アラスカ 光と風

  目 次

1. まえおき
2. 目 次
3. 概 要
4. あとがき
5. この本を読んで


星野道夫(ほしのみちお)著
福音舘日曜日文庫

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1.まえおき
 この本は、星野道夫さんの初期の本です。初めてアラスカの村を訪ねたシシュマレフ村、カリブー、オーロラ、クジラ漁などを撮影したときのことなどを書いています。またエスキモーやインディアンとの交流も、書かれています。彼の撮った写真の数々が、どのような旅行の成果だったかが解ります。冒険家の一面が良く示されています。

2. 目次
シシュマレフ村…………………………………………3
カリブーを追って………………………………………55
氷の国ヘ グレイシャーベイヘの旅…………………109
オーロラを求めて…………………………………… 161
北極への門 ブルックス山脈の山旅……………… 211
クジラの民……………………………………………249
新しい旅…………………………………………… 301

あとがき……………………………………………  320
地 図……………………………………………… 322

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3. 概 要 
シシュマレフ村
T 1971年
 作者が初めてアラスカを訪問したときの経緯(いきさつ)です。どのようにしてアラスカを訪問するようになったのでしょうか。
1. 高校生の頃、信州の農家でアラスカの地図が載っている新聞を読む。
2. 神田の古本屋でナショナル・ジオグラフィツク・ソサエティの発行したアラスカの本を購入する。
3. その本に載っていたShishmarefという小さなエスキモーの村の空撮の写真が気にかかるようになった。
4. ホームステイしたいとの希望を書いた手紙を出した。
5. 忘れた頃、受け入れるとの手紙を受け取る。
 1971年6月に郵便飛行機でシシュマレフ村に着きます。手紙をくれたクリフォードが村はずれのストリップ(滑走路)で待っていてくれました。シシュマレフ村はベーリング海に面した、砂州(さす)のような本当に小さな島でした。
 家族は次の通りです。
ウギ(クリフォードの祖母)
アレックス(クリフォードの父親)
アルスィ(クリフォードの母親)
クリフォード(36才)
シュアリ(奥さん)
ティナ(3才)
ジョンボーイ(生後2日)
スタンレー(16才 アレックスとアルスィの養子、つまりクリフォードの兄弟)
ケイト(女性 16才 同上)
ローリー(女性 14才 同上)
 家の中には、強烈な匂いがしみこんでいました。アザラシ、カリブー(大鹿)、魚の干し肉や、毛皮の匂いが渾然一体(こんぜんいったい)になったものです。
 浜辺に出ると、クリフォードの母親のアルスィがアザラシの解体をしていました。海は海岸エスキモーにとって、さまざまな食べ物を授(さず)けてくれる豊穣(ほうじょう)の世界です。海洋動物中、いくつかの種類のアザラシ、シロイルカがその中心です。
 海に囲まれたシシュマレフ村は、本当に猫の額(ひたい)ほどの島です。島の東からは海を隔(へだ)ててアラスカ本土を見ることができます。村の人口は約2百人です。
 アザラシ漁が終わって、しばらくしてレインディア(トナカイの一種)の角切りの時期になりました。アラスカ本土にいる半野生化したレインディアを柵に追い込み、その角を切ってゆきます。
 その後はカリブーとムースの狩猟です。ひと夏をこの村ですごし、ここは豊かな土地だということを知りました。
 土地を去る前に、動物の毛皮でつくったエスキモーの伝統的なパーカーが欲しくて、アルスィに頼んで作って貰いました。

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U 1981年(シシュマレフ再訪)
 1978年からアラスカに住みつきますが、10年後に再訪します。シシュマレフ村は少し建物が増えたほかは、ほとんど昔のままでした。ティナとジョンボーイはすっかり大きくなっていました。
 きれいな娘だったケイトは村を出てから酒と薬(やく)におぼれ、村に帰ってから自殺したそうです。この50年間のエスキモー社会の変貌(へんぼう)は目まぐるしいものがあり、言葉はとくに大きなものです。米国の原住民政策の一環として英語が強要され、エスキモー語は消えようとしています。
 10年前と同じようにカリブーやセイウチの狩猟に出掛け、レインディアの角切りにも参加しました。前と違っているのはジョンボーイが加わっていることです。

カリブーを追って
T 鳥類学者、デイブ・スワンソン
 はじめてデイブ・スワンソンに会ったのは、1978年の夏の終わりでした。デイブがフェアバンクスに帰っていることを聞いて、丸太小屋に彼を訪ねました。自己紹介をして彼のやっている北極海の海鳥の調査に連れていってくれと頼みました。翌日午後の電話で、連れていってもらえることになりました。彼がアラスカでは五指に入る鳥類学者であることは後で知りました。
 ケープトンプソン(ベーリング海と北極海とがぶつかる海域に突き出た小さな岬[みさき])までセスナで行きます。飛行機は二人を置いて2週間後の再会を約して飛び立ちます。ここはウミネコ、ウミガラス、ツノメドリなどの海鳥の、北極圏最大の繁殖地(はんしょくち)です。2週間でやることは、前の2種類の海鳥の繁殖状態と数を調べることです。霧に包まれる日が何日かありましたが、調査は順調に進みました。夜や天気の悪い日にデイブから聞いた話のなかで、カリブーの季節移動の話が興味をそそり、撮影のなかで大きなテーマの一つになるような漠然とした予感がありました。
U カリブーを追って
 ケープトンプソンに行った翌年の春、カリブーの季節移動の撮影の旅行に出掛けました。ブルース・ハドソン(アラスカ北極圏を自由に飛べる、数少ないブッシュパイロット[エスキモーやインディアンの村の間で、人や物資を運んだり、アラスカの僻地(へきち)を飛行するパイロット])の操縦するセスナ機に乗って、東部アラスカ北極圏ブルックス山脈に向かいます。カリブーがいつどのコースを通るのか、はっきり解らず、デイブに聞いた情報をたよりに、1ヶ月半一人で過ごさねばなりません。ブルックス山脈が次第に近づいてきました。セスナは谷あいに入っていきました。凍結した川岸の雪原に着陸しました。持ち込んだ装備はカメラ、テント、炊事道具、食料、燃料等多岐にわたり、かなりの量です。凍結した川岸にテントを張りました。
 春は駆け足でやってきました。しかしある日、一陣の風が吹いたと思うと、それはブリザードの前ぶりでした。最初はセンターポールにしがみついていましたが、テントが引き裂かれることを恐れて、ポールを外しました。疲れて寝込んでしまいましたが、目が覚めると朝で、24時間吹き荒れたブリザードがウソのようで、風はやんでいました。
 ある日の午後、谷あいの山の上から黒い点が飛び出してきました。黒い点は一本の線になり近づいてきました。始めてみるカリブーの季節移動です。この日から毎日のように小さな群が谷を通り過ぎて行きました。
 ある朝、いつものように朝食を作っているとき、山の彼方(かなた)に、かすかな小型飛行機の音を聞きました。ブルース・ハドソンの乗ったセスナ機で「たくさんのカリブーが山の南側にいる」とのメッセージを落としてくれました。
 ある日、ふたたび風の強い夜になりました。みるまにブリザードになり、寝る前に寝袋に入ったまま外を見ると、山の稜線に何かが動いています。一列になって、たしかに動いています。一瞬、風の切れ目がオレンジ色のベールをぬぐい去り、カリブーのシルエットが逆光に浮かび上がりました。風に飛ばされそうになりながら夢中でシャッターを切りました。
 ブルースが迎えに来てくれる日が来ました。荷物を積んで、飛行機は飛び立ちました。1ヶ月半、歩き回った山々を目で追いました。

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氷の国ヘ グレイシャーベイヘの旅
 アラスカに移り住んで2年目の5月、グレイシャーベイにカヤックでいどみました。グレイシャーベイは東南アラスカに位置し、海抜4千メートルにもおよぶフェアウエザー山脈に囲まれ、いくつもの氷河がそこから流れ込み、百キロにもおよぶ複雑なフィヨルドを囲みこむ氷河の海です。
 グレイシャーベイの奧に入って行くには、カヤック以外に方法がありません。気持ちの良い小さな入り江を見つけ、ここを1日目のキャンプ地としました。
 この旅行を準備しているとき、フレッド・ディーン教授から熊の話を聞きました。熊に関する二つの事件を教えてくれました。一つはある写真家が手首だけを残して消えてしまった話。もう一つは浜辺でキャンプしていた男が、夜眠っているとき何かを鼻先に感じ、目を開けたらグリズリー(灰色熊)の鼻で、恐ろしさに身動きもできないでいると、熊が立ち去ったとのこと。
 1週間もすると、氷河の末端が見えてきました。氷河の手前に小さな島があり、カヤックから出ようとすると、氷河の前面が幅百メートルにわたっていっせいに崩(くず)れだしました。小さな津波がこちらに向かって来ました。重いカヤックをあわてて浜に引きずり上げました。しかし、もう間に合わず、ぼくもカヤックもずぶぬれになってしまいました。荷物のほとんどを防水性の袋に入れてあったのが不幸中の幸いです。
 2週間もすると、カヤックを漕ぐのもうまくなり、疲れず楽しくなってきました。ザトウクジラやシャチがカヤックの直ぐ近くを通り過ぎてゆきました。
 グレイシャーベイは内海のせいか、時化(しけ)になることはめったにありませんでした。ある日の午後、キャンプを張ったあと、二、三時間のつもりで海に出ました。少し遠出をして、予定の時間をオーバーしながら帰途(きと)につきました。暗雲が空をおおいはじめ、突然風が吹きだしました。海面のざわめきは波に変わり、波は白く崩れはじめました。ひたすら漕いでも、カヤックは揺れているだけで前には進みません。やっとの思いで岬をまわりこむと、波は弱まっていました。
 潮位の変化によって、月に一度ギルバート湾から直接ジョンホプキンス湾に出られる時間があることがわかっていました。その月の最も満ち潮の水位が高い日の数時間です。ギルバート湾とジョンホプキンス湾にまたがる陸地に、わずか数時間だけ川ができ、ここを通って反対側に出られるのです。距離にして約2キロです。その日の満潮時刻は夜中の1時です。その日は夕方から寝て、10時に起きました。テントを畳み、荷物をカヤックに積んで夜の海に漕ぎ出しました。予想以上に時間がかかり、対岸に着いたときはすでに満潮になっていました。夜の海を1時間近く右往左往して、やっとそれらしい流れを見つけることができました。幅は5〜6メートルほどでした。やっと抜けることができ3日間、時間を節約することができました。
 ジョンホプキンスの風景はすさまじいものでした。海は氷塊で埋めつくされ、氷河の末端からは絶えず氷が崩れおち海に流れ出ています。緑がまったくなく、氷と岩だけの荒涼たる世界です。
 グレイシャーベイには、氷河の後退により、氷河以前の木がそのまま露出している場所がたくさんあります。ぼくは陸に上がるとき、この地域の激しい潮の干満に備えて、カヤックのロープを必ず木か石に結びつけておきます。しかし、なぜかこの日は違って、ロープの先で輪をつくり、水際からかなり離れた岩に軽く引っかけただけで歩き始めました。古木は見つかり撮影も無事に終わりました。急にカヤックが気になり走るように山を下りました。浜辺に着いてがくぜんとしました。不安は的中し、カヤックは今や岸から手の届かないところにぽっかりと浮いています。しかも、ゆっくりと流されはじめています。今ここでカヤックを失ったら、完全に孤立してしまいます。そのまま水に飛び込みました。一瞬息が止まらんばかりの異常な冷たさでした。「この海に落ちたら15分でおしまいだ」と土地の人に言われていたのに身をもって体験してしまいました。
 最後の目的地ワチュセット湾から戻るとき、カヤックに乗った人に会いました。この旅ではじめて会うカリフォルニアから来た若い奴で、すぐに意気投合し、夜のキャンプを一緒に過ごしました。

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オーロラを求めて
 冬のアラスカ山脈にオーロラの撮影(さつえい)に、はいろうとしていました。アラスカ鉄道の北の終点フェアバンクスからタルキートナまで行き、そこからセスナにスキーをつけてマッキンレー山(北アメリカの最高峰[さいこうほう])の南面にはいる計画です。タルキートナは、アンカレッジの北、約150キロほどにある小さな村です。そこにはブッシュパイロットのアーニーがおり、彼と計画を再吟味(さいぎんみ)するためです。
 何年もの間オーロラの撮影をしてきた著者は、マッキンレー山をバックにしてオーロラを撮(と)りたいという衝動(しょうどう)にかられるようになり、マッキンレー山の南面から伸びるトコシトナ氷河末端(ひょうがまったん)付近の地域を選びました。
 オーロラ。この不可思議(ふかしぎ)な自然現象。北の空から現れ、次第にその輝(かがやき)きを増し、まるで生き物のように天空を駆けめぐる冷たい炎(ほのお)。それはまず冬の到来を告げ、その輝きを次第に失いながら春の訪れを知らせてくれます。
 オーロラを撮影する場合、状況を説明するために、どうしても前景が欲(ほ)しくなります。住んでいる丸太小屋でのオーロラ撮影は楽です。オーロラが見える夜は、快晴のため、極度に寒いのです。オーロラの動きが弱まったところで室内に戻り、ストーブで暖まってから撮影のため戸外に出ます。
 最初の夜はアーニーの新築の丸太小屋に泊めてもらい、食後に地図を拡げて、計画を再検討しました。
 翌朝は風もなく、飛行には申し分のない日になりました。タルキートナの小さな飛行場からスーパーカブで飛ぶことになりました。
 トコシトナ氷河が見えてきました。氷河の対岸に小さな山なみがあり、着陸の可能性をさぐることになりました。山と山の間にできた小さな凍結した湖を指しながら高度を落としはじめました。凍結した湖面に着陸し、すぐ近くの小さな山に登りはじめました。頂上に着くと、アラスカ山脈がずらりと目の前に並んでいます。頂上直下の場所がベースキャンプに適しており荷物をここに運びました。アーニーは、1ヶ月後に迎えに来てくれることになっています。
日記
 2月16日 ベースキャンプ設営
 2月19日 夜、快晴。思ったとおり、マッキンレー山の後ろからオーロラが現れてくる。マッキンレー山を撮るためには月光が必要なのだ。半月(はんげつ)、快晴、オーロラと、この三つが重なる日でないと、撮影はできない。
 2月24日 右足のつま先が軽い凍傷(とうしょう)になったようだ。風邪をひく。
 2月26日 風邪なおる。凍傷の膿(うみ)を出す。
 3月2日 やった! すごいぞ。3ロール撮(と)る。快晴、半月、オーロラが重なった。6時過ぎ、北に一条の青い光が浮かび上がった。今夜はとうぶん帰れないだろう。10時過ぎになり、オーロラの動きが急に激しくなってきた。撮影が始まった。午前1時過ぎにオーロラは終わった。
 その後の1週間、天気は崩れ、雪となりました。結局、1ヶ月のキャンプの間、撮影できたのは3月2日の1日だけでした。
 悪天候のため、アーニーのスーパーカブは一日遅くやってきました。
 フェアバンクスに帰り、友人のKに女の子が生まれました。名前は、「朗蘭」と書いてローラと読ませることにしたそうです。何とローラが生まれたのは3月2日だそうです。

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北極への門−ブルックス山脈の山旅
 秋のアラスカの北極圏(ほっきょくけん)。内陸エスキモーの村、ベセルから飛び立ったセスナは、色づきはじめたブルックス山脈の上を飛んでいました。ツンドラの赤とアスペンの黄が、モザイクのように山を埋(う)めつくしています。
 フロートをつけたセスナはアラトナ河が流れる広い谷にはいってゆき、サークルレイと呼ばれる小さな湖に着水しました。地図をひろげ、現在地を確かめ、そして迎えに来てもらう日を3週間後と確認しました。
 1981年8月、西部ブルックス山脈に広がる北極への門と呼ばれる山域に入ろうとしていました。秋から冬に移り変わろうとする、ブルックス山脈の撮影が目的でした。
 山のような装備は、アルゲリッチ渓谷(けいこく)にベースキャンプをつくるまで、2回に分けて運ばなければなりませんでした。
 アルゲリッチ渓谷がやっと見えてきました。このあたりがアルゲリッチ渓谷の入口になるのでしょう。いい野営地でした。
 はじめてアルゲリッチの山なみを見たのは次の日でした。アルゲリッチの山々は、比較的なだらかなブルックス山脈の連なりの中で、険しい針峰群(しんぽうぐん)が集中しています。
 4日目になり、アルゲリッチ針峰群の麓(ふもと)にベースキャンプを張ることができました。ここを拠点(きょてん)に、しばらく周辺の山を歩くつもりでいました。紅葉(こうよう)は今がピークで、山はうっすらと新雪におおわれています。
 それからの1週間、周辺の山をのぼりながら紅葉を撮りました。
 ある朝起きると、何やらいつもと違った気配をあたりに感じました。テントの入口を開けると、季節が変わっていました。雪がしんしんと降り、白い世界の中で山と空の区別もつきません。今日は9月3日、1981年、冬の第1日目です。
 テントの中でうとうとしていると、突然、人の気配を感じました。友人のモスの突然の来訪です。彼女はアラスカ大学時代の同級生です。友人とともに、小さなパーティーをガイドしながらこの山に入ってきたそうです。しばらくすると残りのパーティーがやってきました。その中に日本語が話せるジョセル・ナムカンがいました。彼はシアトル在住の有名な写真家で、60過(す)ぎの印象でした。1919年、韓国に生まれ、子どものころ、画家になることを目指していました。17歳のとき、音楽を学ぶため日本に留学し、同じ道を歩んでいたいまのミネコ夫人と知り合います。
 それから1週間は、雪が降りつづく毎日でした。ジョセルといっしょに、毎日のように雪の中を歩きました。
 また一人になりました。山を下る日が近づいてきました。天候は回復し、新雪がまばゆいばかりでした。この数日間、薄いオーロラが毎日のように現れていました。

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クジラの民
 1982年4月、アラスカ北極圏のエスキモーの村。クジラ漁の朝は、熱いカリブーのスープで始まります。スープと一緒に、男たちは古くなった去年のクジラの生肉を、大事そうにナイフで切りながら食べています。マクタックと呼ばれるクジラの表皮の部分です。彼らは早く新鮮なマクタックを食べたくてしかたがないのです。
 クジラ漁に同行することは、何年も前からの夢でした。外部の者はクジラ漁のキャンプにさえ入れてもらえないと言われていました。友人のエスキモー、ジョー・アサパックのおかげで、同じ仲間としてクジラ漁に参加していました。
 4月。びっしり張りつめていた氷が少しずつとけて、ところどころに海面が現れます。この海面はリードと呼ばれます。哺乳(ほにゅう)動物であるクジラは、海面に上がって呼吸しなければなりません。だから、このリードこそ、クジラの移動ルートになります。リードは小さすぎても、大きすぎてもクジラ漁には適しません。
 ウミアックとは7、8頭のウグルック(アゴヒゲアザラシ)の皮でつくった伝統的なエスキモーのボートです。ウミアックを漕いでクジラを追い、銛(もり)をうちます。それぞれの持ち主がクジラ漁のキャプテンで、ふつう50歳から60歳の老練なエスキモーです。その下に十人前後の若いクルーが働き、その中から一人だけハプナーに選ばれます。ハプナーとは銛をうつ男です。
 ぼくは、ジョン・クプタナーのもとでクルーとして働くことになりました。キャンプでは彼の奥さんのヘレンと、クルーの食事を作ることになりました。
 8人のクルーがジョン・クプタナーのもとで働くことになりました。エノック・クプターナーはジョンの息子です。またハプナーはレビ・クラマックです。エノックの友人のジョー・アサパックはぼくがクジラ漁に参加できるように力をつくしてくれました。
 この年は風の動きが不安定で、良いリードがなかなか得らませんでした。
 4月も終わろうとするある日、朝から強い北風が吹きだしました。リードは午後になってからどんどん開いてきました。この日から24時間態勢でクジラを待つキャンプが始まりました。ウミアックは、リードに沿って水際に用意されました。氷塊の上の見晴らし台では、つねにクルーが海を監視しています。
 キャンプから百メートルも離れていない氷に、大きな亀裂が入りだしました。ぼくは手袋を持っていなかったため、ウミアックに乗る貴重な機会を逃してしまいました。
 5月。いつものように、午後の時間を氷の見晴らし台の上で過ごしていました。夕方になって、隣のキャンプのクルーが走ってきました。「ジョー・フランクリンのクルーがクジラを獲(と)った」
 クジラが穫れた! クジラを曳きながら、ウミアックが一列になって帰ってくるのは壮大な眺めです。
 クジラが氷原に横づけにされました。引き上げ作業が始まり、2時間もたったでしょうか。クジラは黒い巨体をすっかり氷の上に横たえました。
 クジラの表皮、マクタックの一部が切り取られました。解体を始める前、みんなで今年はじめてのマイタックを食べます。
 クジラの解体作業が始まりました。このクジラを仕留めたジョー・フランクリンのクルーによってすべての解体作業が行われます。肉はすべての村人に分けあたえられます。最後に巨大な顎の骨だけが氷上に残され、彼らはその顎(あご)骨を海に返しました。

新しい旅
 著者はグッチン・インディアンの年老いたハメルと二人で話をしようとしています。ハメルはオールドジョンレークの近くで生まれ、カリブが一頭もやってこない頃の話をします。
 二年に一度、グッチン・インディアンが一週間を共にすごす祭があります。そんなオールドクロウでの祭で、白人の友人がケニス・フランクのことを紹介してくれました。ケニスは秋になったら自分の村へ来ないかと誘ってくれ、それが今回のヴィタニイ村へのケニスの父親を訪ねる旅になったのです。
 夜もふけて、ケニスと一緒でした。ハメルはすでにベッドで寝ついていました。ハメルから聞いた話で、よくわからない点をケニスに聞こうとしますが、それはグッチンの言葉でしか話せないと拒否されます。
 著者は少しずつ新しい旅を始めていました。未踏の大自然……そう信じてきたこの土地の広がりが今は違って見えました。ひっそりと消えて行こうとする人々を追いかけ、少し立ち止まってふり向いてもらい、その声に耳を傾けていると、風景はこれまでとは違う何かを語りだそうとしていることが感じられるようになりました。
 新しい旅とは、今、目の前のベットで眠るハメルの心の中にはいってゆくことでした。老人の精神の中のカリブーに向かっての、決して到達しえない旅です。

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4. あとがき
 『アラスカ光と風』は、1986年に六興(ろっこう)出版から同タイトルで出版された本に、新たに一章を書き加えたものです。今読み返してみると、文章に不備な点がたくさんありますが、アラスカでの旅が始まったばかりの当時の自分の姿(すがた)がそこにあり、あえて書き直しをしませんでした。
 本文中の写真のうち、その旅で撮ったものでないものには、年号、場所を付記しました。また、一人で写っているぼくのポートレートはセルフタイマーで撮影(さつえい)したものです。そう思って見てみると気恥ずかしくなるほどポーズをとっていますが、それもまたリアリティがあり、その時のことを懐(なつ)かしく思い出します。
 書き加えた最後の一章は、現在の自分自身です。アラスカヘ旅に出かけたのに、いつのまにか17年が過ぎ、この土地の定住者になっていました。旅をしなければ見えないもの、そこに根をおろして暮(く)らさなければ見えないもの、少し欲(よく)ばりですが、その両方の風景の中に身を置けたらと思います。自然と人間との関わり、それがこれからも自分が写真を撮りつづけてゆくテーマです。
 また、編集部のみなさまには、新しく本を作り直すためのたくさんのアドバイスをいただき、ありがとうございました。
 今、アラスカは厳冬期(げんとうき)も終わり、少しずつ春が近づいています。カリブーの群れが、北極圏(ほっきょくけん)のツンドラの世界へ長い旅に出るころです。もうすぐ、たくさんの渡り鳥が南からやってきます。
 1995年3月 アラスカにて                                  星野 道夫

5. この本を読んで
 どの旅も感動しますが一つだけ取り上げるなら、「クジラの民」だと思います。何年かの交流の後、キャンプに連れていって貰います。エスキモーとも親しくなってやっとウミアックの漕ぎ手になれたのに、手袋を忘れて機会を逃がします。またエスキモーたちがいかに鯨が捕れるのを待ち望んでいるかがわかります。シーズンの終わりになって、やっと一頭仕留めます。陸に揚げて解体作業をする皆の興奮が伝わってくるようです。

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[Last updated 9/30/2007]