ここは御国の何百里



半藤一利『昭和史』を読んでから、歴史の本が読みやすくなった。しかし、政治史が中心に書かれた本は通読できない。現在の政治にさえ関心がないのだから、過去のそれに興味がもてなくても不思議ではない。

たとえば、キング・ギドラとガメラが合体したような山室信一『キメラ』で、読めたのは序章と終章だけ。良書だということはわかるのだが、本文はパスした。補章は、満洲の基礎知識についてのQ&Aで、これが役に立つ。

疲弊した農村で耕す土地を持たなかった人にとって、満洲は希望の大地だった。実際は、国家の盾として植えられた民草であり、屯墾病(ノイローゼ)にかかる人もいたのだが。大連やハルビンなどの主要都市は、内地で入手できない輸入品があふれる西洋文明のフロンティアだった。そして内地からはじき出されてしまった転向者たちも自由に活動できるアジールであった。その証拠に、満洲国からの亡命者はほとんどいない。

「異民族による人為的な建国からはじまって、大量の移民が流入し、そしてまた異民族の軍隊によって消滅させられた」満洲国は、「国家や軍隊が個人をどう扱うのか」「個人は国家にどう関わるのか」という歴史的実験であり、「21世紀において国籍を超えた人々との多民族の共存という私たちが直面している課題を考えていくための思想的な糧」である。山室は、満洲ないし満洲国をこうとらえている。

芳地隆之『ハルビン学院と満洲国』は、なんとか通読できた。著者が歴史学者でないせいか、文章が読みやすい。ここらあたりが読めるかどうかのボーダーラインのようだ。
敵の内面、感情にまで踏み込む行為は、国家から「裏切り者」呼ばわりされる危険と紙一重である。ゆえに、歴史上、真面目で忠実な諜報員が、なかんずく二重スパイの嫌疑をかけられる経験をもつわけだ。(p12)
そのひとりが石光真清で、彼が拠点としたハルビンは「闇市的なもの」「二重スパイ的なる存在を許容する懐の深さ」をもつ町だった。ある時期までは。

芳地は、石原莞爾と甘粕正彦を対比する。ベルリンに留学した石原は音楽や文学に興味を示さず、軍事史研究に没頭した。ロジックで闘うドイツ人の性向は、石原に向いていた。一方、しぶしぶパリへ留学した甘粕は、コンサートやオペラを観劇した。帰国した甘粕は、すぐに満洲に渡り、やがて満洲映画協会の理事長に就任する。
満映は満人に喜ばれる映画を作っていればいいので、日本人が珍しがるような映画を作る必要はない。(p171)
そのために必要な人材を集めた。理念の石原に対し、実践の甘粕と言えよう。日本人の指導によってのみ在満蒙諸民族の幸福が保護され、増進されるなんてありえないと、腹の底では考えていたのかもしれない。その甘粕の辞世の句が、
大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん
日本民族を指導民族とする民族協和だとか、それによってもたらされる王道楽土とかを笑いつつ死んで行ったのだろう。

ここで、「ラストエンペラー」で甘粕を演じた坂本龍一が、ハラキリを拒否したエピソードを紹介する。このタイミングの良さが本書の魅力だ。

敗戦後も現地に残って働いた満映の職員がいた。満映は、接収され東北電影公司と名を変えたあと、映画技術の伝道の場となった。

歴史の本を読むのが嫌いになると困るので、これからはむりに通読しないことにしよう。
  • キメラ 満洲国の肖像 増補版 山室信一 中央公論新社 2004 中公新書1138 NDC222.5 \960+tax

  • ハルビン学院と満洲国 芳地隆之 新潮社 1999 新潮選書 NDC210.7 \1,000+tax

(2007-12-09)