道徳の時間



 山田太一が対談しているので読んでみた。新しい発見は少なく、やっぱりな、と再認識することが多かった。
福田:自分の限界と向かい合うときには、たとえば、見苦しい、見苦しくないという「美意識」が価値判断基準になると思うのです。ところが、今の日本人の価値基準は「善悪」、つまりいいか悪いかなんです。(p86)
 美意識とか廉恥心ということばがいきなり出てくるホームページも珍しいので、唐突さを感じる人がいるかもしれない。でも二人の話を聞いていると、応援団を得た気分になる。
山田:人間にとって、ほんとうの幸福というのは違うんじゃないか。それはもっと深い部分の存在に触れないと生まれてこないものだと思うんです。(中略)辛うじて結婚という制度で縛られている人は、その関係を気持ちのまま、判断のままに「明日切ろう」というわけにはいかないから、男女というものの、話し合うことの絶望、理解し合うことの絶望に気がつく。逆に言えば、そういう人間の深みみたいな部分は、結婚でもしていないと気がつかないのかもしれない。(p96)
 と結婚の効用にまで話がおよぶ。
山田:テレビのプロデューサーなどは、誰を起用しようかというときに、結局、自分に蓋をしてしまうんですね。この人には嫌悪感というものがないのかと思うことが時々あります。とにかく視聴率が取れるのなら誰でもいい。「視聴率がどうであってもあいつじゃないと嫌だ」というのがないんですね。冷たい、自我がないというか、そういうふうな人たちが増えているという気がするんですね。(p126)
 私だって妥協というものを知っている。むしろあきらめやすいタイプかもしれない。しかし、こんな情けないヤツが放送局を闊歩しているのか。ドラマの配役に対する不満には、やはり理由があったのだ。

 最後は、生活の場ではわかっている「ほど」を、いかに公的なことでも使いこなすようにするか、という問いかけで結んでいる。「リアルな中間点」を手に入れるには、芸術的なものの経験が必要であろうと。

 対談本は、話が散らかっていて引用しにくい。この本を読んでも主張がすっきりしているわけでもない。でも一度は手にしてほしい本である。ある程度社会経験を積んでいて、しかもまだすれていない人に。
  • 何が終わり、何が始まっているのか 山田太一、福田和也 PHP研究所 1998 NCD304
(2003-09-01)