鈴ケ森刑場跡・大経寺


旧東街道と第一京浜国道の合流点に鈴ケ森刑場跡・大経寺がある。

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鈴ケ森刑場跡・大経寺 南大井二ノ五ノ六(大森海岸下車)

 旧東海道と第一京浜国道が合流する角に、大経寺が南に面し建てられており、平成2年に鉄筋コンクリート造りの近代的な建物に新築されている。建物の前の第一京浜国道と旧道にはさまれた場所が、鈴ヶ森刑場跡である。
 元禄10年(1697)の検地帳に「一 40間9間 獄門場 一反二畝歩 村中持」とあり、海岸に沿って通る東海道に面して、間口40間、奥行9間という細長い区画で、刑場として設置されていた。この場所は本来大井村のうちであって、前面の海岸に老松が一本あったので一本松の獄門場、あるいは御仕置場とよばれていたが、一般には鈴ヶ森の御仕置場とよばれていた。これは隣接の不入斗(いりやまず)村の鈴ヶ森の地名をとったものである。
 処刑場が設置されたのは慶安四年(1951)であり、明治維新までに処刑された者は、丸橋忠弥・天一坊・山内伊加亮・赤川大膳・村井長庵・平井権八(白井権八)・日本駄右衛門・八百屋お七・白木屋お駒など芝居や講談でも有名な重罪人である。もっともこの場所が舞台となる歌舞伎の白井権八(平井権八)と幡随院長兵衛との出会いのシーンはあまりにも有名である。
 大経寺はこの鈴ヶ森刑場で処刑された人たちの供養のために建てられた寺であり、そのため刑場跡地には数多くの供養塔が建てられている。歌舞伎の舞台にも登場する「南無妙法蓮華経」の七字題目碑は元文六年(1741)に建てられたもので、高さは3.2米である。このほか六十六部供養塔・馬頭観音供養塔などがある。水難者供養塔、表に二頭の馬を刻んだ馬頭観音の供養塔は、安政四年(1855)に郡山藩柏田惟孝が建てたもので、安政二年(1855)の大火で焼死した馬の霊を慰めるために造立したものである。
(出典 「品川区史跡散歩」 東京史跡ガイドH 平野栄次著 学生社)

[Last Updated 1/31/2003]