本の紹介 万葉(まんよう)の人(ひと)びと



犬 養  孝
(いぬかいたかし)

新潮文庫

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  目 次

1. 本との出会い
2. 万葉のこころ
3. 本の目次
4. あとがき
5. 解 題
6. 読後感

1. 本との出会い
 昨秋(2001年秋)、V Ageの「新書を読む会」の連中と飛鳥を歩き、万葉集のふるさとに出会いました。
 今年(2002年)の生麦で行われた暑気払いのあと、たまたま雑色(ぞうしき)で古本屋のブックオフでこの本に出会いました。そのあと、大田区営久が原図書館で犬養先生のNHKで放送した番組のテープ10巻に出会いました。パソコンのキーをたたいたり、芝生の草取りをしながらテープを聴いていたら、約1週間で聞き終わりました。
 学校の教科書などで万葉の歌数十首はそらんじているわけですが、改めて犬養先生の名調子で、体系的に聴いたことで親しみが増しました。
 犬養先生も強調しておられるように、時代、風土などの中で理解することが大事だと思います。今回の出会いを機に、少しずつ好きな歌を増やして行きたいと思っています。

2.万葉のこころ
現代に生きる万葉のこころ
 皆さん、これから37回にわたって、″万葉の人びと″ということでお話したいと思います。歌のよみ方の異同だとか、言葉の解釈など、細かい点まで触れることはできませんが、皆さんと共に万葉の世界を楽しく探ってみたいと思います。
 皆さんは、学校で『万葉集』を習われますでしょう。何しろ『万葉集』は、およそ千三百年前の歌、一番古い歌集ですから、学校で、日本人の教養としても知っておかなければならないから習う、とお思いになるかも知れない。その通りだと思います。しかし『万葉集』は、ただ古いから勉強するというだけではありません。万葉の歌は今日も生きているんですよ。千三百年前の一番古い歌が一番新しく、現代人の心に生きてくるんです。
 一つだけその証拠を挙げましょう。
 私が大阪大学におりましたときに、学生を連れて、『万葉集』にうたわれた故地を歩きました。その回数、112回。参加した学生約2万名。正確に言いますと18,514名です。その人たちが、現地に行って、「先生、すばらしいですねぇ。人麻呂の心ってすごいですねぇ。万葉びとって詩人ですね」
 と言って感激するんです。その感激がもう、忘れられない。出席などなにも取らないのに、そんなに大勢来るんです。私はそれだけで万葉の心が今日も生きている一つのいい証拠になると思うんです。

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 では『万葉集』を生きた形で理解しようとするのにはどうしたらいいでしょうか。
 一つは万葉の時代は、たいへん古い時代ですね。一番新しい歌でも、天平宝字3年西暦759年に詠まれたものです。そうすると、今から千二百余年前でしょ。そうした古い時代ですから、その歴史の中に置いてみないと万葉の歌は理解できません。歌が生きてこないんです。
 たとえば、『万葉集』四千五百余首の中には恋の歌がとても多いんです。どうしてそんなに多いのでしょうか。それは、今とは結婚生活が全然違うからです。今日は、たいがいつきあって、結婚式をあげて新婚旅行に行き、そしてアパートなどにいるでしょ。すると年中一緒にいるから、恋しいのなんのって言っていられないでしょ。もう脇で赤ちゃんが泣いていたりすると。ところが万葉時代は、夫婦は相当長い間別居なんです。ゆくゆくは一緒になりますけれど。そういう別居だということを知れば、なるほど両方でもって恋し合うことの多いのもよくわかることでしょう。
『万葉集』にはとても恋の歌が多い。女の人の恋歌は待つ歌がいちばん多い。夫の来るのを待つ歌、夫が帰って行ってしまったあとの気持の歌、そういう歌が非常に多い。ということは、やはり今とは違うんです。我々は、現代に生きているものですから、現代を基準にして物を考えがちです。たとえば、今日、みんな新婚旅行をするでしょう。だから万葉時代も新婚旅行をするのかと思って、学生さんがまじめな顔で、「先生、万葉時代貴族はどこへ新婚旅行に行ったんでしょうか」なんて聞く。それからまた、人麻呂が「大君は神にしませば……」と言いますね。すると「天皇は神じゃないですよ。人間宣言をなさったもの」なんて言う。とんでもないことです。古い時代の事を今の感覚で考えていては、万葉の歌は理解できません。「大君は 神にしませば……」というのも、壬申(じんしん)の乱という、あの大乱後の天武天皇・持続天皇、そういう方々を考えた時に、初めてわかるので、だからやはり歴史の中、時代の中に歌を戻さなければならないのです。
 もう一つ、万葉の歌は日本全国の風土と密着しているんです。ただ『万葉集』には北海道・青森県・秋田県・山形県・岩手県・沖縄県は出てこない。その他の日本全国各県は出てくるのです。それらの土地は風土がみんな違うでしょう。たとえば、雪ひとつにしても、札幌の人は、雪を何とも思っていないでしょう。雪が嫌いだったら暮らせないし、雪なんか少しも珍しくない。だから、雪は生活の一部になっている。ところが、飛鳥(あすか)あたりになりますと、雪はめったに降りません。だから古代でも雪が降ったら、もう大喜びするんです。
 たとえば天武天皇は、
わが里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 落(ふ)らまくは後(のち) (巻2-103)

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″わが里には大雪が降ったよ″と言ってはいますが、実は大雪ではないんですね。飛鳥あたりですから、ほんのちょっぴり降ったんです。それでも嬉しいから″わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 落らまくは後″と、こううたっているんでしょう。すなわち、雪ひとつにしても土地が違えば感じが違うんです。だから、やはりそれぞれの風土に、たとえば、瀬戸内海で生まれた歌は、瀬戸内海の風土にかえしてみないとわかりません。これから万葉の人びとの話をはじめますが、常に歴史の中に、時代の中に、そしてまた、生まれた風土の中に置いてみようと思う、その関連でみていきたいと思います。
『万葉集』というのは、いわば歌の博物館のようなものです。作者のだれ一人として、その中に自分の歌を入れてもらおうなどと思って作ったわけではありません。それぞれの歌は、それぞれの時代に、それぞれの場所で生まれたものですから、歌を本当に理解するためには、その歌の生まれた時代や生まれた風土にできる限り戻してみなければなりません。そうして、初めて博物館の標本のような歌が生き生きと躍り出して来るんです。
 もう一つ、例を挙げてお話してみましょう。それは天平8年、西暦736年に、遣新羅使人(けんしらぎしじん)といって、新羅に遺わされたお使いの人々の歌があります。その中で一つ、あとに残る奥さんの歌、
君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾(わ)が立ち嘆(なげ)く 息(いき)と知りませ (巻15-3580)
 妻はこう言うんです。″新羅まで行かないで家に残っておりますから、あなたのいらっしゃる海辺の宿に霧が立つことがあったら、その霧は、私が家で嘆いているため息と思ってちょうだいね″と言っているんです。すばらしい歌でしょう。『万葉集』には愛の歌が大変多いんですが、私があなたが好きだとか、愛して愛してやまないとか、離れられないとか、そんな観念的な言葉をちっとも使わないんです。それは、この歌をみてもわかるでしょう。
″あなたのいらっしゃる海辺の宿々に、もし夕霧が立つことがあったならば、その霧は、私が家で歎いているため息と思ってちょうだい″って言うのですから。愛の心持ちが具象的に表現されているでしょう。形をそなえて表わされているんです。そしてまた、天平8年のころの瀬戸内海というのは、今と違います。瀬戸内海というと、今日では観光瀬戸内海、風光明媚(めいび)な海の景−を想像されるでしょう。ところが、当時は絶対に違う。『万葉集』を読んでみますと、瀬戸内海はほとんど海のこわさに尽きるんです。潮の流れ、風がある、また波もある。大変危険です。瀬戸内海を通るだけで、約ひと月近くもかかるんです。そういう昔に還元してみれば、この歌の、妻君が、″あなたのいらっしゃる海辺の宿、その宿々に夕霧が立つことがあったら、どうぞその霧は、私が家で歎いているため息と思って下さいね″と歌う気持がわかりますね。

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 夫は難波(なにわ)から瀬戸内海をだんだんとすすんでいって、今の広島県の方まで来た。広島県に豊田郡安芸津(あきつ)町風早(かざはや)という所があるんです。それはちょうど、糸崎(いとざき)、三原(みはら)よりももっと西、国鉄呉(くれ)線に乗って、呉の方へ向かった、景色のいい所です。その風早の浦で、おそらく妻からそういう歌をおくられた人の歌なんでしょう。こういう歌がある。
わがゆゑに 妹(いも)歎くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり (巻15-3615)
″私のために彼女は歎いているようだな。おお、今日は風早の浦の沖辺に霧がかかっているぞ"このように歌うんです。
 風早の浦の沖辺に霧がかかっているというのは、瀬戸内海は今日でも霧日数の大変多い所なんてす。だから、霧を見て、″ああ、これは彼女のため息だな"と思っているんです。
″霧は霧だよ、自然現象としての霧だよ"と思ったら、それはそうに違いないでしょう。ところがこの歌では、霧は自然現象の霧であると共に、彼女の心だというんですね。霧のまわりに、いわば人間の心の厚みがかかっている。これはすばらしい。やはり、千三百年前の時代に戻し、その歴史の中に置いてみ、しかもその風土の中に置いた時、歌が生き生きとしてくるんです。
 私は風早の浦の所へ立って、この歌の話をしました。すると、学生諸君が「わあ先生、すばらしいですねぇ。万葉びとって詩人ですねぇ」とこう言った。その「詩人ですねぇ」というのは、いわばすばらしい人間の心を発見した喜びでしょう。それが忘れられないから、学生諸君が、「万葉の旅を続けて下さい、続けて下さい」と言うんですね。言うならば、忘れていた心を、学生はじかに風早の海岸で体験したんです。こういうことからも、万葉の歌がいまも生きているということがわかるでしょう。我々の胸にじかに響いて来るんです。
 では、もう一度うたってみましょう。
わがゆゑに 妹嘆くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり
 だから万葉の歌は、あたう限り歴史と共に、時代と共に理解していかねばならない。そうしてまた、風土と共に理解していかなくてはなりません。このようにして、万葉の歌を理解し、万葉の人びとの心の世界を探っていってみたいと思います。
 以上を″万葉の人びと"のオリエンテーションといたします。
 第1回から第4回までは概説、第5回から第12回までは万葉の第1期、第12回から第19回までは第2期、第20回から第29回までは第3期、第30回から第35回までは第4期の歌人をとりあげ、最後にまとめをつけるという構成です。

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3. 本の目次

プロローグ・現代に生きる万葉のこころ………………………………11

第1回  歌のこころ……………………………………………………18
第2回  言 霊(ことだま)………………………………………………25
第3回  霊 魂…………………………………………………………32
第4回  時代区分………………………………………………………40
第5回  磐姫皇后………………………………………………………48
第6回  雄略天皇………………………………………………………57
第7回  有間皇子(1)……………………………………………………64
第8回  有間皇子(2)……………………………………………………72
第9回  額田王…………………………………………………………81
第10回 額田王と大海人皇子…………………………………………87
第11回 壬申の乱………………………………………………………95
第12回 天武朝…………………………………………………………102
第13回 大津皇子………………………………………………………108
第14回 持統朝…………………………………………………………115
第15回 柿本人麻呂(1)−安騎野の冬−………………………………121
第16回 柿本人麻呂(2)−古代の船旅−………………………………127
第17回 柿本人麻呂(3)−紀の国−……………………………………134
第18回 高市黒人………………………………………………………140
第19回 志貴皇子………………………………………………………148
第20回 山部赤人(1)−吉野の歌−……………………………………154

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第21回 山部赤人(2)−富士の高嶺−……………………………… 163
第22回 大伴旅人(1)−あまさかる鄙−………………………………171
第23回 大伴旅人(2)−松浦仙媛−………………………………… 179
第24回 山上憶良(1)−家庭生活−1…………………………………187
第25回 山上憶良(2)−志賀島漁民秘話−………………………… 195
第26回 高橋虫麻呂……………………………………………………203
第27回 大伴坂上郎女…………………………………………………210
第28回 東国農庶民の歌(1)……………………………………………217
第29回 東国農庶民の歌(2)……………………………………………225
第30回 笠女郎…………………………………………………………233
第31回 大伴家持(1)−越路の春−……………………………………240
第32回 防人の歌………………………………………………………248
第33回 道新羅使人……………………………………………………256
第34回 中臣宅守と狭野茅上娘子……………………………………264
第35回 大伴家持(2)−孤独の憂愁−…………………………………270
エピローグ・万葉の終焉…………………………………………………277

 あとがき…………………………………………………………………284
 解  説……………………………………………… 五 味 智 英 286
 系  図
 飛鳥・藤原京・初瀬万葉略地図
 歌の索引

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4. あとがき
 本書『万葉の人びと』は、昭和48年7月21日から8月31日にかけて、毎日15分間ずつ、37回にわたり、NHKから全国に放送したものを、文字におこしたものである。できるかぎり、当時の話し方を忠実に録して、手を加えないようにした。そのときの雰囲気を、あたうかぎり生かそうとつとめたからである。
 本書の趣旨は、万葉の歌を、時代をもとにもどし、風土をもとにもどして、生きた心の音楽としてとらえ、初期から末期にいたるまでの万葉の人びとの歌ごころをあとづけようとした。短い時間のことでもあり、話し足りないところもあるが、37回を読み終って、千二、三百年前の万葉の人びとの歌ごころを、いま新たによみがえらせ、古くて新しい心の泉としていただけるならば幸いである。
 本書は、もともと、放送当時、NHKに好意にみちた数百通におよぶお手紙をいただき、放送終了後も出版の要望しきりであったので、忙中おくれながらも、PHP出版部のご尽力で昭和53年9月、公刊したものである。今回また、新潮社の要望によって、PHP出版部との諒解のもとに、文庫として刊行されることとなった。挿入の写真は、前版とほぼ同様である。著者撮影のものもあるが、主として故高橋三知雄君、伊藤鍛造さん、また、若尾久雄君、和田研治君、吉本昌裕君らの撮影になる。しるして謝意を表する。もちろん、かつてあたたかいご諒解をくださったNHK当局、また、本書の母体をつくられたPHP出版部のご尽力にも深く謝意を表する。
 わたくしが、なによりも感謝に堪えないことは、文庫として出すにあたって、あらたに東大名誉教授五味智英さんの解説をいただいたことである。ご多忙、かつ健康を害しておられるなかから、拙著のために懇切な真情あふれるお言葉をいただいた。わたくしの喜びと、はやくお元気になられることを祈って、謝意に代えたいと思う。
 時、あたかも、わたくしの主宰する大阪大学万葉旅行之会が、30周年、172回、参加学生延べ三万人を越え、卒業生らが、その祝賀を行なおうとしている。この時に拙著が文庫本としてひろまることは、なによりの記念と喜んでいる。
 文庫本として出すにあたっては、新潮社に終始大変お世話になった。また、校正等には武庫川女子大学教授清原和義君、甲陽学院の山内英正君からご援助を得た。厚く御礼申しあげる。
 なお、表紙カバーには、羽石光志画伯のみごとな御絵を拝借できた。厚く謝意を表する。
昭和56年11月17日                         著 者

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5. 解 説               五 味 智 英
 著者の万葉学の特徴はいくつもあるが、その中でも風土的研究はいちじるしいものである。古来万葉集の地名研究・地理研究と名づけらるべきものは多数あるが、おおむね万葉集に詠まれた地名が当代のどの地名にあたるかということに重点が置かれ、その考究のために地理的状況が援用されるといったものであって、稀(まれ)に風土性に説き及んでも小範囲に止(とど)まる。これに対して著者はすべての万葉遺跡を踏破し、それぞれの歌がどういう風土に育(はぐく)まれて成立したかを体感して風土的研究を大成した。中学生時代から徒歩旅行を好んだ著者はその健脚によって、実際に自分の足を以(もっ)てその地を踏みその地の草木に接しその地の風に吹かれているのである。曽遊(そうゆう)の地は再び訪わないというのではなく、繰り返しまた季節を異にしてたずね、その風土の香りを身にしめるのである。万葉研究の歴史は長いが、このような研究者は未だ嘗て無かったし、今後も恐らく出ないであろう。乗物に頼り、足を使わない傾向が激しい加速度を以て進み、それだけ万葉人の風土と現代人が同じ風土に接して感得するものとの距離が増大すること、近年のすさまじい自然破壊により、ながく保たれて来た風土景観が著しい変貌を遂げていることなどを思う時、著者の果した業績の大きさを思わざるを得ない。著者のあらわした『万葉の旅』におさめられた写真のうち何枚かは現在再び撮影しようとしても、土地の変貌により、撮影不可能な貴重なものなのである。
 堅杏子(カタカゴ=カタクリ)の花が咲いたという知らせが来ると越中(富山県)へかけつけ、雪が降ったと電報が来ると因幡(いなば、鳥取県)の国庁へとんで行く、このまめまめしさは一首の歌を支える風土を見きわめようとする執念の致すものである(本書 大伴家持(一)越路の春−、万葉の終焉(しゅうえん)の項参照)。こういう例はいくらもあり、それは独りの踏査であるが、大勢を引率しての万葉旅行もまた、他に例を見ない長い年月と人数とをかぞえるのである。著者自身「万葉旅行三十年」と題して昭和56年9月7日の朝日新聞に記している。一部分だけ抄(ぬ)き書きしよう。
 わたくしは、終戦後、新制大学がはじまるとともに、学生らの懇望にこたえて、昭和26年、大阪大学万葉旅行の会を発足し、この8月までに、170回をかぞえ、参加学生も延べ2万9千665名となり、ことし30周年を迎えるにいたった。‥‥‥しかも文学部の学生に限らず、法・経・医・歯・理・薬・工等あらゆる学部にわたり、老若男女を問わず、渾然(こんぜん)一体となって、忘れえない感動の旅をつづけているのである。
 本書『万葉の人びと』には風景写真が多数挿入されているが、それらは著者の風土研究の成果を背負っているのであり、単なる添えもの乃至息抜きではない。また一々の歌の解説や鑑賞に、風土関係の言説が豊富に見られるのも著者の研究の背骨がどこにあるかを指示するものと言えるのである。

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 なお万葉の要地明日香(あすか)が都市化の危機にさらされているのを嘆き、地元の要人とはかり「飛鳥(あすか)古京を守る会」を創り、政府に働きかけて飛鳥保存の方策を講ぜしめたのも著者の努力のたまものであり、在住者の生活問題を考慮する必要もあり、役所仕事に頼らざるを得ない点もあり、必ずしも著者の理想通りではなかったにせよ、この地をコンクリートジャングル化から救ったのは大きな功績である。これもまた万葉の風土への熱愛が生んだのである。こんにち明日香ブームとも呼ぶべき現象がつづき、大和への旅行者の多数は明日香を訪い、古代の心の一端に触れることを重要な目的とするようになった。今の程度に明日香を持ちこたえたことについては、著者の大きな尽力を忘れることはできない。
 万葉の歌が生れるについては、風土と共に歴史が大きく与(あずか)っていること、言うまでもない。著者も勿論(もちろん)その点を看過していない。本書のはじめの方にそのことは明言されているし、個々の人物や歌についても、歴史的背景に関しての叙述は多量に及ぶ。ただ歴史については多くの人の発言があり、風土の場合のように著者の独断場(どくだんじょう)という感じがしないだけである。万葉の作家や作歌の理解のためにはこの方面も軽視してはならないのであるから、読者は心して読んでいただきたいと思う。
 さて、世間では著者のことを万葉旅行の先生とか万葉の風土の研究者とかいう受取り方をするのが一般のようである。それはそれで間違ってはいない。現に私も第一の特徴として風土的研究を挙げた。しかし著者の目ざすところはその奥にある万葉の心だと私は考える。著者の講演や文章の中に、万葉のこころという言葉がしきりに出て来るのに気づいた人は多いであろう。あまりに普通な言葉なので、見のがし聞きのがす人もあるかも知れない。風土的研究をはじめ歴史的研究等々は、「万葉の心」に拠りつくための道なのである。地名表現・心情表現という著者のよく使う言葉は、その万葉の心の表現手法としての、地名の使用や歌の作り方などを説いたものである。地名表現としては高市黒人(たかいちくろひと)が顕著な例として挙げられて居、心情表現としては例えば志賀の白水郎(あま)の歌を指摘することができよう。本書には載せられていないが、額田王(ぬかだのおおきみ)の春秋争いの歌(天皇、内大臣藤頼朝臣に 詔(みことのり)して、春山の万花の艶(におい)と秋山の千葉(せんよう)の彩(いろどり)とを競憐(きほ)はしめたまふ時、額田王、歌を以(も)ちて判(ことわ)る歌−冬ごもり 春さり来れば 鳴かぎりし 鳥も来鳴きぬ
咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉(もみじ)をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆(なげ)く そこし恨めし 秋山われは) についての心情表現の論は印象の深い説である。

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 私は常々、著者は万葉学者として最も幸福な人(少くともその一人)ではないかと思っている。
世に万葉関係の著書・論文が汗牛充棟もただならぬほど存在するが、その筆者が果して万葉が好きなのかどうか分らないことが多い。が、著者は明らかに万葉が好きである。それは文章によってもわかるが、講演の場合特にはっきりしている。私は大学生時代に金田一京助先生の、日本語とアイヌ語との交渉という題目の講義を聴講したことがあるが、先生の楽しそうな語り口に、受講者も楽しくなって了(しま)ったものである。金田一先生と著者とでは調子が違うけれども、語り手の楽しさが聴手に伝染する点では同じである。教室に於てであれ、学外に於てであれ、万葉旅行の解説の場合であれ、著者は実に楽しげに語りかつ歌を朗唱する。朗唱は犬養節と称せられて有名であるが、私は談話をも併せて犬養節と呼んでいいのではないかと思う。犬養さんは犬養節を語りつつ唱(うた)いつつ、聴衆が自分の感動と同じ感動に浸ることを信じて疑わないように見える。聴衆に共に唱うことをすすめるのが常であるが、この信念に基くのであろう。
 楽しく万葉に没入し、語りかつ朗唱し聴手の受容を確信する。最も幸福な万葉学者というゆえんである。「万葉に生くる者」とはこの人のためにある言葉であろうか。
 犬養さんは、心の暖い、誰にでも親切な人である。その反映が聴衆への信頼となるのであろう。犬養節に導かれて万葉に陶酔し離れられなくなった人の数はおびただしいものであるに違いない。万葉集の普及についての功績は大きいと思う。
 本書はNHKでの放送を文字に起したもので、放送の時の雰囲気を生かすために当時の話し方に忠実に従っているという。語りと唱いとの犬養節の文字化である。音声的要素は捨てられているが、これはやむを得ない。放送の時の口ぶりがそのまま文字化されているので読み易いし、犬養節を聞いたことのある者には口調も思い起すことができる。歌が掲げられ、解説のあとでもう一度同じ歌が出て来るのは、朗唱のためである。(万葉の歌はもともと歌われたものであるから歌わなければならないというのが著者の主張であり本書にも記されている。その通りだと思う。ただし、万葉人のままのテンポや調子や発音で歌うことは現在不可能であるから、今は人それぞれの感じの出る朗唱をするほかはない。)
 だって、おじいちゃんとおばあちゃんにとっては、ただの石ころがもう、息子そのものになっているんです。(霊魂の項)

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 実は作者自身が、その袖を振っているのを、とても心ひかれて見てるんじゃないんでしょうか。
 うわぁ! 元の自分の夫である人が、一生懸命袖を振っている。(額田王と大海人皇子の項)
などの文章は口頭語そのままで、口吻(こうふん)そっくりである。「だって」のこういう使い方、「うわぁ!」ということば、いずれも口癖で、私にはこの言葉の出て来る時の著者の様子や口調がまざまざと浮んで来る。その他このたぐいは挙げるにいとまがない程で、忠実な文字化であることが知られるのである。
 著者犬養博士は、同じ大学の同じ学科を私より先に卒業され、私より前に万葉学界に入られ、研究発表も私より早くしておられる。いつも先輩としての礼をとっているのであるが、この文章の性質上敬語は一切省略した。
                                (昭和56年11月)

6. 読後感
 犬養さんの朗詠を聴き、解説を耳にすると、歌が詠まれた場所に一緒に旅行しているような気持ちになります。漢字が中国から入ってきて、やっと万葉集という形で記録されたわけですが、わが国の千三百年も前の歌が少しも古さを感じさせません。
 志貴皇子、柿本人麻呂、山部赤人など有名な歌がたくさんあります。これらは当時の風土と息づく人びとを見事に描き出しています。
 志貴皇子
 石(いは)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 萌え出(い)づる春に なりにけるかも(巻8-1418)
 柿本人麻呂
 東(ひんがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かえり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ(巻1-48)
 山部赤人
 田児(たご)の浦ゆ うち出(い)でてみれば 真白にぞ 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪は降りつつ(巻3-318)
 この本を読んで(テープを聴いて)好きになったのは、大伴旅人で、大伴家持の父親ですが、代表的な歌三首を挙げます。
 昔見し 象(さき)の小河を 今見れば いよよ清(きよ)けく なりにけるかも(巻3-316)
 世の中は 空(むな)しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(巻5-793)
 験(しるし)なき ものを思はずば 一杯(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし(巻3-338)
 第一首は太宰府に転勤になったとき、大和の象の小川を懐かしんで詠んだ歌、第二首は任地で妻を亡くしたとき詠んだ歌、第三首は、その時詠んだ酒の歌13首の冒頭の一首です。

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[Last updated 9/30/2002]