話芸



池田晶子があとがきで、小林秀雄の講演「信ずることと考えること」をすすめていたので、遺言と思い聞いてみた。

1974年の講演で、歯切れのよさともごもご感のある話し方。まるで志ん生のよう。よく聞き取れないところがあったので、文字に起こしたものを探した。

ところが内容がずいぶんと違う。イントロのユリ・ゲラーから柳田国男へと話が進んだまま終わってしまう。宣長や歴史の話は省略され、代わりに柳田の話を膨らませている。よく見ると「信ずることと知ること」というタイトルだった。なんとも微妙な違い。

教科書に載っていた小林の文章を読んだはずなのだが、よほど相性が悪かったらしく、タイトルさえも覚えていない。小難しい文章などやめて、この講演を教材に使えばいいのに。

せっかく個人全集を手にしたので、他の文章も読んでみた。友人の今日出海との対談は、まるで掛け合い漫才。それでも「歴史上の事実とは、ただ調べられた事実ではない。考えられた事実だ」とか「歴史を読むとは、鏡を見ることだ。鏡に映る自分自身の顔を見る事だ」(p445)など実のある話をしてくれる。

獅子文六「牡丹」は名文、兼好法師をしのぐ批評家はいない、大仏次郎「天皇の世紀」はいま一番いい歴史、のようにほめ上手な一面ものぞかせている。それもそのはず、「批評とは人をほめる特殊の技術」(p14)と書いてある。

1965年の岡潔との対談にも興味をそそられた。ベルグソンとアインシュタインの衝突の話から佳境に入る。岡の数学の世界は、感情が土台の数学で、そこから逸脱すると抽象的な数学になる。今の自然科学は破壊と機械的操作ばかりで何も建設していない、と岡は嘆く。

小林は、見当がついただけでは物を書けないと言う。
解説というものはだめですね。私は発明者本人たちの書いた文章ばかり読むことにしました。自分でやった人がやさしく書こうとしたのと、人のことをやさしく書こうとするのとでは、こんなにも違うものかということが私にはわかったのです。(p172)
それはわかっているのだが、そのハードルが高くて越えられないことがある。
私は人というものがわからないとつまらないのです。だれの文章を読んでいても、その人がわかると、たとえつまらない文章でもおもしろくなります。石や紙というものをかいてもおもしろいのと同じように、人間というものはそこに実体が存在するのです。それがないのがあるでしょう。それは私にはつまらない。文章というものもみんなそうなんです。(p186)
とくに自分を理解してほしくて文章を書くわけではないが、何かを書けば自分が出てしまう。そこをくみとってくださった方なら、つまらない文章でもおもしろく読めるのかもしれない。希望的観測。
小林:着想というものはやはり言葉ですか
岡:ええ。方程式が最初に浮かぶことは決してありません。方程式を立てておくと、頭がそのように動いて言葉が出てくるのでは決してありません。ところどころ文字を使うように方程式を使うだけです。(p211)
一番聞きたいことを質問してくれた。テレビのインタビューを見ていると、肝心なことを質問しないのでイライラする。さらに小林は、丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育だと語る。
「論語」はまずなにを措いても、「万葉」の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。(中略)古典の現代語訳というものの便利有効は否定しないが、その裏にはいつも逆の素読的方法が存するということを忘れてはいけないと思う。(p227)
こんな感じで、私レベルの人間が喜びそうな話がつづく。これをタネ本にして、あやしげな説教などせぬよう気をつけよう。

子どものころ百人一首で遊ばなかったので、古典に接したのは高校生になってからだ。でも、それでは遅い。九九を覚えるころに、和歌くらい一緒に覚えてしまいたかった。

この対談は「新潮」に掲載された。岡がしきりに知力の低下を嘆いている。さらに41年後の「文学界」の対談は、同じ文芸誌でも小粒感がぬぐえない。 (2007-04-18)