磐井神社


第一京浜国道沿いに磐井神社がある。

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磐井神社(大森2-20-8)
 密厳院の前の八幡通りをさらに東(海側)に進むと第一京葉国道にぶつかります。左折した左側に磐井神社があります。
 延喜式内の古社で、別に鈴が森八幡宮ともよばれました。祭神は応神天皇、大己貴命、仲哀天皇、神功皇后、仲津姫大神です。旧社格は郷社で別当は密厳院、末社に境内の池中の小島に祀られる笠島弁天社があります。
 『延書式』の神名帳に、「荏原郡二座小並磐井神社」とあり、『三代実録』の貞観元年(859)10月7日の項に、「武蔵国従五位下磐井神列二於官社」と記されています。
 当社の縁起によると、敏達天皇の2年8月にはじめて創建され、貞観年間に日本国中国毎に八幡宮の総社を選んだとき、当社が武蔵国の総社に定められたといいます。
 しかし、八幡宮が関東諸国に勧請されたのは鎌倉の鶴岡八幡宮が創建されたのちのことであり、中世以前ではありえません。『江戸砂子』や『和漢三才図会』が指摘するように、当社の八幡宮鎮座は、どうも天正年中(1573-92)とする説が妥当のようです。
 中世に入り、永正年中(1504-21)に兵火に罹(かか)り、天文年中(1532-55)再び火災で焼失しました。天正18年(1590)に徳川家康が江戸下向の際に参詣し、五代将軍綱吉は元禄2年(1689)に参詣の折、当社を幕府の祈願所としています。八代将軍吉宗は、享保10年(1725)に代官伊奈半左衛門に命じて社殿を改修させました。
 古くは、この社の沖合5〜7町先の海浜まで境内地であったと伝え、沖に鳥居が建てられていましたが、宝永年中(1704-11)の大地震で折損し、その後しばらくの間、礎柱だけが残っていたといいます(『武蔵演路』)。
<磐井の井戸>
 社前の歩道上にあります。もとは境内であったこの井戸のあるところは、再三国道が拡幅されたため、境外の歩道上にとり残されたようになったのです。
 この井戸水の霊水性を、心正しければ真水、邪心であれば塩水という形で宣揚し、万病治癒の薬水だとしています。またこの井戸の名称から、社名が生まれたという伝承もありますが、詳かではありません。
<鈴石>
 山崎闇斎が明暦4年(1658)に著わした『遠遊紀行』に、「此社二一石アリ、之ヲ転ズレバ、則其声鈴ノ知シ」と記され、江戸初期からこの石の存在は著名で、鈴が森の地名発祥のもとになったと伝わっています。
 ところが、同書にその頃この石が盗み去られたことを記しており、現在伝えられているものは、のちに補充した二代目の鈴石ではないかとする説もあります。
 社伝によると、この石の由来は、神功皇后が長門国豊浦の浜で発見され、応神天皇降誕の時は産屋におかれました。そののち筑前の香椎宮に納められましたが、また豊前国字佐宮に移され、年月を経て宇佐宮の勅使、神祀伯石川年足に神勅があって授けられました。年足の孫豊人が、延暦元年(782)に武蔵国の国司に任ぜられ、多摩川のほとりに居住し、当社に納めたのだといわれています。
<烏石(うせき)>
 社務所に前述の鈴石と並べて展示されています。山型の自然石の上部に、墨絵の烏(からす)のような模様があるのでこう名付けられました。
 江戸中期に成立した『武蔵志料』に、「麻布古河ノ鷹石モ、葛山鳥石取之、鈴森八幡宮ニ納メ、名ヲ改メ烏石卜号ル」とあるように、この石は、もと鷹石とよばれて麻布の古川辺にあったものを、松下烏石(葛辰)が当社に移し、名を改めて自分の号をとり、烏石と称したのだといいます。
 さらに服部南郭に依頼して、この石の側面に銘文を刻みこみ、小祠を建ててこれを祀り宣伝したことに対し、松下烏石の売名行為とする批判もありました。
 しかし松下烏石の文人としての力倆もさることながら、この石は次第に有名になり、文人たちに好まれ、鑑賞のため当社を訪ずれる者が、あとを絶たなかったといいます。
<文人の石碑群>
 社殿の北側の奥に四基の石碑が並んでいます。一は烏石碑で、元文6年(1741)3月に松下烏石が当社に烏石を奉達した由来を刻したもの。二は天明6年(1786)の狸筆塚、三は寛政8年(1796)の竹岡先生書学碑、四は文化6年(1809)のたい筆塚で、いずれも文人たちが使用済みの古筆を埋め、その供養塚に建てた記念碑の類です。
 社前の第一京浜国道を北(品川方向)に約200b行くと、左側に京浜急行大森海岸駅があり、ここから帰路につくのが便利です。
(出典 「大田区史跡散歩」 東京史跡ガイドJ 新倉善之著 学生社)

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[Last Updated 1/31/2003]