一五〇センチの地下 第八回 浅井 清孝
けたたましい目覚ましの音が頭に響き渡ると、悟はのそのそと起き上がる。目覚ましを止めるとベッドの上に胡坐をかき、枕元に置いているセヴンスターに火をつける。
わかっているくせに時計を見る。六時五分すぎ。大きく欠伸をすると半分も吸わないうちに煙草を消す。そして顔を洗い、歯を磨き、整髪料で髪を整える。
「行ってきます」
朝食もとらず、スーツにすばやく着替えると悟は出掛ける。職場のある、横浜のオフィス街へ。
一年間。悟はそんな朝を過ごしていた。学生やアルバイトにイヤミっぽくいわれる疲れた、しがないサラリーマンだった。
横浜の大豊OAというOA機器の販売、修理の代理店のサービスマン。毎日朝早くから夜遅くまで外回りをし、コピー機やファックス、輪転機などの修理をしていた。毎朝八時前に会社に行き、その日に回るルート表を作り、必要な機材、納品する品物を倉庫から出し、営業車につめこみ、他の営業マンたちや社長が来る前に出発をした。
バブル経済のころ売るだけ売ったことが今ではアダとなり、修理する件数が一日に二十件や三十件では利かないほどになっていた。販売範囲も広く、神奈川県全体と東京都にもおよんでいた。サービスマンは悟を含めて三人しかおらず、一人の負担も相当なものであった。特に悟の担当範囲は地理的にも大きく、神奈川の座間、大和、相模原、横浜の南部で一日に五十件もの依頼が殺到した。悟は朝早く、夜遅くまでかけて一日に二十件の修理をこなしていたが件数は一向に減らなかった。それでも会社は売るだけに重点を置き、修理はそれほど売り上げにならないためにおざなりにされていたから、怒鳴られるのも無理もなかった。
「すいませーん大豊OAでーす」
行くたび、相手からはすぐに怒鳴られる。いつまで待たせるんだ。売るだけ売っておきやがって。昨日来るはずだったんじゃねえのか。OA機器の販売代理といってもそれほど大きな会社ではないから相手は町工場や小さな運送会社、不動産関係が多い。そのため怒鳴られるときは会社中に響くほどで、それだけで引いてしまうこともある。それでも悟は笑顔を見せ、頭を下げてただすいませんでした。と謝るだけ。そしてせっつかれ、小言をいわれながも修理をするのだ。そのうちに相手もまあアンタは修理の人だからそういってもわかんねえよな、などと言い、茶を出してくれたりする。悟は手際よく修理をし、故障の原因や修理の内容を説明する。専門的な言葉も出てくるため、相手はよくわからずに頷き、トナーやグリスで汚れた手を洗っていけと言い、お茶を出してくれたりした。修理をする人間だか機械は絶対に売らない。もし売ることをしたらなんのためのサービスマンなのだと言われかねない。ただよほど疲れた機械で、修理しても埒が上がらない場合は説明して新しい機械を薦める。
怒鳴られ、愛想笑いを浮かべ、謝りたくもないことに謝る、典型的なサラリーマン。それを別に恥ずかしいとも思わなかったし、いやな仕事だとも思わなかった。ただ黙々と仕事をこなすだけが悟に充実感を与えていた。それは久美子がいたからという事だけではない、ある意味使命感のようなものに駆られていたのかもしれない。
所詮人生は結果が全てだ。だらしなく時間を過ごし、そこそこの努力しかしなければそれだけの結果しかない。出来るのにやらない人生はまっぴらごめんだ。失敗であろうがなんであろうがやったぶんの結果に満足したい。
「どうせやるなら一番になりたい」
悟は常々そう思っていた。どんなささいなことであろうと、全力を尽くしたかったし、男である以上、一番になりたいと思っていた。この仕事についた時もずさんな経営状態で、収拾のつかない依頼をすべてやりとげようと心に誓ったのだ。
「あーもう辞めてぇー」
夜の十一時過ぎに会社に戻るたびに他のサービスマンはそうつぶやいて書類を投げ出す。そして今日はこんな現場があったとか、こんな怒鳴られ方をされたと報告しあった。悟は煙草をくわえながらそれらの愚痴を聞き、相槌をうった。そう言い合うことで三人は体にはりついた疲労感を癒し、今に見てやがれという思いを抱いていた。それぞれ立場や年齢、仕事に対する思いや価値観は違っても、そんな現状を三人乗り切って会社にハナをあかしてやるのだという思いがあった。そして十二時少し前に会社を出、飲む時間もないまま家に帰っていくのが日常だった。
三ヶ月経っても事態は好転しなかった。毎日それだけ働いても依頼は途絶えず、仕事は増えるばかりだった。次第に悟の顔にも焦燥感が見え始め、苛立ちが先行するようになってきた。再三部長にもう一人ほしいと催促をしたが受け入れられず、三人だけでの切り盛りは苦しかった。修理だけならなんとかいけそうでも、営業がとりつけた契約の機械の納品も重なり、食事をする時間も、休日も返上した。
その甲斐もあってか半年目にしてようやく好転した。修理依頼も少なくなり、一日にこなす仕事の量も減ってきた。悟を中心として三人で毎日打ち合わせをし、最短ルートを練り上げたり、時間が比較的空いたのであれば他の担当地域に応援に行くという体制を整えたりした。また難しく、時間のかかる修理はメーカーのサービスマンを無理矢理派遣もさせて時間を稼いだのだ。その手腕と仕事ぶりは社長の目につくことになり、サービス部の三人はにわかに注目されはじめた。顧客も次第に顔なじみになり、怒鳴ることも少なくなり、多少の簡単なメンテナンスをこなして負担を軽くしてくれるようにもなっていった。そして機械が修理不能に近い状態になると、
「じゃあ鳥越君に免じて新しいのにしようか」と言って新規契約を指名してくれるようにまでなった。そんな事が相次いで、営業部よりもサービス部の売り上げが伸び、とりわけ悟の成績は社内トップになった。
「ざまあみやがれ」
悟は胸のうちでつぶやいた。一つ一つ惜しまずに努力し、三人で協力しあってだした結果だ。誰にも文句をいわさねえさ。汚ねえ手を使ってでも売るだと。笑わせるな。そんなことしても俺達に勝てやしねえさ。
悟たちはそう思い、確実に自分たちが成し遂げた成果に満足した。しかしそこで満足しないでいよう、これからが本番だ。と夜帰ってくると三人だけで誓いあった。
「こういうことを思いついたんだけどさ」
同期入社のサービスマンである副島がその日の打ち合わせを終わらせ、三人で食事をしていた時に切り出してきた。
会社にある顧客リストを広げ、副島は二日ほど前からつぶさに顧客リストの整理を初め、そのときにあることに気がついたと説明した。修理をすることに追われていたが、よくリストを見ると顧客で保守メンテナンス契約を更新していないところが多く存在している。二年以上前になるともう他の会社に取られている可能性が大きいが、一年以内であればそれほど逃がしていないはずだ。それを中心に一日三件程度、修理の場所から近いところを回って保守メンテナンス契約の更新をすすめてみてはどうだろうか。
副島はもう一つのピックアップをしたリストを出し、悟たちに見せた。そこには実に多くの、百件を越す顧客があった。一件につき四万円の契約料で三ヶ月の契約。全て取れればコピー機三台分以上の売り上げになる。これを使って営業部は売り込みをするが、それほど成果はない。おいそれと壊れてもいない機械を新しくするほどの余裕はない。しかし保守点検であればそれほど難しいことではないはずだ。副島はそう言うと早速明日からこれを使ってみないかと提案をした。悟も、もう一人のサービスマン、益岡も乗り気になり、その場で明日のルートに載せることにした。
案の定、契約を更新していない顧客は多く、まだ使用しているところは多かった。悟たちはそこに行き、機械の調子を聞き出し、保守契約の更新を薦めた。切り出した直後は四万円という値段に渋ったが、契約をすれば修理はすべて無料になることを説明し、契約をとりつけた。その夜、三人が打ち合わせをすると回った場所全てで契約が取れ、十二万の売り上げが取れた。そして悟たちはそれを軌道に乗せるべく、本格的にそのリストを導入することにしたのである。
一週間経った時、悟は社長に呼ばれ、今後営業に回らないかと説得を受けた。新規契約も保守契約もとれ、売り上げが上がった。それも悟が中心に動いているからだと女子社員に聞いた。その手腕を営業で使ってみないか。社長はそう説明し、給料も上乗せをすると条件を出した。しかし、悟はサービスの人手が足りなくなるとまた前の状況になり、苦しくなってしまうのでそれは出来ないと丁重に断った。社長はしばらく思案をしたが、それもそうだと頷き、悟をサービス部主任という役を与えた。名ばかりの役ではあるが、悟はそれでも満足であった。三人で築いた今の状況をこわしたくなかったし、何より営業とはウマが合いそうになかったというのが最大の理由であった。仕事が軌道に乗り、心の余裕も出てきた悟は、体中に力が漲るのを感じていた。小さな勝負に勝っただけかもしれないが、それでもいいではないか。まずは一つ、勝つことが出来たのだ。これからもっと仕事に頑張ろう。そう思い、悟は仕事の面白味を感じるようになり、熱中するようになった。
それから三日後、悟は久美子と別れることになったのだ。
つづく
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