一五〇センチの地下 第九回 浅井 清孝
確かに心の隅に穴があいたという感覚はあった。しかし、それほど大きな、重大なものでなかったと悟は感じている。まだ寄りかかり、神経を集中させれる存在の仕事があったからだ。久美子がどんな思いで、どういう心の動きでそうなったかなどはどうでもよかった。それよりも仕事でもっと大きな成果を出すことに集中していた。否、もしかしたらその逆で、久美子のことがあまりにも大きな喪失で、それを埋めるために仕事に集中したのかもしれない。どちらが最初かというのを悟は考えたことはなかった。
仕事は着実に実を結び始め、もう一つ段階を上げてみようかという話し合いがメンテナンスチームで持ち上がってきた。今までの顧客は一年以内という条件であったが、今度はさらに古い顧客、三年以上前という条件でリストアップしようと考えた。しかし、悟はその企画に反対をした。それは営業がやることであり、自分たちはあくまでメンテナンスなのだ。売ることが目的ではない。修理をし、信頼を得ることなのだ。そう説明をしたが、副島、益岡は納得をせず、三年以上前でも今でもウチの機械を使っていればアフターサービスをするのが当然で、もし使っていなければそこで引き下がり、営業にわたせばいい。そう主張した。確かに二人の言うことはもっともである。しかし、二人の口ぶりにはどうもその言葉とは裏腹の、ある種のうさん臭さを感じていた。なんとか売り上げを伸ばしたい、一目置かれたいという欲目がちらついていた。自分もそういうものがなかったといえばウソになる。しかし自分たちの立場を忘れ、欲目を出してうまくいくことはない。悟はそう考え、慎重にならざるを得なかった。それを二人は役を貰ったから保守的になっているのだと暗に批判めいた言葉を言うようにな
ってきた。しばらくは様子を見て、リストアップだけはしておこうということで結局その話は終わった。
「なあトリ君、コピー機の修理をお願いしたいんだ」
午前中の修理が終わり、一息ついていたとき、ケイタイに電話が入った。相模原の町工場の若社長の暮内であった。工場で足に重傷を負った父親に代わり、証券会社をやめて跡をついだ暮内は悟と年齢が近いせいか親しくなっていた。悟の仕事に感心し、近所の工場で使うファックスやコピー機の買い替えを斡旋したりしてくれ、近くを回れば必ず顔を出していた。先日とうとうコピー機が修理不能となり、やりくりが厳しいなか、新品を買ってくれたのだった。
症状を詳しく聞くと、何度コピーをしてもぼやけた感じになり、紙詰まりも頻繁に起こって困り果てているというのだ。今日は修理がもうないのですぐにそちらに向かうと伝え、休憩もそこそこに営業車に乗りこんだ。
二日もたたないコピー機がそんな症状を起こすという事に悟は首をかしげた。納品してすぐに性能のテストもするし、新品のローラーも紙詰まりを起こす確率は低い。一体どうしたのかと思っていた。
工場につくと苦笑いをして、腕を組んでいる暮内が待っていた。工場を仕切るにはいささかおとなしすぎる嫌いのある暮内は呼び立ててしまって申し訳ないと言い、事務所に案内した。悟は事務所に入り、コピー機を見た瞬間、いやな予感がした。電灯のせいではない、淡い乳白色の外観が引っかかった。
「納品の時に副島さんだったけ? 彼と営業の友部さんが来てちゃんとテストしてくれたんだけどね」
暮内はお茶を出して悟に飲むように進めた。そしてコピーした紙を渡した。それは薄く紙一面に細かい斑点が見え、文字や線がぼやけていた。悟は上着を脱ぎ、コピー機の前にしゃがむと、フタを開け、引き上げレバーを上げてコピー機の内部を見た。その瞬間に血が逆流していくのがわかった。
コピー用紙を送るローラーは通常ゴムで出来ていて高くなる放熱に耐え、かつ紙を確実に送るようになっている。しかし二年も使うと劣化し、ローラー表面にコーティングされているビニルがはがれてくる。そうなると紙が頻繁につまるようになる。その症状が新品のコピー機のローラーにあったのだ。悟は勤めて冷静に機械を閉め、コンタクトガラスを開けた。レンズを見ると薄く曇りが確認され、正常な位置にレンズが移動しないことを確認した。
やられた。
悟はそう胸のうちで叫んだ。これは新品ではない。中古ではないか。きれいに表面を磨き、白くさせてはいるが淡い乳白色は日焼けによる劣化を意味している。悟は内部カウンタを見る。カウンタはいじられた跡が窺える。悟はフタを閉め、込み上げてくる怒りを必死に抑えた。友部も副島も詐欺をしやがった。新品と偽って中古を売りつけやがった。胸の中で友部の卑劣さと、副島の裏切りへの憎しみでいっぱいになった。
「どうかなあ、トリ君」
考え込んでいる悟に暮内は聞いてきた。さんざん苦労してきて、不慣れな工場を仕切り、やりくりが厳しいのに新品を買ってくれた客になんてことをするんだ。悟はそう思い、新製品だからまだ調子が悪い見たいだが、どうもその中でもはずれな機械かもしれない。メーカーの人と相談するため、申し訳ないが一日待ってもらえないだろうか、と説明した。暮内は今日一日使えなくてもそれほど困るわけではないから大丈夫だと答え、新製品は最初よくこういうつまらないトラブルってあるよなあと笑った。
車に戻ると悟は社に電話をかけ、友部はいるかと確認した。今営業に出ているが、六時には帰社予定だと女子社員は答えた。それを聞くと悟は電話を切り、続けて副島のケイタイにかけた。
「例の件、今日改めて話し合おうか」
悟は顧客リストの件を出し、社に戻っても少し残っていてくれと頼んだ。副島は快く承諾し、益岡には自分から連絡しておくと言って電話をきった。震える手で煙草をとり、火をつけると悟は腕時計を見る。今から帰っても十分間に合うと考えると、つけたばかりの煙草を消し、エンジンに火をいれた。
会社に戻ると女子社員の加藤しかおらず、営業もまだ誰も戻ってきていなかった。加藤は今日は早いのねと笑い、コーヒーを入れてくれた。
「ねえ、加藤さん、ちょっとお願いがあるんだけどさ」
悟は誰もいないことを確認すると加藤に手を合わせ、多少の演技を入れた。
「先日までの納品分のメーカー連絡書ってまとめてあるかなあ」
「うん、もうまとめてあって、明日メーカーさんに送るわよ」
ちょっとみせてほしいんだ。悟がそういうと、加藤は快くファイルをみせてくれた。悟は礼を言ってすばやく目を通したが、先日納品した自分の担当地域の連絡は二件しかなかった。確かに、四件納品したにも関らず。納品が重なったため、納品に付き合ったのは二件で、その報告、請求書はあったが、残りの二件、副島と友部に頼んだものは記載がされていなかった。それを確認すると、先月は売れたねと笑い、加藤に返した。
「ただいま」
友部が戻ってきた。また一台売れたよと意気盛んに言うと、加藤はすごいわねと応え、コーヒーを入れに給湯室に入った。それを確認すると悟はすっと友部の席に近づき、調子いいですねと笑いかけた。
「営業だからね」
「新品が売れたんですか?」
当たり前じゃないか。友部はそう答えたが、一瞬目をそらしたのを悟は見逃さなかった。
「中古を売るわけないですもんねえ」
「何がいいたんだよ」
「てめえ、待ってろよな。副島が戻ってくるまで帰しゃしねえぞ」
友部の耳元でそう囁くと、悟は副島が戻ってくるまで、友部の横から離れなかった。
益岡と副島がほとんど同時に戻ってくると、悟は副島を手招きで呼んだ。そして友部をつれてメンテナンスチームの部屋に入った。
「友部さん、今日新品のコピー機一台売ってきたらしいぜ、オマエのルートで」
悟は副島と友部に座るように促すと益岡に冷たいコーヒーを四本買ってきてくれと頼んだ。友部が引きつった笑みを浮かべると副島は怯えた視線を悟に向けた。
「さっき倉庫を見たら修理中のコピー機が二台ないんだ。あれって処分したんだっけ?」
「・・・・・・」
「倉庫の管理は副島にまかせていたよな」
「・・・・・・はい」
「おい、いいかげん白状しろよ。二人でつるんで新品ってだまして中古を二台納品したろう?」
黙ったままの二人に苛立ち、悟は今日暮内社長から電話があって修理を頼まれたことを細かく説明した。
「残念だったなあ、よく見て部品を交換しなかったんだろう? ローラーが寿命だった。それと俺達じゃよくわからんよなあ、レンズの故障はさ」
「すいません・・・・・・」
副島はそういうと机に額をこすりつけるようにして頭を下げた。友部は口をへの字に曲げて黙っている。
「友部さんが修理して磨けば新品のかわらない。これを売れば直接売り上げがウチの社に入るって」
「おまえだって乗ったじゃねえか」
「友部さんが絶対にバレないっていうし、マージンがデカイんだっていうし」
はん。友部はそうハナで副島をあしらうと、ギロリと悟を睨みつけてきた。
「いいか、鳥越主任さんよ。俺達はな、キタネエ手使ってでも売り上げを出さねえといけねんだよ。しかも会社に貢献出来る売り上げをよ。聖人君子で世の中渡っていけねえんだよ」
「別に中古を売っちゃいけないって言ってやしないんだぜ、友部さん。ただあんたは新品を買った客に中古をつかましたんだよ、新品と言ってね。そりゃキタネエ手でもなんでもねえよ、ただの詐欺じゃねえか」
悟は冷静にそう答えた。こいつとうとう尻尾だしやがった。開き直りやがって。戻ってきた益岡はその雰囲気を察して何も言わずにコーヒーを置いて立ち去ろうとした。悟はそれを呼び止め、益岡も座るように促した。
「益岡、おまえもそういうことしたか?」
「いえ、僕はまだ売ってはいなんで」
「どう思う? 正しいと思うか? 副島と友部のやりかたを」
「よくないと思います・・・・・・」
けっ、バカバカしい。お遊戯じゃねんだよ、仕事は。友部がそういうが早いか悟の拳が友部の頬骨に飛んだ。鈍い音がし、ごりごりとしたいやな感触が悟の腕から脳に駆け抜けた。ぎゃあっと叫ぶと友部は椅子から転げ、もんどりうった。咄嗟に益岡が悟を押さえる。叫び声を聞きつけて加藤と吉原が入ってきた。
「おい、何やってンだ!」
「ふざけたことぬかしやがって。てめえは今ここでぶっ殺してやるよ!」
悟の中の憎悪は一気に噴出し、喉がはちきれるほどの怒声をあげた。紫色に変色してしまった頬を押さえ、友部は立ち上がると、悟に負けないくらいの大声を出した。
「正義面しやがって何子供みてえなこと言ってんだよ。売れてなんぼなんだよ、仕事は!」
悟につかみかかろうとする友部を副島が必死に抑え、やめてくれと泣き叫ぶように言った。そしてすいませんでした僕が悪いんです、すいませんでしたと何度も叫んだが、最後は泣いたままでまともに声にならなかった。吉原はつかみかかろうとする悟をはがいじめにし、隣の部屋へ引きずるようにして連れて行った。
激昂した感情が治まってくると、悟はぐったりとし、体中の力が抜けていくようなな疲労感に襲われた。そして何もかもが馬鹿らしく思え、吉原の問いかけに何も答えず、ただだらしなく笑みを浮かべるだけであった。
どいつもこいつも信用できやしねえ。
たどりついた結末にそう悟は吐き捨て、吉原にもう会社は辞める、暮内のところともう一件に納品したコピー機を新品に取り替えてくれたらもう文句はない。今月の給料はいらない。友部の治療費にでもあててくれと言って立ち上がった。
「おい、鳥越、本当にいいのか?」
「いいも何も、それで十分じゃないですか。仕事は好きだけど、詐欺してまで成功したいとは思いませんよ」
そして悟はそのまま会社を辞めてしまったのだった。
残ったものは倦怠感と不信感だけであった。仕事も、友人にも、恋人にも何も求められなくなった。こうなった原因はすべて自分の甘えなのかもしれない。友部のいう意味も強く拒否できるわけではない。辞めることで、あきらめることで、恨むことで自分は楽になりたいのかもしれない。他人からみれば大した問題でもないだろうし、少し意志の強い人間からみればみっともなくて愚劣な行為をしていると糾弾されるであろう。ほんの一跨ぎの川のようなものではないか。渡ってしまえばそうたいした大きさの川ではないというであろう。それでも自分には深く、広い大河のような溝なのだ。惰性という寝床は暖かく、そして陳腐な言い訳は心地よい眠りをもたらす枕なのだ。
つづく
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