家族というパッチワーク『暮らしをデザインする』というタイトルにつられて手にとる。著者は、宮脇檀。住宅の本を読むのが嫌いではないのだが、建築家という人たちが好きになれなくて、名前は知っていても、本を手にすることはなかった。それなのに、冒頭のエッセイをいくつか読んで、すっかり意気投合してしまった。 本書は、父の口癖が「カッコよければ全てよし」だったという娘さんの証言からはじまる。それは、玄関は美しい顔であらねばならぬという主張や「扉には住む人の品性がでる」というタイトルからもうかがえる。 相変わらず田舎の工務店だって恥ずかしくて付けないような扉類が道路際をにぎわしているのは、基本的には安ければ何でもよいという精神と、何でもいいやという家に対する無関心さが家を建てる人に共通しているからだ。(p3)離婚暦があるせいか、奥さま方にうらみのこもった表現もちらほら。 お客さんに無理やり頼まれて、4つも納戸がある家を設計して、それでも家中に物があふれているという事例を山ほど体験した私が言うのだから間違いない。奥さん、納戸なんか作るのやめて、少し物を捨てることを考えましょうと、建築家は一生懸命言うのだが、それができないのよねと、主婦は悠然と納戸が欲しいと繰り返すのだ。(p19)もう正論すぎて困ってしまう。すっかり気に入ったので、他の本も読んでみた。家のデザインやソフトウェア面をよく考えている。そのエッセンスは、この本の中でもさりげなく語られている。 ここでもう一度、家というのは、家族が家族だけでデレデレするための建物だという原点を思い出して、わが家族にとってお互いのふれあいを確認し合う家とはどんな家だろう、というところから出発してほしいのだが。(p33)宮脇は、家の本質を提示する。ここにすべてが集約されている。逆にたどれば、ここからさまざまな問題が派生していることがわかる。 客との打ち合わせは、主婦を相手に行う。彼女たちは、雑誌のカラーページから抜け出したようなリビングをほしがり、夫婦別室を望む。夫は会社と結婚したみたいな人がほとんどで、家には居場所がない。打ち合わせは妻に任せきりなのに、書斎がほしいと言う。 けっきょく、子ども室完備で、家族ごっこをすることのないリビング、物置になった書斎、使われない家事コーナーのある家ができあがる。 ここに気づけば、建築家と共同で行う家つくりのプロセスを、壊れかけているかもしれない家族を再生させるきっかけにすることもできる。それなのに素敵なリビングさえあれば、思い描いたような家族になれると勘違いしてしまいやすい。家とは、そういう妄想を誘発するもののようだ。 さて、野中の一軒屋というのは少ない。たいてい隣近所がある。 家一軒で作る風景ではなくて、そんな家が連なって風景は出来るのだということを考えてみて下さい。貴方が建てる家が風景を作るのだと考えてください。これは理想論。ちっとも考えない人がほとんどだから、現実にはちぐはぐな街並みができあがる。 木をふんだんに使ったナチュラルハウスに建て替えるとき、壁をサイディングにして周囲と合わせた人がいる。街並みから浮き立つような自己主張のあるデザインにはせず、自分の家をめだたないように埋没させた。建前のときに、お客さんのために隣家がトイレを貸してくれたり、PTAで仲良くなった人たちが惣菜を差し入れてくれたりする。そんな人間関係を大切にしたのだ。 周りを気づかうこころを、かつてはみな持っていたはずのに、どこかへ落としてきてしまったようだ。 美意識を期待するなんて、ないものねだりなのかもしれない。そこに宮脇も気づいたのか、住宅を街ごと設計したことがある。オーダーメイドで家を自分勝手に作るよりも、よくデザインされた分譲住宅を買う方がましというもの。そういうセンスのあるデベロッパーがあればの話だが。
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