基礎を作られた佐藤慶太郎さんを紹介した記事を採り上げました。米国の各都市にある主な美術館が、財界からの寄付により作られたことを知り、日本の例として貴重な情報だと思います。
2. 7月のトピックス
 7月の主なトピックスをご紹介します。
 2.1 ヴェルディ・レクエム
  7月26日、岩森美里さんがメゾ・ソプラノを、コーラス仲間が合唱で出演し、皆で聴きに行きました。
 2.2 日本民藝館
  井の頭線駒場東大前にある日本民藝館に行ってきました。右の写真は建物の前景です。
3. 来月の予定
 今、来月に向けて計画していることを、お知らせします。

1. 「今月の追加内容」など
 1.1 「今月の追加内容」
 「V Age Club」の「新書を読む会」が発足したのは2000年の2月です。以来月にほぼ1册の割で新書を読み、今年の6月で百册の新書を読みました。そこで「読み終えた新書100册」の表を追加しました。
 「8 ウオーキング・旅行」に追加した「37 アメリカ東海岸 美術紀行」は、先月(2008年6月)訪れた、米国東海岸の4都市の印象をまとめたものです。
 「9 趣味」「3. 美術」「2. 絵画作品集」に追加した「26 果物とコーヒー挽き」は、2008年4月)のグループ展に出品した油絵(3作目)のご紹介です。
 「11 興味あるリンク」には、「10.2 絵画」に「10.2.17 ボストン美術館」と「10.2.18 名古屋ボストン美術館」を追加しました。いずれも、上記の「37 アメリカ東海岸 美術紀行」に関係する項目で、今回の旅行には多くの関連したホームページがあります。訪問した4つの都市、5つの美術館のほか訪ねた施設毎に必要ですが、まず最初の訪問地に関係する2項目を採り上げました。
 なおグーグル・マップやグーグル・アースで旅行の追体験ができますが、次回以降に採り上げたいと思います。

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 1.2 新聞の記事から 「美術館の火ともした石炭商」       斉藤 泰嘉
    上野に日本で初めて建設 全費用寄付した佐藤慶太郎


 日本に初めて美術品展示専用の恒常的な施設が誕生したのは1926年(大正15年)のことである。この年の5月1日、現在は「上野の美術館」の愛称で親しまれている東京都美術館が上野公園内に東京府美術館の名で開館した。
 太平洋戦争が終わる45年までの20年間に、ここで開催された展覧会は769本、総入揚者数は約千2百万人。日本の美術文化発展に大きな役割を果たしたこの美術館の建設費百万円は、全額が一人の実業家の寄付によって賄われた。
                                           ◎ ● ○
 北九州で財をなす
 北九州の港町、若松で石炭販売と炭鉱経営によって財をなし「石炭の神様」と呼ばれた佐藤慶太郎(1868〜1940年)がその人である。日本美術界の大恩人である彼の生涯を、私は80年代半ばから20年以上にわたって調べてきた。
 私が佐藤慶太郎の存在を知ったのは、80年に東京都美術館の学芸員になってからのこと。佐藤が寄付した百万円は、現在の約33億円に当たる。「美術界と全く関係のない九州の石炭商がなぜ?」という素朴な好奇心から調査を始めた。
 86年8月、東京・高田馬揚の日本点字図書館に専務理事の加藤善徳氏を訪ねた。加藤氏は佐藤の生き方に共鳴し、晩年の彼と行動を共にした人物。佐藤の伝記を戦前に1回、戦後に2回執筆されていて、お会いした時は数えで80歳だった。
 私が佐藤の生涯と美術館建設費寄付の経緯について質問すると、加藤氏は非常に丁寧に答えてくださった。だがいま思うと、その胸中は複雑だったのかもしれない。
 東京都美術館はこの時すでに新館に建て替わり、佐藤の寄付で建てられた建物は姿を消していた。以前は玄関に置かれていた佐藤の銅像も地下の収蔵庫にしまわれていた。佐藤の功績を忘れたかのような都美術館から、教えを請う学芸員がやってきたのである。
 1年後に加藤氏は他界された。私はご遺族から貴重な関連資料をお譲りいただき、その後、生前の佐藤を知る方々を訪ねてお話を伺った。東京都現代美術館を経て96年に筑波大学に移って以降は、当時の新聞などの文献調査にも取り組んだ。
 北九州の庄屋の家筋に生まれた佐藤慶太郎は、数えで33歳の時、勤めていた石炭商の店から独立して自分の店を構える。石炭の性質や分布、採掘技術、取引の実態などを熱心に研究し、その精通ぶりから「石炭の神様」と呼ばれた。
                                           ◎ ● ○
 終生カーネギー尊敬
 その佐藤が終生尊敬したのが、米国の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーだった。事業で築いた資産を芸術文化や教育への寄付にあてたカーネギーは、佐藤が独立したころ、日本でも新聞や雑誌に取り上げられ始めていた。佐藤は出版されたばかりの伝記を読み、「生涯消えぬ感動を与えられた」と後に記している。
 21年3月17日朝、佐藤は滞在していた東京 の旅館で、「時事新報」という新聞に掲載された 「常設美術館」と題する社説を目にする。
 「西洋の大都市には常設美術館があるのに日本にはない。平和博覧会を機に20万円で一時的な美術館を設けると聞くが、常設美術館の建築に必要な経費は百万円。富豪や美術家の協力で80万円を加え、建築を実行せよ」との趣旨だった。
 これを読んだ佐藤は、その日の午前中に東京府の阿部浩知事を訪ねて百万円の寄付を申し出た。翌月、佐藤が半紙二枚につづった寄付願が書留郵便で担当係に届く。2年後に関東大震災が発生し、美術館建設は東京復興の先駆けの意味も帯びることになった。
 晩年の佐藤はさらに私財百50万円を投じ、人々の生活習慣の改善を目指す「佐藤新興生活館」という組織を設立した。東京・神田駿河台にあった本部ビルは現在、山の上ホテルになっている。
                                           ◎ ● ○  
収蔵庫から銅像復活
 なぜ佐藤は社説を読んですぐに寄付を決断したのか。その前年に佐藤は主治医から、胃腸病の悪化を理由に事業から引退するよう言われていた。経済人を退くにあたっての「卒業制作」として、日本初の常設美術館を造りたいという気になったのではないだろうか。
 私は研究をまとめた論文で2003年に博士号を取得、このほど集大成となる「佐藤慶太郎伝」(石風社)を刊行した。
 01年3月、それまで20数年間も収蔵庫で眠っていた佐藤の銅像が東京都美術館のロビーに復活した。経済人として得た資産をどう使うかを考え続けた佐藤の生涯は、多くの人にとって参考になるのでほないだろうか。   (さいとう・やすよし=筑波大学教授)
(出典 日本経済新聞 08.7.30)

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2. 7月のトピックス
 7月の主なトピックスをご紹介します。
 2.1 ヴェルディ・レクエム
  7月26日、サントリーホールでヴェルディのレクエムの演奏がありました。指揮は小松一彦さん、独唱は佐々木典子(ソプラノ)、岩森美里(メゾ・ソプラノ)、中鉢 聡(テノール)、福島 明也(バリトン)の各氏です。合唱としては、混声合唱団コール・ミレニアム、和光市合唱団、四季の会、東大和市市民合唱団「第九を歌う会」、コールジュピターの混成です。岩森美里さんが我々がコーラスを習っている岩森先生のお嬢さんなのと、コーラス仲間が二人、合唱に出演するので、仲間10名余りで聴きに行きました。
 知っているメロディーが幾つかあったのと、解説と歌詞の対訳を読んでいると、おおよその進行は理解でき、最後まで楽しく聴くことができました。
 2.2 日本民藝館
  日本民藝館には前から行きたいと思っていました。たまたま渋谷に行く用事があり、時間があったので行ってきました。常設展示の他、特別展として浜田庄司没後30年記念の作品展も見ることができました。建物は静かな住宅地にあり、初代館長の柳宗悦の旧宅も道の向かいに建っています。民藝運動の本拠として1936年10月に大原孫三郎氏らの援助のもとに開館したそうです。日本および海外諸国の陶磁器をはじめ、織物、木漆工など多くの工芸品が集められています。民藝運動の同志であったバーナード・リーチ、河井寛次郎、浜田庄司、芹沢_介、棟方志功ら個人作家の作品も集められています。

3. 来月の予定
 来月は次のような項目を予定しています。
 3.1 本の紹介
  福岡伸一著「生物と無生物のあいだ(講談社現代新書)」をご紹介したいと思っています。
 3.2 趣味
  4月に油絵展に出品した4番目の作品をご覧に入れるつもりです。
 3.3 リンク集
  「興味あるリンク」を、少しずつ追加したいと思っています。

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[Last Updated 8/31/2008]