長い小説を読むのは疲れる



 chronicle(年代記)なんて言葉は、私の使用語彙にはない。しかし不思議なもので、村上春樹の対談を読んだのをきっかけとして、ふだんは読まない小説を読み始めてしまった。

 短編小説は多少読んだことあるが、これまで長編はあまり読んだことがなかった。『ねじまき鳥クロニクル』は、3部に分かれた大作で、読むのにずいぶん時間がかかった。複雑な話が絡み合い、読み終わってもかなり不満が残った。いったい何を読んだのだろうか。人物描写などがやけに長く、これが文学的な表現なのかと感心することしきり。小説好きの人は、こういう文章にしびれるのだろうか。
運命の力は普段は通奏低音のように静かに、単調に彼の人生の光景の縁を彩るだけだった。彼が通常の生活でその存在を意識させられることは希だった。
僕はソファーから立ち上がって、もう一度シナモンの小部屋に行った。そして机の前に座り、机に肘をついてモニターの画面を見つめた。シナモンはたぶんそこにいるのだ。そこには彼の沈黙の言葉が、いくつもの物語となって生きて呼吸しているのだ。
 こういう表現はなじみがないのでとまどった。しかし全体を包む小説の雰囲気というものは、かなり気に入った。次回作も読んでみたいと思う。

 つづいて手にしたのが『砂のクロニクル』。読み始めてしばらくしてから、どちらのタイトルにもクロニクルという言葉が使われているのに気づいた。こちらは、ハードボイルド小説とでもいうのだろうか、やたら人が死ぬ。舞台がイランというエキゾチックな場所なので、かえってリアルさを感じる。ぐいぐい引っ張られるように読んでしまった。

 やめておけばいいものをまた長編にトライした。『死の泉』、これは2段組で約430ページもあるとても長いミステリー小説だ。少し話の展開の分からないところもあるが、ナチ、ロマ(いわゆるジプシー)、ポーランド人などが入り乱れて登場してくる。昔読んだマンガ『石の花』と似た感じもあった。

 まったくタイプの異なる小説だけど、3作品を貫くものは、「死」である。村上春樹の「小説を書くというのは、自分の死というものを先取りするということかもしれない」という言葉を思い出す。生きている若者の恋愛に徹底的にこだわるドラマ「愛していると言ってくれ」とは対極にある。

 蛇足ながらの感想を一言。あまりにも長い小説を3つも読んでしまった私としては、原稿料や印税のために必要以上に長くなっているのではないことを祈る。

(1998-12-14)