生まれかわる



 梨木香歩は、ずいぶんと文体を変える。『家守綺譚』や『村田エフェンディ滞土録』では枯れた文体だったのに、『沼地のある森を抜けて』では若やいだ感じがする。テンポも速い。主役が30代独身女性だからか。

 自分のルーツを求めて島に渡るという設定は、よくあるパターンだ。森絵都『いつかパラソルの下で』もしかり。しかし、そこに沼があって…、というあたりが梨木らしい。『からくりからくさ』では手仕事が主題になっていたが、『沼地のある森を抜けて』では生命、とくに性が軸となる。

 無性生殖とファンタジーを合体させ、それをぬか床に具体化させたところがミソかな。

 でも「…脳がぬか床のようだ。」(p34)なんて書かないでほしいなあ。リアルすぎる。「あんたの頭、ぬかが詰まってるんじゃないの」と何度言われたことか。
 何で、朝起きた瞬間から、ぬか床に1日を支配されなければならないのだろう。この世話は、一生、生きている限り、ついてまわるのか。思わず倒れ込みそうになる。私が死んだ後はどうなるのだ。加代子叔母のところの長女か。逃げられないのか。もしかしたら、私の一生はぬか床に捧げられるためにあるのじゃないか……。
 情けなくて涙が止めどなく出てくる。これは呪いだ。呪縛だ。毎日毎日ぬか床をひっくり返し続けていた、律儀な代々の女性達。その日常に捧げられた果てしないエネルギーの集積がこのぬか床なのだ、きっと。そして子々孫々そこから逃れられないように呪縛をかけたのだ。(p110)
 抵抗なくぬか床と毎日つきあえる人もいるのに、私はダメだった。その代わり、犬に支配されている。一生でもないし、代々でもないのが救いか。自分の選択ではなく、受け継ぐところに心理的負担の源がある。それを日常として受け入れられるまで。

 結婚したいと思ったときには、相手をぬか床に見立ててみるといいかもしれない。はじめは珍しさからいろいろ漬け込んではみるものの、やがてその手間ひまに飽きてくる。それでも習慣になれば、愛着もわいてくる。それが暮らしというもんだろう。

 謎解きをともにする友人風野の母親は、嫁ぎ先で消耗品あつかいされた。彼はそれに腹を立てつつも、自分のなかに横暴な父権社会の身勝手さを見いだしてしまう。
それで男を捨てたの。手術したわけじゃない。精神的、意識的にね。でも、女を選択したわけでもないから。強いていえば無性であることを選んだ。(p152)
 そんな二人が、沼地で性を取りもどす。ぬか床と変形菌に導かれて。

(2006-09-05)