孔子の末裔



西郷隆盛は、あまりにも器が大きすぎて私の尺度でははかれない。だが、なぜ征韓論をとなえたのか、西南戦争が起こったのか、それがずっと謎だった。西郷の生い立ちからたどってみないとわからないのだろうが、とりあえず『西郷隆盛を語る』という対談集を読んでみた。

7つの対談で14人の意見を聞きつつ、明治期の西郷像をメモ風にまとめておく。

明治2年の五稜郭開城で戊辰戦争は終わると、西郷はさっさと鹿児島に帰ってしまう。温泉なんかにつかってくつろいでいると、藩主忠義がやってきて藩政改革を命じられる。隠居したいのに、させてもらえない。この時期、まだ郡県制をとることに決まっていなかったので、どの藩も改革に力を入れた。薩摩藩だけではない。

明治3年になると、今度は東京から呼び出しがあった。翌年には上京して参議となる。雄藩がもちよりで国軍を編成し、この力を背景に廃藩置県を断行するためだ。

いかに経済的に困っている藩が多かったといっても、よくぞ内乱にならずにすんだものだ。日本史の教科書にはさらりと書いてあったが、これで日本が近代的統一国家になったのだから、大変革だとわかるように書いてほしかった。

いきさつはわからないが年末に遣欧使節団が出発する。まだ廃藩置県が終わったばかりだというのに、政府首脳の約半数が長期間日本を留守にするなんて、いったい何を考えていたんだろう。めんどうなことは西郷に押しつけて逃げてしまったのかもしれない。

留守政府は、首相格の西郷の下でさまざまな改革を行った。私が明治維新といわれてイメージするものの大半がこの時期に行われている。封建的な身分制度の廃止、宗教の自由化、徴兵制、士族の給与カット、地租改正、鉄道開通、銀行設立、太陽暦の採用、はじめての平等条約である日清修好条規、学制発布など。

やがて井上馨や山県有朋のスキャンダルが明るみに出て、江藤新平がもうれつに追求する。西郷は山県をかばう。

三条の通報を受けて大久保と木戸が帰国するが、使節団の仕事が失敗だったという負い目もあり、口を挟めない。その間、西郷を朝鮮に派遣することで合意ができる。

岩倉の帰国を待って、閣議が開かれ、西郷派遣が決まる。ところがこれに反対する木戸、大久保、大隈、大木が辞表を提出。岩倉も辞意を表明。それから1週間後、とつぜん朝鮮派遣使節が中止になり、西郷が下野する。つづいて、副島種臣、後藤象二郎、板垣退助、江藤新平も参議を辞職。これを明治6年の政変という。

政府内の主導力争いの口実に西郷派遣問題が使われた。明治6年の政変は大久保・岩倉連合のクーデターで、留守政府のメンバーたちは追い出された。政府は、雄藩連合から長薩派へと移行した。

遣欧使節団から西郷下野までの2年弱を、福沢諭吉は「言論自由で、世は静平」と評している。しかし、その後士族たちの不満が爆発する。佐賀の乱で敗れた江藤はつかまり、大久保の命令でさらし首にされた。

明治7年、佐賀の乱の直後、政府は台湾征討を決める。軍を動かして、たくさんの病死者を出し、出費もかさんだのに、清からわずかな賠償金を取るだけでおわった。秋には江華島事件がおこり、日朝修好条規が結ばれる。軍艦を引きつれ交渉に赴いたと聞いて、西郷は「天理において恥ずべき所為だ」と語った。

西郷は征韓論でけしからん、内治を重視すべきだという理屈は、勝ち組の大久保たちの主張でしかない。西郷を追い出した後で、征韓を実行した。しかも、もっとひどいやり方で。

政府首脳で最初に征韓論をとなえたのは木戸で、やがて板垣たちが強硬に主張した。それでは戦争になってしまうので、自分が話をつけてくると言い出したのが西郷だった。勝と話し合って江戸城を無血開城したのと同じように、朝鮮の大院君と話し合って朝鮮を開国させようとした。自分ならできると思った。
正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。その結果、友好な関係は終わりを告げ、最後には外国につかえることになる。
 『代表的日本人』(p43)
という武の人だから、けっして平和オンリーの人ではない。最悪の場合を想定して、手を打ってから行くだろう。だが決して砲艦外交はしない。海音寺潮五郎は、板垣に宛てた西郷の手紙を重視しすぎる歴史家を批判する。

そういえば、司馬遼太郎も歴史の勉強をしたいから大学院を受けようかと相談されたとき、やめとけとアドバイスしたとか。歴史学者を信頼していなかったようだ。

士族の反乱で一番大きかったのが、西南戦争だった。これは桐野利秋にのせられてしまったようだ。いったん暴発してしまうと、いかに西郷といえども止められない。

幕末のころは、西郷従道や大山巌などの提案を受けて、西郷が決断した。反対勢力があってもだまらせるだけの力があった。しかし彼らが出世してしまうと、西郷の下には情報を集め、立案するブレーンがいなくなってしまった。これが不幸のはじまりだった。周囲には坂本竜馬や勝海舟に相当する人もいなかった。

人物を欲した西郷の気持ちがよくわかる。最後は、犬しか話す相手がいなかった。

けっきょく西郷が気に入らなかったのは、政策ではなく政商と結託して私腹をこやす心根だった。明治3年に薩摩藩士横山安武(森有礼の実兄)が、官僚の腐敗に怒って割腹自殺した。西郷はこの事件に心を動かされた。参議になってから太政官の会議で綱紀粛正について決議・布告したが、まるで効果がなかった。

明治6年の政変で、権力闘争をする気になれば、可能だった。西南戦争でも、はじめから中央政府を武力で屈服させる気があれば、できたかもしれない。しかし西郷はそれをしなかった。リアリズムがなかったから、あくまでも武士出身だったから、薩摩人だったから、それをしなかった。

もしそれをやっていたら、隣国の英雄のようにまつりあげられて、とんでもない国になってしまった可能性だってなきにしもあらず。明治のイフは、けっこうむつかしい。

島津斉彬が生きていたら西郷に道を示したろうし、吉田松陰が生きていたら長州人たちのスキャンダルもなかったろう。よくよく考えてみると、優れた人たちはほとんど幕末に亡くなっている。明治まで生きながらえたのは、西郷、大久保、木戸の3人だけだ。学問や実務で有能な人はたくさんいたが、政府の中枢にいたのはセカンドクラスばかりだった。

海音寺が『南州翁遺訓』から読み取った西郷の国家観は、
わしは欧米諸国は野蛮国じゃと思っている。国が富み、兵が強く、汽車が陸を走り、汽船が海を走り、電信が一瞬にして信を数百里の遠きに伝えようと、何でそれが文明国なものか。これらの利器はもちろん今の世には必要なものではあるが、その存在は文明と野蛮を分けるものではない。彼らは道ならずして人の国を奪うではないか。真の文明国とは、外には道義をもって立ち、内には道義の行われる国を言うのだ。
 『西郷隆盛 下』(p315)
西郷の目的は征韓にあるのではなく、朝鮮を開国させ、日本とすでに条約を結んでいる清と力を合わせ、3国でロシアに対抗することにあった。

それなのに、内にデモクラシー外に対外戦争、というセットで解釈され、明治憲法下で西郷の名誉回復がなされた。この解釈が、対外進出の精神的な根拠になってしまったように思う。
  • 西郷隆盛を語る 海音寺潮五郎ほか 大和書房 1986

  • 南州翁遺訓 西郷隆盛 猪飼隆明訳・解説 角川学芸出版 2007 角川ソフィア文庫 NDC289.1 \590+tax

  • 西郷隆盛 海音寺潮五郎 学習研究社 1969

(2007-10-17)