一五〇センチの地下 第七回 浅井 清孝
辺りは暗くなり、無気質に明るい街灯が灯り、行き交う車のヘッドライトに時折目を細めながら、悟はシートに体を預けていた。瀬野は車に乗ってから矢継ぎ早に質問を浴びせていたが、質問することがなくなるとステレオのスイッチを入れて聞いていた。
「ねえ、どこかでお茶でも飲もうか?」
せっかく付き合って貰ったから。瀬野はそう言うと一人で頷き、目の前にあるファミリーレストランに車の鼻先を突っ込んだ。悟は断る術をなくし、曖昧に笑った。
「鳥越君は地元なの?」
愛想のない、引きつった笑みを浮かべたウェイトレスに案内され、テーブルにつくと瀬野はメニューを見ながらそう切り出した。悟はぼんやりとメニューをみつめながら首を横に振った。
「生まれは違うんスよ」
「え、どこ?」
東京の蒲田で生まれ、一才に満たないくらいに横浜に越してきたのだと説明をすると、悟は煙草をくわえ、火をつけた。
「私は生まれも育ちも横浜なんだ」
「じゃあ浜ッ子っていうやつですか?」
「親は秋田なの」
だから浜ッ子とはいえないのだと笑い、ウェイトレスを呼んだ。悟はコーヒーだけ注文し、窓の外に目を向けた。
疲れた表情のサラリーマンが店前を歩いていて、その横をすり抜けるように塾へ向かうであろう小学生たちが走っていく。それを苦々しくみつめる買い物帰りの主婦たち。悟はそんな人たちを見つめながら、ふいに自分はなんと中途半端な人間なのだろうと思った。疲れるわけでもなく、かといって元気もなく、危なっかしい子供に舌打ちをするわけでもない。そういう活力もあるくせに自分はそれを使おうとしていない。それは誰よりも気楽で、のんびりとしているのかもしれない。けれどそこに安定や充実はない。
ああ、つまらん男になったな。
悟はそう思いつつ、数ヶ月前の自分のあの充実し、心地よい疲労感のあった生活を振り返った。
「瀬野さんは就職しないんスか?」
出されたコーヒーにミルクをほんの少したらすと悟は瀬野に切り出した。パンフレットを眺めていた瀬野は一瞬きょとんとした表情を見せ、小さく手を振った。
「今探してはいるのよ」
いつまでもあそこでアルバイトをしているわけにはいかない。本当は友人と小さいけれど会社を設立したいのだ、瀬野は早口でそう答えるとちらっと悟の表情を窺った。
「どんな会社っスか?」
「うん、車検の代行の会社をね」
「友人って、本当はカレシじゃないっスか?」
ひやかし半分で悟が聞くと、瀬野は少し困った表情を見せながら、小さく頷いた。
別段照れることもないだろうに。悟はそう思いながら、煙草を消した。
「車が欲しいっていうのもそのカレシ?」
「うん、まあ、そう・・・・・・」
急に歯切れが悪くなり、瀬野はうつむき加減に頷いた。ま、こんなものか。甘い期待を少しは感じていたが、そううまく行くわけないな。悟はその思い、そしてあのディーラーでだぶらせた久美子のことを思い返した。
あの青い車を買おう。
悟はコーヒーのおかわりを持ってきたウェイトレスを見た時、そう決めた。もうあのパンダを手放し、新しい就職口を見つけて車を買い替えよう。注ぎ足された生ぬるいコーヒーを一口すすると、その決意が冷めないうちに何か行動をおこしておかないといけないと思い、この場でのんびりコーヒーを飲んでいるのが勿体なくなってきた。別に瀬野とこれ以上話をしていても無駄だし、なにもありはしないのだ。だったらディーラーに電話をして明日車を見に行こう。そして程度が良ければ契約をしてしまおう。
悟の中で膨らんできた思いは一気に加速をしはじめ、いますぐに行動しなくてはあの車が売れてしまうのではないかという衝動になってきた。ゆっくりとコーヒーを飲み、パンフレットを眺めながら質問をしてくる瀬野に苛立ちを覚え、悟は質問を遮った。
「すいません、ちょっとデンワ、してきます」
そう言うと同時に席を立ち、公衆電話に向かった。テレフォンカードを入れてダイアルしようとした時にその指が止まった。
「いけね、電話番号知らねえや」
軽く舌打ちをして受話器を置くと、瀬野の持っているパンフレットを思い出した。あのパンフレットを入れた袋に書いてあるはずだ。悟は席に戻って瀬野の持っている袋を見せて貰った。
「お店に何か忘れ物?」
怪訝そうに悟を見やると、瀬野はコーヒーを飲んだ。袋の中に名刺があり、それを借りると悟はまた公衆電話に戻った。
「あれっ、鳥越じゃないか?」
受話器を取った時、トイレから出てきたサラリーマンに声をかけられた。振り返ると、そこには紺色のスーツを着た、がっしりとした体格の男が立っていた。
「ああ、吉原さん、ご無沙汰してます」
会いたくない奴に会ってしまったな。悟は胸の中で舌打ちをした。愛想笑いを浮かべ、スーツの男、吉原に挨拶をすると、どうしたんですこんなところでと聞いた。現場回りの途中で休憩をしているのだと説明し、おまえこそどうしたのだと聞いてきた。悟はまあ、ちょっとと言葉を濁した。
「仕事、どうしてるんだ? どこか就職したのか?」
「ええ、まあ」
「社員か?」
「いや、いまはアルバイトです」
なんだ、どうしちまったんだ? 吉原は苦い表情をして悟の肩を叩いた。
「なあ、戻って来いよ。課長も寂しがってるんだ。オマエさえよけりゃ、戻ってきてほしいってぼやいてたぞ」
「いえ、それは出来ないですよ」
悟は受話器を置き、ちらりと瀬野の席を窺いながら答えた。
「あの件なら気にするなよ。課長だって怒っちゃいないんだ。友部だって反省してるし」
友部という名前が出ると、悟は一瞬表情を曇らせた。それを察してか、吉原はここじゃなんだ、オレの座っている席に来いよと誘ってきた。悟はいえ、連れがいるんでと断り、話を切り上げた。吉原は残念そうに返事をすると、ぽんと悟の肩を叩いた。
「なあ、いつでも戻って来いよ。オマエがいなくなってから業績があんまり伸びてないんだ。オマエならアルバイトより給料いいんだからよ」
曖昧な笑みを浮かべ、考えておきますと返事をすると吉原はにっこりと笑い、元気そうで良かったよと言って席に戻っていった。それを見やったあと、悟はまた電話に向き直ったが、決心が急速に萎えてしまい、受話器もとらずにそのまま席に戻ってしまった。
「さっき話していた人、知り合いなの?」
席に戻ってすぐに瀬野を促して店を出ると、瀬野はそう聞いてきた。悟は前に勤めていた会社の先輩ですと答えた。
「鳥越君って前はどんな仕事してたの?」
クルマに乗り込んでエンジンをかけると瀬野はそう聞いてきた。悟はそれに答えずに黙っていると余計なことを聞いちゃったね、と謝り、クルマを出した。
相変わらず道路は渋滞しており、赤い光が列をなしていた。それをみやりながら悟はぼそっとつぶやいた。
「スーツ着て、しがないサラリーマンっていうやつでしたよ」
ふうん。瀬野は前方を見たまま頷くと、営業? と聞いてきた。まあ、そんなもんですかねと悟は言って、小さく笑った。
「どうして、辞めたの?」
「なんとなく、ってやつですよ」
「なんとなく?」
「あるじゃないですか、そういうの。ある日急に馬鹿らしくなったり、やる気が失せて、辞めちまおうかなあ、なんて時」
「ああ、それわかる」
「それでそのまま辞めちゃったんですよ」
悟は煙草をくわえ、火をつけるとそこの細道を左折しましょうと告げた。
「それで?」
左折し、悟の指示通りに走らせ、渋滞を避けると、瀬野はそう言った。その言葉の意味がわからず、もう一度聞き返した。
「そういう理由でやめちゃって、さっきの人になんか言われたの?」
「いや、別に。ただ戻って来いよって」
「戻る気はあるの?」
それはないですね。悟はすぐに否定し、窓を開けた。冷たい空気がすっ、と悟の頬をかすめる。空は蒼黒い闇へと変わり、頬をかすめていく風も幾分冷たさと水分を増している。悟は煙草をふかしながらまた振り出しに戻ってしまった自分に舌打ちし、明るすぎる街灯に目を細めた。
つづく
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