一五〇センチの地下 第四回 浅井 清孝
コウジと別れたあと、悟は商店街をぶらついた。煙草をくわえたまま何をするわけでもなく、ただ雑踏の中を歩いた。何が変わったわけではない。元に戻っただけなのに、悟の中にあった小さな歯車が一つ消えただけなのに全てのギヤがかみ合わない。
小さい歯車。それは一体何なのか。それは久美子であったのか。それとももっと別なものであったのか。あるいはそんな小さい歯車は元々なかったのではないか。悟は雑踏の流れに逆らいながら考えた。
「バカなんだよ、俺は」
オンナに振られたくらいで会社やめちまうんだ。仕事にやりがいがないだとか、人間関係に疲れたなんてたいした理由じゃない。久美子が消えてしまったからだ。常に自分を認めて励ましてくれた唯一無二の存在が消えた。それは悟から気力を奪い、男失格の烙印を押されたようなものであった。
悟は普段は入りもしない、くたびれた喫茶店に入り、濃いだけのコーヒーを眺めながらひたすらに考えた。
福原は誰が見てもいい男の部類だ。優しくて、穏やかで、誠実だった。悟は常々そういう福原には自分は負けるなと思っていた。しかしその反面、その福原の良い面を信用しかねていた。説明するには難しい、肌で感じる印象でしかないのだが悟の中で福原という人物を評価するにその比重は大きかった。ただ、今は福原や久美子の事を考えるべきではないんだろうとも思った。どうやったとしても全てを公平に、そして素直に判断出来ない。福原は悪人で勝者であり、自分は敗者で愚者なのだ。恋愛ごとなのだからそれでもいいのかもしれない。感情的に、そして自分が善人として考えてもいいのかもしれない。
悟は香りもしない、味もない、ただ苦いだけのまずいコーヒーを飲み干すと煙草をくわえた。
「アホらしい」
どうでもいいこっちゃ。福原を妬んだり、久美子を恨んだりしたところで自分が空回りしていることには変わりはないし、どうなるわけでもないのだ。コーヒーを飲んだら急に熱は冷め、悟は煙草に火をつけた。
金を払い、外に出ると空は青黒く闇に染まり、商店街の白々しいネオンが目に沁みた。
「どんなに考えたところで事態が変わるわけじゃないさ」
悟は小さくつぶやくと、空腹を感じはじめた腹をさすり、背を丸めて家路に向かった。
始業ベルが鳴る直前ほど憂鬱な時はない。これから始まる単純作業がたまらなく苦痛に思える。悟はこのベルトコンベアの一部となって働く自分はちっぽけな歯車だと思った。あってもなくてもいいような小さい歯車。そこには思考も夢も、ない。ただ時間通りに作業をこなすだけ。昔読んだ、自動車工場のルポタージュを思い出す。
「絶望か」
悟はけたたましくなるベルを聞きながらそうつぶやいた。
お似合いじゃないか。歯車がかけ、空回りする自分が歯車自身になって働いてる。滑稽じゃないか。悟は毎日そう思い、作業道具を握るのだ。
「今日は最初から二分半ペースね」
瀬野が頭上から声をかけてきた。悟はしかめっ面をして生返事をした。一台目がリフトに乗り、点検をし、リフトを降ろした。その時にチラッと赤澤と目が合った。
「今日、昨日より少ないらしいよ」
赤澤はニッコリと笑った。悟はじゃあ今日は昼には終わりますかねと応じ、愛想笑いを浮かべた。工場の中央にある点検作業をする社員もヒマそうにして話しているのが車と床の隙間から見えた。悟は溜め息をついて椅子に座り、車の底面を眺めた。
いかに高級車であろうと下回りを見るとクルマがどうしてああも高いものなのか馬鹿らしく思える。小さい車になるとその感は一層に強まり、こんなのに百万以上も出すのかとあきれ果ててしまう。ここで働くと車に対する価値観がおかしくなる。悟はタダ同然で手に入れた自分の車を思い出した。
プッとクラクションがなり、頭上の車がすっと動いた。そして次の車がそれを見計らい入ってくる。リフト位置まで来ると悟はリフトを上げ、右と左に切られるフロントタイヤを見て異音がないか聞き、ブレーキホースのオイル漏れをチェックして小さい点検用ハンマーで底を叩いて合図した。
「こんな安い作りの車が百万だとよ」
ふんと鼻で笑い、悟は各部ナットを叩いてチェックした。
今この姿を見たら、さぞかし惨めだろうな。久美子も福原も笑うだろう。スーツを着て、ビジネス街に出勤してして仕事をしていた俺が、不精髭をはやしたままだれにでも出来る歯車を演じてる。悟は暗い気分に浸ると同時に微かな憎しみを覚えた。
「で、オレは誰が憎いんだ?」
リフトを降ろすと椅子に座って独りごちた。福原だろうか。久美子だろうか。情けない自分だろうか。今のこの単調な仕事だろうか。
「少なくともコウジじゃないよな」
呑気な顔でスパゲティをすすっていたコウジの顔を思い浮かべ、悟は呟き、笑った。あれだけ面倒くさがったのに、今じゃまたアイツに会いたいと思ってる自分がいる。あいつのあの呑気な仕草や表情を見ていると憎むことや脱力して生きることを放棄することも馬鹿らしくおもえてくる。悟はそう考えながら作業を進め、リフトを降ろした。
ごん!
椅子に座って下を向いた瞬間、後頭部に勢いよく固いものがぶつかってきた。鈍い音がしたと同時に悟の首は激しく揺れた。
「ごめんなさい! 大丈夫?」
悟が頭を抱えてうずくまっていると上から瀬野の慌てた声が聞こえてきた。激しく痛み、悟は声を出せなかった。一瞬何が起きたのか理解出来なかったが、瀬野はエンジンルームを点検する際に乗る鉄板とピットの隙間に足を落としてしまい、悟の頭を蹴ってしまったと申し訳なさそうに説明した。
「大丈夫かい?」
赤澤が心配して顔を覗かせてきた。悟は手を上げて、平気ですとようやく答えて立ち上がった。頭上の車が移動し、次の車をリフトアップすると赤澤は顔を覗かせ、これがラストねと言った。
「ラストってもう車ないんですか?」
下回りのピットに降りてきて、後ろ側の点検を手伝いながら赤澤は本当に今日はもう車がないのだと答えた。
「それより頭大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「ほんと、ごめんね」
ピットに車を置いて戻って来た瀬野は顔を覗かせた。
「それより、瀬野さん、足大丈夫ですか?」
赤澤はリアサスペンションのナットを増締めしながら聞いた。瀬野はちょっと捻ったけど大丈夫と答えた。悟は僕は大丈夫ですよと言って、チェックのペイントを塗った。
最後のクルマが出ると悟と赤澤はピットから顔を出し、地上を見た。作業ピットの社員たちは談笑したり、ゴルフの素振りをしたりと暇そうにしていた。悟は欠伸をすると帽子を脱ぎ、ヒーターのスイッチを切った。赤澤も帽子を脱ぎ、悟の後を追うように地上に上がった。
「このまま帰してくれればいいのにね」
瀬野はそう言って悟に笑いかけた。悟はそうですねと答え、大きく伸びをした。車を搬入してくるアルバイトと話をしていた赤澤は、悟を手招きした。
「今日、本当にクルマないんだって」
「じゃあ、今日帰れるんですかね?」
搬入のアルバイトがそれはないんじゃないかなと言った。彼の話によるとつい先日発表された新車の点検講習をするらしいという事であった。多分今日は午後からその講習なのだろうという赤澤の言葉に悟は辟易した。基本的にラインでの点検はどのクルマであれ点検項目は変わらない。多少違っていたところで講習を受けるほどではないのだ。その新車はもう三日も前から流れていて、二〇台は確実に点検してしまった。それでも特に問題は出ていない。社員は受けるべきなのだろうがアルバイトには意味のないものであった。
「無駄づかいもいいところだ」
悟はそうつぶやいた。バブルもはじけ、新車の販売も落ち込んでいるこのご時世に、午前中で終わるのは体裁が悪いからといって余計な光熱費を使ってまですることでもないのだ。不況で経費削減を唱えているくせにこんな馬鹿げたことで経費を使う神経が理解できない。
「日給半分でかまわないから帰してほしいな」
悟はそう言うと床に座った。
「何? どうしたの?」
瀬野は悟がこれからの予定を話すと大きく溜息をついて悟の横にしゃがんだ。
「ねえ、鳥越クン、本当に頭大丈夫?」
「いや、ホント大丈夫ですよ」
覗きこむ瀬野から微かに甘い香りがしてきて、悟はどきりとしながら答えた。
瀬野はどちらかというと勝ち気な性格だ。髪も短くボーイッシュで、化粧もしてるのかしてないのかわからないくらいであった。ピアスやネックレスといったアクセサリーもしていない。悟はそんな瀬野から女性の匂いがしたことで急にどぎまぎとしてしまった。よく見れば指は細く、つけている時計も女性用の小さいもので、洒落たメタルバンドのものであった。
「なあ、もう昼の休憩でいいってさ」
反対のラインで作業をしていた坂口がブラブラと歩きながら話しかけてきた。悟は生返事をし、立ち上がった。赤澤も搬入のアルバイトとの会話を切り上げ、坂口に応えた。
「食堂、もう飯食べれるんですかね?」
工場の壁にある、枯れた色合いの時計を見ながら坂田は大丈夫なんじゃないの? と応じた。悟は十五分程度早いだけだし問題ないんじゃないかと言った。
坂口たちの一歩後ろを歩いていると小走りに瀬野が追いついてきた。
「鳥越クン、今日はお昼オゴってあげるよ」
「えっ?」
悟は瀬野の誘いに驚き、とっさにいえ、いいですよと答えた。
「オゴるわよ。さっきのお詫び」
「いや、ホント、気にしないでいいっスよ」
瀬野のしつこい誘いに狼狽しながら悟は丁重に断った。その会話を聞いたのか、坂口は後ろを振り返り、どうしたの? と聞いてきた。
赤澤が事の顛末を話すと坂口はニッコリと笑い、瀬野さんがオゴってくれるなんて滅多にないんだから甘えとけば? と悟に言った。
「滅多というより見たことないなぁ」
「赤澤クン、一言余計」
瀬野はそう言って赤澤の頭をこづき、口を尖らせた。
食堂は案の定空いていて、難なく食事にありつけそうだった。普段は長蛇の列に並び、十分は食事にありつけない。いつもこうだといいのにな。悟はそう思いながらトレイを手にした。瀬野は悟の後ろに並び、鳥越クンは何がいいの? と聞いてきた。
「いや、ですからホントに・・・・・・」
そう言う悟に赤澤は小さい声で甘えちゃえ、甘えちゃえと囁いた。悟もこれ以上はカドが立つなと思い、瀬野にペコリと頭を下げた。
「それじゃあお言葉に甘えまして」
「そうそう、年上の女性の言うことは素直に聞くモノよ」
悟は今日の定食がメンチカツなのを確認するとそれを選んだ。ドンブリ飯とみそ汁をとると瀬野は悟のトレイに一品ナポリタンをのせた。そして賄いのおばさんに二人一緒ねと言ってお金を払った。
「このナポリタンはちょっと・・・・・・」
席につくと悟は困った表情をした。
「あら、それぐらいは食べれるでしょ? ときどき食べてたじゃない」
「いや・・・まあ、そうなんですけど」
確かにそうなんだけど、今日はそんなに空いてないんだよな。悟はそう思いながらも冷めきって、ぶよぶよとしたナポリタンを一口食べた。
「いらないなら俺もらおうか?」
坂口はテーブルにある大きなヤカンから湯呑みに茶を注ぎながら言った。瀬野は手をヒラヒラと振って、これは鳥越クンにオゴったのと答え、笑った。
「ちぇっ、いい男はトクだなあ」
坂口は笑ってドンブリ飯を頬張った。苦笑いしながら悟はソースをメンチカツにかけ、飯をかきこんだ。
つづく
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