待つわ



80年代前半屈指の名曲なのだが、何をいつまで待つのかと思ったら「他の誰かに あなたが ふられる日まで」というオチにびっくりさせられた。

鷲田清一『「待つ」ということ』は、『「聴く」ことの力』の続編として書かれた。かなり期待して読んだのだが、いささか不満足。待つことについて多面的に考察しているがゆえに、散漫。

印象に残ったのは、やはりケアについての記述だ。とくにパッチング・ケアを唱える西川勝の話。ケアする者とケアされる者の区別もあいまいで、なにげない小さな営みが重なり合ったケア。偶然に身をゆだねるケア。
「おじゃまします」と声をかけて戸を開ける年老いた訪問者に、職員はあたりまえのように玄関に出向く。訪問者は、履物を脱いで、整え、しずしずと畳の部屋に上がる。呆然と立ち尽くすこともなく、立っていることじたいが不作法だから、すぐに膝を突いて挨拶し、座布団をゆずりあい、愛想を言い、出されたお茶に口をつける。このような抽象的ではない空間だからこそ起こってしまうことに、西川はケアの<場>の力が生成することを期待する。(p120)
息子には、「とるにたりない」行為を日々反復していて狂わない母親の存在が理解できない。
起きたらまず食事を作る。洗濯物を干す、洗い物をする、掃除をする、繕いものをする、昼になればまた食事を作る、洗濯物をたたむ、また洗い物をする…。家族の、そしてじぶんのいのちを、ただ維持するだけのいとなみ、その、いつまでも<意味>の到来しないただの反復に耐えられるということが、彼には理解できない。(p61)
育児といういとなみとは、
ひたすら待たずに待つこと、待っているということも忘れて待つこと、いつかわかってくれるということも願わずに待つこと、いつか待たれていたと気づかれることも期待せずに待つこと…。(p55)
この辺になると、何を言いたいのかよくわからない。苦手な分野のようだ。だれか書き継いではくれまいか。

中学生くらいの子がキレやすく待てないのは、自分が待ってもらえなかったからだという説がある。陣痛促進剤やら帝王切開で出産を急がれ、生まれてからは母親に「早く、早く」とせっつかれ、待ってもらえないというトラウマを抱えているのだとか。

そういえば『「待ち」の子育て』という本もあったなあ。

どうやら、介護と子育てのクロスするところに、「待つ」ことが立ちはだかっているようだ。 (2007-03-26)