密厳院


八幡通りに密厳院がある。

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密厳院(大森北3-5-4)
 東海道線のガードの前の大森銀座商店街を抜けて、太い通りを渡り、鷲神社を左に見て通り越し、広場の先の八幡通りを東の方向に進むと、密厳院入り口に出ます。通りの右側に密厳院があります。真言宗智山派、寺号は祈念寺、山号は八幡山、旧本寺は川崎大師の平間寺(へいげんじ)、本尊は不動明王です。江戸期には郷社磐井(ごうしやいわい)神社をはじめ、附近の14社の別当(べつとう)を兼ねていました。
 『新編武蔵風土記稿』には、当院は山城国醍醐三宝院の末寺で、開山(かいさん)は運誉、開創の年代は不明といい、11世栄定が永禄10年(1567)に没しているので、かなりの古刹であろうと思われます。
 また、往昔は現在の鷲神社のところに当院の大門があり、その裏手の水田の中に祈念塚とよばれる古塚があって、そこも当院の境域であったので、相当広大な境内を有していたのであろうとも記されています。
 寺伝では、開創は文安5年(1448)、開山は乗海法印とするので、『新編武蔵風土記稿』の所伝とは相違しますが、磐井神社との関係や、当院歴世の世代が75代に及んでいることなどから、かなりの古刹であることは間違いないでしょう。
<お七地蔵>
 当寺の境内にある石造丸彫りの地蔵菩薩立像で、像高161cm、蓮座33cm、台石23.5cmもある大きなものです。
 天和2年(1682)、放火の罪に問われ、鈴が森の刑場で火あぶりの刑に処せられた八百屋お七の霊を慰めるために造立されました。台石に、
 干時貞享2年丑乙4月24日
 地蔵菩薩開眼者 不入計村 密厳院
            大僧都法印 栄音
  武刀(刀三つ)豊島郡小石川村一百万遍念仏講中
の銘文があり、お七の三周年忌の仏事供養のため、彼女の住んでいた小石川の念仏講中が、鈴が森刑場に近い当院を選んで建てたものであることがわかります。
 またこの地蔵は、もと鈴が森にあったのが、一夜でここにとんで来たという一夜地蔵の伝説もあります。
<庚申塔>
 お七地蔵と並んで、境内のブロック造りの小堂におさめられています。石造舟型の塔で、塔身には法界定印(ほうかいじょういん)の阿弥陀如来が半肉彫りされており、この種の庚申塔は全国的にも数少く、石造美術としても見るべき点が多くあります。
 光背(こうはい)に銘文があり、寛文2年(1662)に造立されたことを記すので、区内では2番目に古い庚申塔ということになります。
(出典 「大田区史跡散歩」 東京史跡ガイドJ 新倉善之著 学生社)

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[Last Updated 1/31/2003]