科学の考えを社会に適用できるか



 生命関係で発言を続けているのは、養老孟司、中村桂子、多田富雄の3人である。多田氏をいちやく有名にした『免疫の意味論』の続編である『生命の意味論』を読んだ。

 はっきりいってこの本を多くの人にすすめるには抵抗がある。少し難しいのだ。発生、免疫、ゲノム、進化、老化、脳などという現代的なトピックが次から次へと展開する。しかし、字面にとらわれずに読み進めていくと、多田氏の言う「超システム」という概念がおぼろげに見えてくる。

 超システムがこの本で明確に定義されているわけではなく、免疫系、脳神経系、個体発生などを超システムの例として説明している。とくに自己と非自己を識別する免疫系は、ひとつひとつの非自己を認識する分子を持つ細胞群と、その遺伝子産物から構成される超システムである。しかも白血球などの免疫系のすべての細胞は、もともと1種類の造血幹細胞に由来する。したがって免疫系は、後天的に自己生成してゆく超システムなのである。

 最終章で著者は、「心の身体化」、「生命の技法」という2つのキーワードを提示している。前者は養老氏の言う「唯脳論」を越え、後者は超システムが工学的機械の技法を越えていることを指し示している。そして多田氏は、生命の技法を文化現象に適用しようと試みる。すなわち言語、都市、民族、国家、経済、宗教、官僚制、音楽、舞踊などなどに対して。

 安易に科学の考えを社会に適用するのは危険である。なぜなら科学と社会というまったく異なる対象に、アナロジーとして同じ考え方を当てはめようという試みだからだ。でも私の直観では、試してみる価値があると思う。

 今はまだ環境保護の思想が全盛である。しかし環境という考え方は、物質循環のレベルで止まっている。つまり物理法則の枠内だ。ゆるいのだ。さらに生命現象の枠をはめて考えてみる必要がある。社会を構成するのが人間である以上、生命の考え方を適用して住みにくい社会になるとは考えにくい。しかしそのときに意外な結論を目にするかもしれない。おそらく人権という考え方は修正されるはずだ。

 この辺をしつこく論及するのが哲学者の仕事のはずなのだが、出版物を見る限りさぼっているとしか思えない。念のため付け加えるが、生命倫理はインチキであると私の直観が訴えている。それは恣意的だからだ。臓器移植、脳死判定、遺伝子操作などの動向を見れば、おそらく間違いのないところだろう。

 以上がこの本の第1主題である。かなりの難題でとっつきにくい。これをあきらめた人でも、第2章の「思想としてのDNA」は理解しておいたほうがいい。ここを読むと利根川氏の仕事の重要さも理解できるし、ドーキンスの利己的遺伝子という考えに振り回されることもなくなると思う。

 もう一つおもしろい話題は、第4章の「性とはなにか」である。人間は発生してゆく途中で何事もなければすべて女になり、ある時点でたった一つの遺伝子が働くことで無理やり男へと軌道修正させられる。つまり女は存在、男は現象であると説く。男は排除できるが女は排除できない。性とはそんなものなのである。そればかりでなく性の区別は絶対的なものではなく、非常にあいまいであることが分かる。これは衝撃である。ジェンダーなんていうモダンな考えでさえも吹っ飛んでしまうくらいだ。体は女でも心は男、という人の性転換が話題になる現代では、必読の文章といえるかもしれない。

  • 生命の意味論 多田富雄 新潮社 1999 NDC467 \1700+tax
     雑誌「新潮」の連載(1995-96)をまとめたもの
(1999-07-19)
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