里に住む山伏



塩沼は千日回峰を満行した山伏、板橋はかつて曹洞宗の管長を務めたじさま。仏教界を会社にたとえれば、板橋が引退した社長で、塩沼は若くして名工になってしまった職人か。

標高差1300メートル以上、48キロメートルの山道を、毎日往復する。雷が落ちようが、風が吹こうが。真夜中に出発するので、提灯の明かりが頼り。うっかりすると崖から落ちる。草が生い茂った獣道には、マムシがいるかもしれない。途中で食べるのは、何も入っていないおにぎりが2個だけ。1シーズンに120日歩くと、血尿が出る。それを9年間つづける。

まさに死と背中合わせだ。毎日同じ時刻に降りてくる行者を見て、里の人には天狗と思えたかもしれない。

「初心忘るべからず」「基本に忠実に、根気よく丁寧に」行じたという。老師は片づけが苦手、私もやることが雑になりがち。心にとめておこう。
右足に「素直」、左足に「謙虚」というわらじを履かせて歩いておりました。(p180)
中2のときの自戒のことばと同じだ。なんとなくだが、自分は偉い人にはならないと決めていた。もし力を持ってしまったら、ろくな使い方ができないと、すでに気づいていたから。そのストッパーがこの2語だった。

師匠には、行が終わったら行を捨てろと教えられたそうだ。「山の行より、里の行」。「里において社会においてどう生きるか。それが大事だ」。あるがままを受け入れ、それに順応し、「一隅を照らす」しかないわけだ。
自分が自分のできる範囲内で与えられた仕事を淡々とこなす。(中略)そして背中には、世の中の人がみんな幸せになるようにという願いをもって。(p221)
同じようなことを高校の古文・漢文で習ったはず。だが、それを実践できたという記憶はない。

老師が横から解説してくれる。
「そんなことをしたら罰が当たるよ」(中略)「お天道様に申しわけない」と。いかにも素朴な信仰ですが、私はこれは人類の根源的な感情だと思います。(p170)
日本人は本来、いわゆる山岳信仰、自然信仰ですね。(中略)人間にとってアニミズム的な感情というのは、もっとも自然な感情だと思います。(p166)
その真髄が、西行の「なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」なのだと。

もし子ども向けのショート・コースがあれば、6年の夏休みに参加しただろう。そうすれば10日回峰行者として鼻が高かったかもしれない。天狗になってはいけないのに。
  • 大峯千日回峰行 修験道の荒行 塩沼亮潤 板橋興宗 春秋社 2007 NDC188.5

(2009-02-25)