一五〇センチの地下 第五回 浅井 清孝
やっぱり食べ過ぎだ。
休憩時間が終わり、地下のピットに潜り込んで椅子に座ると悟はそうつぶやいた。定食にナポリタンなんてどう考えても食べ過ぎなのだ。普段なら残すのに、瀬野の奢りということもあって悟は残すこともできずに食べてしまった。これだったら赤澤に少しやればよかったのだ。何も一人で食べることはなかった。悟はそうぼやきながら帽子を目深に被った。
始業ベルが鳴ると、赤澤がデッキブラシを二本、水を汲んだバケツを持ってピットに降りてきた。結局午後は講習ではなく、工場内の清掃になった。それぞれの持ち場の掃除を言い渡され、悟は内心ホッとしていた。
講習を聞くよりもカラダを動かしていたほうがまだ気楽だ。それに昼を食べすぎた今は清掃のほうがちょうどいい。
「じゃあ、これデッキブラシ一本とバケツね」
悟に渡すと赤澤はブラシを一本持ってまた上に上がった。渡された使い古され、ケバだったブラシに水をつけると悟は油や垂れたペイントで汚れたコンクリ打ちの床をこすり始めた。頭上では水を撒く音が聞こえ、作業員のはしゃぐ声が響いていた。悟はその喧騒を聞きながら機械のように床をこすった。
どうして福原と久美子はああいうふうになったのだろうか。自分という男がいながら久美子は福原との関係をどうやって深めていったのだろうか。
悟の頭にそう浮かんできた。
ふと手を止めて考える。
自分には何が足りなかったのか。福原にあって自分に足りなかったものは何か。
「だから馬鹿らしいって」
とめどなく流れはじめた思考を悟は強制的に止めた。いつまでたってもまとまりもしない敗者の論理。答えは出ている癖にそのまわりをウロウロするだけ。ウロウロしていれば自分の痛みを忘れ、人生を達観した気になる。けれどそれは解決ではないのだ。傷は残り、人生なんてそんなやさしい方法で達観出来るものじゃないのだ。現実から逃避したいだけの敗者の論理を何度も続け、今ここで汚い床をきれいにしているのだ。答えはもう出ている。
悟はそう言い聞かせ、やけくそ気味にブラシを動かした。こうして思考を止めてカラダを動かす。全身に汗が浮き、筋肉の収縮に神経を研ぎ澄ます。そうすれば何も考えなくていいのだ。それでいいのだ。もう終わったことで気に病むな。さあ、汗よ俺のカラダを濡らせ。神経よ、もっと集中しろ。筋肉よ、もっと軽やかに動け。そして思考よ、止まれ。
「鳥越クン、水取り替えようか?」
床を磨くことに没頭していた悟に頭上から声が降ってきた。悟は手を止めて顔をあげた。そこにはモップを持った瀬野がしゃがんでいた。バケツの水は真っ黒に汚れ、油が浮いていた。悟はブラシを壁に立てかけ、こぼれないようにバケツをそっと持ち上げた。瀬野はバケツを取るとちょっと待っててと言い残し、悟の視界から消えた。
「お待たせ、水。気をつけてね」
しばらくすると瀬野はバケツにきれいな水を汲んできた。悟はバケツを受け取り、きれいな水を床に撒いて汚れを流した。
「すいません、モップあまってないっスか?」
瀬野は自分の持っているモップを悟に渡し、ブラシをひき上げた。
「ねえ、鳥越クン」
モップで床を拭きはじめると瀬野が声をかけて来た。応じると瀬野はしゃがんで声を少し落として話しかけてきた。
「今日は終わったら時間ある?」
「ハぁ、まあ」
「ちょっと付き合ってくれないかなあ」
瀬野の誘いに戸惑い、悟は困った表情を見せた。昨日は赤澤さんで今日は瀬野さんか。どうして一人にしてくれないのかな。悟はそう思い、どう断ろうか考えた。
「何かあるんスか?」
「うん、ちょっと」
瀬野はそう言うと女性独特の媚びるような色を目に瞬間宿した。悟はそれを見てマズイなと感じた。別に瀬野とどうのこうのとなる訳じゃないのだろうが、瀬野の瞳に宿った媚びにある種のメンドウ臭さを覚えた。
「仕事がはけたらカドのコンビニで待ってるから」
悟が口を開こうとした矢先、瀬野はそう言って話を切り上げ、さっさと視界から消えてしまった。悟は舌打ちをしてパイプ椅子を軽く蹴飛ばした。
どいつもこいつもオンナっていうのは勝手なもんだ。
一人ごちると悟はまた掃除を再開した。
掃除が終わるとその日はそのまま終業となった。手洗いをすませ、終業のあいさつが終わり、更衣室に戻るとき、瀬野がそっと悟にささやいた。
「よろしくね」
悟は曖昧に返事をすると下川たちの後を追った。更衣室に入ると悟は気怠い気分になり、着替えたらそのまま帰ってしまおうかと考えた。友人との約束を思い出した。車を工場に持っていかなくてはいけないのを忘れていた。理由なんていうのは幾らでもつけられる。
「そうするかな」
悟はそうつぶやくとさっさと着替えをすませ、汚れた作業着を洗濯箱に放り込み、食堂へ向かった。
「明日も台数少ないよ」
食堂でトランプをしている搬入のバイトが声をかけてきた。悟はしかめっ面をして相槌を打つと自販機で暖かいコーヒーを買った。遅れて下川と佐野もやってきて、搬入のバイトと同じことを話して悟の横に腰を降ろした。
「明日こそ講習かな」
「さあ、どぉっスかね」
佐野はそう答えながらコーラを飲んだ。悟は下川と佐野のよもやま話に耳を傾けながら時計を見やった。あれから十分が過ぎている。別に行かなくていいじゃないかと思っている癖に悟はコンビニで待つ瀬野の事を考えた。一瞬の迷いのあと、悟は席を立った。
「すいません、用事があるんでお先に」
正面ゲートを抜け、守衛に挨拶をしたあと、悟は舌打ちをした。なんだ、結局何かを期待して動いてるじゃないか。そう胸の内で毒づき、しわくちゃになっている煙草をくわえ、火をつけた。もうほのかに赤みを帯びてきた陽光を丸めた背中に受けながら、悟はコンビニに向かった。
「お待たせしました」
コンビニの雑誌売り場で自動車雑誌を読んでいた瀬野にそう声をかけた。濃い茶色のロングコートを羽織り、肩から革製の鞄を下げた瀬野は工場内の瀬野と同一人物とは思えなかった。悟がペコリと頭を下げると瀬野はにこっと笑って雑誌をおいた。
「鳥越君、車じゃないでしょ?」
店を出ると瀬野は向こうに車を止めてあると工場の裏手の方角を指差した。そこは佐野も車を止めている場所で、見られたら困るなと思いながら悟は返事をした。瀬野の歩く速度は早く、悟は後ろをついていくのが精一杯だった。話しかけられてもはあとかまあといった返事しかできなかった。工場の裏手は畑が広がっていて、数台の車がそこかしこに並んで駐車してあった。それは全て工場に働きに来ているアルバイトや社員のものだと瀬野は説明をした。
瀬野の車はメタリックレッドのRVであった。改造をしているのかいつも工場で見るRVより車高が高く見えた。
「ああ、これ少し車高を上げてるの」
悟の問いにそう答えると、小さく笑って運転席に座った。佐野の車は瀬野の前に止まっていた。悟はそれを確認したあと、助手席に乗り込んだ。悟のその姿を見て瀬野はくすくすと笑った。
「だって、別にやましいことじゃないのに、私たちなんでビクビクしてるのかしらね」
悟の問いかけに瀬野はそう言ってエンジンをかけた。エンジンはディーゼルらしく、盛大な爆発音がしたと思うとガランガランとしゃがれた唸り声を上げた。
「実はね、私の友達がイタリア車を欲しがってるの」
車が農道を抜けて大通りに出るとそう口を開いた。鳥越クンがイタリア車に乗ってるって下川さんに聞いたから少し話を聞きたくてと続けた。悟は安堵とも失意ともつかない返事をして多少のことしかわからないがと答えた。
「このへんでイタリア車を扱ってるディーラーって?」
「あるにはあるんですが」
瀬野は灰皿の蓋を明けて悟に煙草を勧めるとどこにあるかと尋ねた。
「ニュータウンを過ぎたほうなんスよ。車で三十分以上かかりますよ」
悟は新しい煙草の封を切りながら答えた。しばらく思案をしている瀬野を横目で見ながら、悟は火をつけ、窓を少しあけた。
「そこに行ってみたいんだけど、いいかしら?」
「ああ、別に、かまわないっスよ」
悟は今日も面倒なことに巻き込まれたかなと思いながらゆっくりと流れるクルマの列を眺めた。
つづく
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