きまぐれドア 〜場の響きを聴き、形にする旅へ出よう〜
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歳時記

あわただしく走り続けることで、私たちは、どんどん浮いてしまい、世界もどんどん浮いていく。
今の自分や身の回りに起こる微妙な、しかし、劇的な変化に日々耳を澄まし、自分の呼吸とリズムで歩み続けよう。日々を耕す中で、自然と共に暮らすリズムを回復し、私たちの生きる世界は、生命感あふれる、何か懐かしいものになっていく。そして、もっとも素朴な本来の自分に立ち帰り、自分の小宇宙をたもつことができる。
小宇宙を持った個々人が集い、時間を降り積もらせるとき、そこに場が育ち、関係性が回復する。
その源泉となるのが歳時記ではないだろうか?
私は、日本人の感覚のエッセンスでありながら、埋もれがちな歳時記を、個々人の経験を元に再構築してみたい。


 ことばを読む

ノッペラボーを超える

 センス・オブ・ワンダー

感じる

 みち草

歳時記は日本人の感覚のエッセンス

 気ウォッチング

間合い、共鳴

 俳句の宇宙

神仏や精霊を身近に感じる

 今日から始める俳句

季語日記

 自然歴について

自然のわずかな変化に生活を適応

 暮らしの型再耕

暮らしを耕す

 子供たちを救う

生活のリズムを大切にする

 フラジャイル

劇的な変化は弱々しい微妙な変化にひそむ

 ハレ・ケ・ケガレ

大中小のリズムの組み合わせで

 二十四節季

歳時記の基本

 『ことばを読む』井上ひさし(中公文庫)1985

私たちの生きている<いま>とは、構造体としての妙味に欠けるノッペラボーの時代(7)

均質性をあくまで拒否しながら、自分の宇宙をしっかりと確保しつづけ、そのためにかえってこの均質空間のオアシスとなり得ているものがある。(8)

均質時間を追い越すことに成功した瞬間、それは疎外するものではなく、なにか「懐かしいもの」にかわる。(16)


 『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン(佑学社)1991

センス・オブ・ワンダー:神秘さや不思議さに目を見はる感性(21)

「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない(23)


 『みち草』大岡信(世界文化社)1997

歳時記は、日本人の昔から持っていた季節感、自然に対するものの見方や感じ方のエッセンス


 『気ウォッチング』片山洋次郎(日本エディタースクール出版部)1994

相手との間合いが近づきすぎると(何に対しても執着が強すぎると)、共鳴できる間合いを外れてしまう。(21)

「今までの人生の中で待っていたのはコレだ!」と思うような強い思いこみがある場合ほど難しいし、たぶん本物ではない。本当の体験はむしろ静かにやってくる。(21)

今は社会の中では頭は慢性的興奮状態といってよい。頭に異常に気が集まり、丹田の気が抜けやすい。情報に対して、よりよく反応して、社会的に適応しようとするほど、そういうバランスになる。(55)

良い共鳴の仕方をすれば、一人でバランスをとろうとするよりもずっと大きな力を得る。(93)

植物にとっては、外部空間が体内なのだ。とくに森の中などは体内空間そのものだ。したがって空間に秩序を与えているのは、植物だ。(98)

目には見えないが、一見何でもない日常の一瞬が世界を動かしているのかもしれない。(106)

"気"をとらえるポイントを"エネルギー"としてよりも、意識と身体、自己と他者(世界)との関係として、"間合い"のあり方としてとらえた方がわかりやすい(111)

圧倒的なパワーの差がない限りは、意識がまっすぐに向かい合ってしまうと身動きがとれない。・・・攻撃するには相手の意識の中心(方向)を外してから、あるいは力の方向をかわしながら攻めなければならない。(116)

相手の中心線に対して自分の側から見て左側に位置して、左側から意識を持ってゆくと緊張をゆるめやすい(エネルギーを発散しやすい)。(119)

季語は一つの制約であるが、季節という場、変化、それに反応する身体でもあり、自然界と身体をつなぎとめるものである。(129)

身体は季節によって、体の状態を変えてゆく。(129)

誰かに対して気を合わせて、共鳴しようとすることも、自分の中で意識と身体を共鳴させることも、違うことのように見えるが、本来は同じである。(136)

悩むときというのはまた解決不能なこととか、ものごとの解決不能な面をわざわざ選んで悩む傾向がある。・・・解決がつかないということは、今とりあえず考えうるあらゆる要素を動員してもどうにもならないということだ。・・・誰でも経験することだが、結局何らかの形で解決はついてしまう。どうにかなる。良いにしろ悪いにしろ終わりがある。悩んでいるときは、それが一生続くような気分がするものだ。それはむしろ身体のバランスによっていると見ることができる。実際に体のバランス(腰椎2-3番を中心とする弾力)が良くなってくると、同じ環境にあっても解決のつく問題に意識が向きはじめ、元気になってくる。そしてまた、どうにもならないように思えることは、予測のつかないファクターがやってくることによって、常に解決がつく。(194)

悩みにしがみついていれば苦しい。こういうときは周りのあらゆるものに対して間合いを近くしようとしている。・・・胸椎1番(首の後ろの下のほう)を中心に、後ろに引くような感じにしておいてフッと放す。弓をグッと引いて放す感じである。そこで、持っているものを投げ出すような気持ち、あるいは自分自身の体を投げ出すような気持ちにすると、もっと楽になる。それからやってくる何かを待つ姿勢にすると静かになる。静かな充実感、集中した感じになる。そのとき意識の中心は、目の前から目の後ろの頭の内部に戻ってくる。眉間を窓として見れば、窓の内側から外部をながめているような意識に変われれば、モノごとを落ちついて見ていることができるようになる。周りのモノが温かく親しみのある感じに見える。そしてその窓が曇っている感じから、透明になり、明るくなってくると、心が晴れた感じ、心が軽い感じになる。(196)

自分のエネルギーを余すところなく発揮できているほど、より充分に生きているといえるが、バランスがとれるのはより難しくなる。ただ楽になるのではなく、「おもしろ苦しい」のである。(196)

 『俳句の宇宙』長谷川櫂(花神社)1989

暦が変わるということは、大変なことなのだ。ある文明が採用している暦は、その文明が宇宙をどうとらえているか、自然とどうかかわっているか、を表す。それが変わってしまえば、文明は根底から揺さぶられる。(32)

俳句の作り手が季語をホログラムとしてつかいこなすにも、また、俳句の読み手がホログラムとしての季語から宇宙の三次元映像をよみがえらせるにも、辞書や歳時記からの知識ばかりではなく、どうしても季語の現場での体験の積み重ねがいる。体験が豊富であればあるほど、ホログラムからよみがえる三次元映像は鮮明なものになり豊かな細部を持つことになるだろう。(39)

言葉は混乱する。人間の約束事であるから。しかし、言葉のとらえようとする宇宙はいつもしいんと脈うっている。(40)

街の生活も結局は、それをとりまく田園と自然のうえに成り立っている。
都市は自然のなかに浮かぶ島なのだ。
都市での自分たちの生活が、どのように自然と結びついているか。自然はどういう形で都市の生活にしみこんでいるか。何もそれは人工的に管理される街路樹や公園のサルビアばかりではない。都市の背後にひろがる草原や海や星空ー都市の根拠としての自然に想像力を働かせること。こういう仕事こそ「いきいきとものを作ったり考えたりすること」の最も大切なひとつではないのか。
俳句の季語は、もともと、そういう働き方をする言葉だ。
居ごこちのよい椅子から立って、扉を開きその言葉のなかに入ってゆきさえすれば、草原や海や星空の、さまざまな宇宙がどこまでも続いている。
マンダラのような言葉。
そこに行くには、ただ、自分の方から扉を開き、なかに入ることー参加することが必要だ。
言葉の方は、さりげなく、そこにあるだけなのだから。(138)

大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば星を見るとかして。
二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過すのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でいいのだけれども。
たとえば、このような力を俳句に、季語に与えることはできないだろうか。
新しい常識のうえで。
もちろん星ではなく、スイカズラやナツツバキの花でもいいのだけれども。(149)

手がかりは、いくらでもある。ただ、かすかだから、つかまえようとするなら注意深くなければならない。それを怠るならば世界は退屈な時間の淀みになってしまう。(151)

俳句は、時代の制約を超えて宇宙の鼓動に触れることのできる十七文字の火掻き棒である。
そのために、俳句には季語や五・七・五というリズムがある。季語は季節の変化に織り込まれた言葉。季節の変化も宇宙のリズムのひとつ。また、五・七・五は大昔から日本人が宇宙と呼吸を合わせるときに使ってきた原初のリズム。どちらも、もとをたどってゆけば天体の回転の不易のリズムに行きつくだろう。(160)

芭蕉は、このように神仏や精霊たちをありありと感じとることのできる人だったようだ。というより、芭蕉だけでなく、そのころの人々はだれでも神仏や精霊を身近に感じとる力をまだ備えていたのだろう。
そのころの野や山には、公認の神々や仏ばかりでなく、一本一草にいたるまで、かすかな精霊たちが棲んでいた。(p.166)

いま新しい大変動に立ち合っているのかもしれない。
「自然」から「宇宙」へ。
「自然」は人間の外側をとりまいているものだったが、「宇宙」は人間の外側にあると同時に内側にも見いだされるだろう・・・自分を包む宇宙に目を凝らし耳を傾ける君は自分の内部にも同じ宇宙が広がっているのに気づくだろう。やわらかく波打ち収縮する肺や筋肉、太陽としての心臓、銀河のようにほの白く光る意識。ここでは主体と客体、内部と外部の違いはたいして重要なことではない。自分の外側に見ることのできるものは、自分の内側に感じとることができるものだ。
君は自分がふたつの宇宙を仕切り、そして結びつける半透明のうすい膜が、烈しい光のなかにそびえたつガラスの鏡になったような気がするだろう。
「自然」から「宇宙」への変動によって、滅んでゆく季語と生まれてくる季語があるだろう。宇宙とのかかわりを見失った季語は消え、新しく宇宙とのつながりを見いだした季語が現れる。
リズムー人間が宇宙と呼吸を合わせるためのリズムは、いままでよりももっと意識され大事なものになってゆくだろう。
「宇宙」という新しい「場」のうえで、古いものが解体され再編成され、新しいものが生まれ微調整されてゆく。
徐々に。
そして、いつか長い時間がたった、ある朝、目覚めて、全く新しく生まれ代わったと感じるのだ。(171)


 『今日からはじめる俳句』黒田杏子(小学館ライブラリー)1992

歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である。(寺田寅彦、14)

日本という風土に生きてきた日本人の生活の知恵が季語を結晶させています。季節感、倫理感、美意識、ありとあらゆる日本人の感情が短い文言に集約されて季語となりました。・・・季語には一時代、一地方の生活感情や生活事情が明らかにされています。季語は日本人の生活百科と言っていいでしょう。(角川源義、14)
俳句に遊ぶということは、一面では日本の風土現象と日本人の生活全般にわたってのこまやかな認識を目指すことであるとともに、他面では日本民族の長い歴史の上に築き上げられた一つの美的秩序の世界、擬制的な約束の世界に遊ぶことなのである。(山本健吉、15)

生きている限り、人はいつも何かに出合っています。そういう出会いの瞬間を季語に託して詠む、それが俳句です。この世の中の森羅万象、すべてが私たちとの出合いを待っていると考えてみたとき、生きている一瞬一瞬がかけがえのない大切な刻(とき)になるはずです。(16)

待ちかねてはじめて開いた桜の美しさを<初花>と讃えること、日に輝く<朝桜>、あでやかに暮れていく<夕桜>。俳句では花といえば桜の花を指す約束で、花の雲、花吹雪、落花、花屑、花の雨、花冷、花の山、花便、花守など特有の美しい季語がたくさんあるわけです。歳時記を開けばいつでもこういうことばたちに出合うことができます。このような「季語=磨き上げられた宝石のようなことば」を現実の生活の中で、一つ一つあらためて体験し、味わいながら、自分自身の感性と発見を一行の詩にしていく、これが俳句なのです。(19)

生きていく私たちを取り巻く世界、植物や動物、天文、地理さらに人事的な祭りや年中行事をも含めた森羅万象との一瞬一瞬の出合いと感動を素直な心で詠んでいく、これが俳句づくりの基本だと私は信じ、実践しています。(19)
季語の実体と新しい出合いを重ねつづけている限り、俳句作家の命はますますみずみずしくなるはず(21)
もしも十二分に歳時記を読みこなせたら、たとえ俳句を作らなくても、その人の生活や人生に潤いと精神のゆとり、さらにやさしさが加えられることは確かなことです。(27)

「季語日記」はあなたの歳時記です。あなたの目と耳、舌や手や足そして心がとらえたあなた自身の編集によるこの世に二つとないオリジナル版の歳時記です。(28)

もしも、今日から最低1年間「季語日記」をつけ通されたとしたら、1年後の三月、あなたの生活はまったく新しい人生の入り口に立っているはずですー。(28)

私は、「歳時記」というものにずいぶん前から興味を持ってきたものの、俳句の世界にはまだなじみを感じられず、入っていけずにいます。でも、このホームページは、自分なりの「季語日記」なのかな、と思っています。始めてからまだ1カ月ですが、1年後の来年1月が楽しみです。(2000.2.13)


 「自然暦について」筑波常治

自然界のわずかの変化をめざとく見つけ、気候の推移をさきどりし、それに生活を適応させてゆく自然暦こそ、注目にあたいする文化遺産だと考えている。

 『暮らしの型再耕』野添憲治編(現代書館)1992

衣食住にわたって日常生活の中には耕すことがたくさんある…それをやっていくことで、自ら人間の生活のリズムや喜びが回復されてくるんじゃないか(8)

 『子どもたちを教育崩壊から救う』大村祐子(ほんの木)1999

「生命感覚」を保つために大切なことは生活の中のリズムを大切にすることです。四季の移り変わりを楽しみ、季節の行事をし、季節の食べ物を食卓にのせ、身の回りを季節の草花で飾る……。お正月には良いことがありそうな予感に心を躍らせ、二月の寒さの中では身をちぢめ、春の足音に胸をふくらませ、五月の爽やかな風を胸いっぱいに吸い込み、梅雨には家に閉じこもって本を読み、夏には登山に挑戦する。秋には静かに落ち葉を掃き、冬には心を落ち着けて内観する……。わたしたち大人が生活のリズムを保ち、生きることを喜び、楽しんでいたら、一緒に生きている子どもたちの内にも、生きることが素晴らしいことだと感じるようになるでしょう。「生きることは楽しい、素晴らしいことだ」と感じることこそ、子どもたちの「生命感覚」を育て、力強くする源なのです。(43)

 『フラジャイル』松岡正剛(筑摩書房)1995

われわれは日常の連続をごくごく平凡なこととか退屈なこととおもいすぎる傾向がある。
ほんとうに劇的な変化は弱々しい微妙な変化にこそひそむ。神は細部に宿りたまうものである。(118)

 『ハレ・ケ・ケガレ』桜井徳太郎他(青土社)1984

小リズム、中リズム、大リズムというものが生活のなかにうまく配合されて。人間の生活体系が組み立てられている。(23)

 二十四節季
 http://www.basiclife.info/24settuki.html

歳時記の基本、二十四節季について簡潔にまとめてあるページ

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