一五〇センチの地下 第十回   浅井 清孝

 薄曇りの中、送迎バスを待っていると赤澤の姿が目に映った。向こうも悟に気がつき、にっこりと笑って小走りに悟に近づいてきた。ペコリと頭を下げると、赤澤は鼻をすすって寒いねえと言った。
「なんだか、今日はバス遅れてるみたいっスよ」
 煙草をくわえると悟はそう言った。いつもなら来てもいい時刻なのに、バスはいつまでたっても来ない。待ちくたびれた社員は溜息や舌打ちをして駅に向かっている。それを見やりながら赤澤はくしゃみをした。
「湯冷めしちゃったかなあ。昨日の夜からヘンなんだよね」
 鞄からマスクを出すとそれを口にあて、赤澤は幾分充血した目で笑った。いい加減待っても来そうにないバスに見切りをつけようと、悟は煙草に火をつけて、駅に向かおうとした。すると赤澤はあとちょっとでバスは来るはずだよと悟を呼び止めた。ここに来る途中で送迎バスが通りすぎるのを見た。もう少しでUターンしてくると説明をした。
「あれから、オーディオどうですか?」
 赤澤の話からほどなくして送迎バスが来て、二人をのせるとバスは慌てて走り出すように動き始めた。席につくと悟は沈黙に耐えられずに赤澤に声をかけた。マスクをはずし、くしゃみをひとつすると赤澤は実はもう一件の店にあの翌日に見に行ったのだと説明した。
「そしたらおんなじやつ、少し安かったんだよね。鳥越君の言うとおりあんなヤツから買うんじゃなかったなあ」
 笑いながらそういうと、赤澤はでもあのデッキには満足しているよと答えた。小さく笑みを浮かべると、悟は窓へ目を向けた。冬の乾いた風景がするすると流れ、道行く会社員たちの表情も心なしかくすんで見える。一体どれほどの人間が気丈に生きているのだろうか。どれほどの人が自分の信じた道を邁進しているのだろうか。窓の外に見える人たちにはそれほどの信念や、気丈さ、心強さは微塵も感じられない。生きることに必死で、食べることに一生懸命で、へとへとに疲れた心を癒すヒマもない。哲学や思想、宗教や文学、観念はこの人たちを充実させ、気力を溢れさせ、人生を生き抜く力を、現実を生き抜く力を与えてくれるのだろうか。そして人を思いやる優しさを持たせてくれるのだろうか。
 それはないだろうな。
 悟は久美子や友部、吉原を思い返しながらそう小さくつぶやいた。思ったり、考えたり、読んだりするだけでそんな力を与えちゃくれない。頭がないといえばそれだけかもしれない。しかし、そんな高尚なものじゃなければ、そしてそれを理解するだけの頭がなければ意味がないというものなんて、いかほどの価値があるのだろうか。おれに川を跨ぐ勇気をくれ、人を信頼し、優しくなれる心をもたせてくれるものはなかった。
「今日は二分ペースでーす」
 始業ベルがけたたましく鳴り響き、また仕事が始まる。帽子を目深にかぶり、一人きりの地下室に潜り、せわしなく動き回る人たちを眺める。体を動かし始めると悟は思考を止める。オレは歯車なのだ。欠けちまった歯をボンドではりつけ、だましだまし使っている歯車だ。ただ回るのみでいいのだ。誰も信用せず、頼らず、キタナイもキレイもない。それが今は心地よいのだ。説教はやめてくれ。慣れ親しむのもやめてくれ。しばらくは放っておいてくれ。
「今日も台数少ないみたいだよ」
 呪文のような心のつぶやきを乱すように赤澤が話しかけてくる。悟は苦笑し、曖昧な返事をする。今日は掃除かそれとも講習ですかねと言い、薄く笑い返した。瀬野が覗きこみながら、昼過ぎには終わり、講習や掃除はないみたいよと教えてくれた。
「今日はクルマを持っていこうかな」
 リフトを降ろすと悟はそうつぶやいた。そしてあの青い、ハッチバックのクルマを見せてもらおうかと考えた。パンダを下取りにして、見積もりをキチンと出してもらおう。そしてなんとか折り合いがつきそうなら買い替えてしまおう。そうだ、オレは区切りをつけたいんじゃなかったのか?
 昨日コーヒーを飲んでいた時にそう思ったんじゃないか。昔なんてどうでもいい。仕事も友人も、恋人もどうでもいい。あの青いクルマから一つはじめればいい。悟はそう思い、クルマの底部を仰ぎ、行こうとつぶやいてみせた。
 パァン。
 クラクションが鳴り、工場の塗炭が見えた。

 食事を終え、会議室に入ると赤澤がにこにことして悟に火を借りにきた。火をつけると旨そうに吸い、悟の横に座りマンガを読み始める。その姿を見やりながら、ふいに疑問に思っていたことを口に出した。
「前も聞いたと思うンすけど、赤澤さん、どうしてジッポのオイルいれないんスか?」
 雑誌から顔を上げ、赤澤はニコッと笑うとお金ないんだよねえと答えた。
「百円ライターあげましょうか?」
 一瞬見せた寂しげな表情を見ると悟は何故か答えを聞きたくなってしょうがなくなっていった。別にそんなことどうでもいいことだと入りたての頃に思い、それ以来聞いていなかったその解答を、聞き出そうと躍起になった。それは区切りをつけるという行為がもたらした余韻なのかもしれないな。そう悟は頭の隅で冷静に考えながらも、赤澤の答えを待った。
「また今度話してあげるよ」
 赤澤はそう答え、またマンガに目を落とした。それでしつこく聞くわけにはいかず、自分も仕方なしに雑誌を開いた。
 仕事が終わると講習も掃除もなく、そのまま解散となった。いつものとおり食堂に寄り、煙草をふかし、下川たちのしゃべりを聞いてると赤澤がひょっこりと顔を出した。普段は風呂に入ったら顔を出さずに帰るのに、その日に限って顔を出してきた。そして悟をみつけると横に座った。
「どうしたんだよ、珍しいじゃない」
 下川の問いにまあ、たまにはと答え、パックの牛乳を買った。
「悟君は今日用事ある?」
 ストローをさしながら赤澤は小声で聞いてきた。悟は別段用事もないのだが、ちょっと寄りたいとこがあると答えた。
 ふうん。そう返事をすると赤澤は天井を仰ぎ、牛乳を飲んだ。そんな態度が気になり、何かあるのかと聞いてみたが、いや別に、と生返事しか返ってこなかった。取り立てて用事もないのかと見切りをつけ、席を立った。下川と佐野はまだゆっくりしていくと答えると、赤澤はじゃあ僕も一足先にと言って立ち上がった。
「鳥越君の寄りたいところって何処なんだい?」
 食堂を出て、正門に向かう途中、後から来た赤澤が声をかけてくる。悟はちょっとクルマを見に行きたいんです、と答えた。するとどこの車屋なのかと興味を示し、もしよければ一緒に連れていってくれないかと聞いてきた。
 赤澤はそれほど車に興味のある人間ではなかった。ただ免許を持ち、金額のいいバイトだからここに来たのだと最初の頃聞かされていたからだ。車に興味がないのに、どうして一緒に行きたがるのだろう。そう思いながらも、脳裏にはある種の勘が働いていた。そして悟は一度自宅に戻り、クルマで行くことを告げた。
 送迎バスがない為、二人はローカルバスの停留所まで行き、煙草をくわえた。
「あ、もう来ちゃったよ」
 火を点けた時、交差点からバスが見え、悟と赤澤は舌打ちをして、お互いを見合った。
「ついてないよなあ、もう少し早く来ればいいのにさ」
 赤澤はそう言って煙草を二口吸うと、備えつけのゴミ入れの縁で丁寧にこすり、火を消して煙草を戻した。
「クルマはそれほど興味ないんだけどさ、クルマ屋さんに行くのは好きなんだよね」
 空いてるバスに乗り込み、一番後ろの座席に腰を下ろすと赤澤はそう切り出した。悟はそういう気持ちわかりますよと答え、自分も楽器なんてからきしのクセに楽器を眺めるのは好きなのだと話した。
「男はモノに弱いのかもね」
 赤澤は一瞬自分のジャンパーのポケットに目を走らせ、そう言うと小さく笑った。その一瞬の目の動きを見て、ジッポー、好きなんですか? と聞いてみた。
「あんまりこだわらないのよ。火をつけるなんざ、どんなライターでもね」
 ジャンパーのポケットに突っ込んでいた、銀の鈍い光を放つジッポーを取り出した。なんのデザインも入っていないそれは小さく、細かい傷や、へこみが見えた。悟はそれを見ながらどうしてそのライターを大事そうに持っているのかを尋ねた。赤澤はしばらくジッポーを手で弄び、黙っていたが、プレゼントなんだよねと一言つぶやいた。
「大事な人から貰ったのよ」
「カノジョですか?」
 いささか不躾で、無遠慮な質問だったかなと思いつつも、悟はあえて口にした。赤澤は小さく何度も頷き、でももう別れちゃったんだよと答えた。
「すごい好きだったんだよね、カノジョの事。ギターしか能がないようなオレと生活しててもさ、カノジョ一生懸命励ましてくれたんだよね。貧乏で、飯も満足に食えないオレにさ、飯何度もごちそうしてくれてね。優しい子」
 小さく、そして寂しげな笑みを口元に浮かべ、それきり黙ってしまった。そしてしきりにジッポーの表面を指でこすっていた。その姿を見ながら悟もまた何も言わず、駅につくまでジッポーを眺め、赤澤に自分を重ね合わせた。
 駐車場に着くと悟はバッテリーが弱く、エンジンのかかりが悪いのだと赤澤に説明した。もしかしたらエンジンがかからないかもしれないと言いながらキイを差し込み、回した。エンジンは弱く、小さい音を立てたが火は入らず、かからなかった。赤澤はボンネットを開けてごらんよと催促し、開けたボンネットに頭を突っ込んだ。
「もう一度かけてみて」
 合図に合わせ、キイをひねる。弱々しい音だけが響く。赤澤はもう一度と合図を送ってきた。今度はかろうじてエンジンが回った。
「アクセル少し踏んでおいたほうがいいよ」
 ボンネットを閉め、助手席に座ると赤澤は笑顔を見せた。悟はそのまま、しばらくの間アクセルを踏んだままにした。
「多分どこかの配線がはずれかかってるんじゃないかなあ。もしくは放電しちゃうのが早いのかもしんないね」
 鞄からタオルを取り出し、手と顔を拭きながら赤澤は言った。悟も相槌を打ち、それを見てもらうと思ってるのだと説明した。
 走り始めると赤澤はにこにこと笑いはじめ、このクルマはいいねえと何度も言った。
「そんなに気に入ったスか?」
「うん、気に入ったなあ。まずシンプルなのがいいでしょ。だけど内装は明るくてアッケラカンとしてる。街中で乗るには充分な大きさだし。これ気に入ったよ」
 その横顔を見ながら、悟は喉元まで出かかった言葉を飲みこんだ。
 なんなら、譲りましょうか?
 しかし、その言葉が出せなかった。
「かなり愛着を持ってるんじゃないの?」
 途中自販機でジュースを買うと、赤澤はホットコーヒーを両手で抱えこむようにして飲むとそう言った。悟は曖昧な笑みを浮かべ、どうっスかね、とだけ答えた。赤澤はそれでもうんうんと頷き、これは愛着湧いちゃうんだろうなあと呟いてみせた。
「オレのあのライターもね、愛着湧いちゃってるのよね。だからなんだか捨てるに捨てれないっていうのもあるのよ」
 流れる風景を見つめながら、口元に笑みを浮かべて赤澤は喋り始めた。
「すんげえ、好きなんだけどさ、あるときふいに嫌になっちゃう時ってあるんだよね。ありがたいんだけど、それに反応しきれない自分。だからつい冷たくしちゃう時があるんだよね」
 悟は空いている道路で、少しスピードを緩めた。
「芯から疲れてた。そんな時だったのよ。つい出した言葉にカノジョ、泣いてね。それきりだったな。オレも追いかける余裕なかったし、心のどこか片隅ですごい申し訳ないっていう気持ちや後悔があるんだけど、動かないのよ、カラダがさ。追いかけない自分に酔っている所もあったんだろうな」
 窓を開け、その隙間から流れ込んでくる冷たい空気に目を細め、赤澤は煙草をくわえた。悟は胸ポケットからライターを取り出し、渡した。
「追いかけちゃいけないっていう考え、今でもあってね。諦めようと思ってるんだ。でもね、いつか戻ってくるんじゃないかっていう下らない妄想もあるんだよ」
 煙草に火をつけると、赤澤はポケットからジッポーを取り出して、蓋を開けた。鈍い音が雑音の中で一際、響く。
「別れてからオイル、入れてないんだ。だからもう点かないのわかってる。けど、これでもし火がついたら、カノジョが戻ってくるような気がするんだよね」
 赤澤はそう言うとジッポーライターの火打ち石を回す。しかし小さい火花が散るだけで、火は点かない。自嘲気味に笑う横顔に、悟は深い絶望感に包まれた。
「妄想もいいとこ。自分勝手もいいとこ。わかってるんだよ。でもね、追いかけられないのよ」
 悟の中でこれから車屋に行くことが更なる絶望感を招くのではないかという思いが膨らみ始め、信号待ちで煙草をくわえると、小さく溜息をついた。
「赤澤さん、絶対に火はつきませんよ」
 ゆっくりと、言い聞かせるようにつぶやいた。赤澤は小さく、何度も頷き、ジッポーを弄んだ。
 微かな赤味を帯び始めた空を見て、悟は無言で車をUターンさせた。その事に赤澤は何も言わず、もう少しドライブしようかと笑いかけてきた。悟は引きつったような笑みを浮かべ、アクセルを思い切り踏み込んだ。車内は一斉に騒ぎ始めた金属音で一杯になり、意味もなく二人は大声で笑い始めた。

つづく



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