一五〇センチの地下 第三回 浅井 清孝
今日は絶対に寝る。三時半に仕事がはけ、食堂で缶コーヒーを飲み終ると悟はそう心に固く決めた。
「じゃあ、オレ帰ります」
悟は誰よりも早く立ち上がり、そう言った。
「アレ、今日は早いね」
坂口のその言葉にちょっと寄りたい所があるんでと嘘をつき、足早に食堂を出た。
「たっぷりと寝てやる。誰にも邪魔させないぞ」
悟はそうつぶやき、バス停に向かった。
バスは行ったばかりで次のバスは十分またなければならなかった。舌打ちしながら悟は歩いてかえるかどうか思案したが、面倒臭さも手伝い、ベンチに腰掛け、煙草をくわえた。
「あれえ、めずらしいね」
時間通りにきたバスに乗り込んだ時、赤澤が声をかけてきた。
「ええ、まあ」
悟は愛想笑いを浮かべ、肩をすくめた。動き出したバスに揺られ、悟と赤澤は吊り革につかまった。
「あ、そういえばさ、鳥越君、オーディオ詳しくない?」
バス停を一つ過ぎた時、空いた目の前の席を勧めながら赤澤はそう言った。悟は座りながらさしも詳しくはないが、電気製品は好きだと答えた。
「オレさあ、あんまりよくわからないからさ、もし良かったらちょっとつきあってくれないかなぁ」
悟はうっかり口をすべらしてしまったことを後悔した。面倒臭いなあ。そう思いながらもいやとはいえず、悟は仕方無しに頷いた。
「いやあ、オレね、ミュージシャン目指してるクセに機械よくわからないんだよね」
赤澤は照れくさそうに笑うとしきりに頷いた。
「ミュージシャンですか」
意外な言葉を聞いて悟はさも感心したようにつぶやいた。
「あんまり見えないだろう。顔立ちが田舎臭いからさ」
「いや、そうでもないですよ」
悟は大きく欠伸をして窓の外を眺めた。
「オレの友達にミュージシャンとかそういう職業目指してるやつがいなかったから」
赤澤をチラっと見て悟は小さく笑ってみせた。
駅につき、二人は大型家電販売店に足を向けると品物を物色しはじめた。
「どんなのが欲しいんです?」
「ギターの音、直接取り込めるやつがほしいんだよね。カセットデッキで」
それならオーディオ専門のコーナーがある店がいいんじゃないですか。悟はそういってもう一件近くにあるからそこにいこうと促した。
「さすが地元。詳しいなあ」
「あれ、赤澤さんは地元じゃないんスか?」
「うん。広島出身」
へえ。悟はそういいながら煙草をくわえ、火をつけた。もう一件の店は休業日で閉まっていた。
「どうします?明日にします?」
「さっきの所にないかな」
「聞いてみないとわからないっスけど」
結局二人はさっきの店に戻って店員に聞いた。しかし、店員の対応は悪く、勧める品はどれも高いものばかりであった。悟はそんな店員の態度を見てイラついた口調で機械を前に腕を組んでいる赤澤に囁いた。
「明日にした方がいいっスよ。あっちの店員のほうが親切ですから」
あいつなめてやがる。店員のいかにも悟と赤澤を見下したような目が気に入らず、出ようと赤澤を促した。
赤澤は少し思案して悟に笑いかけ、店員にこれを買うからローンを組みたいと話した。
「あんな奴の売り上げに貢献しなくたってよかったんスよ。アイツ、俺たちを馬鹿にしたような目でみやがって」
店を出ると悟はそういって息巻いた。
「へえ、鳥越君がそんなに熱血漢だったなんて知らなかったや」
赤澤は笑いながら悟の肩を叩いた。赤澤の言葉に悟はふいに口数が多くなっている自分に気づき、小さく舌打ちをして煙草に火をつけた。
「付き合って貰ったお礼に何かメシでもおごるよ」
「いや、いいっスよ。高い買い物したから」
「ローン組んだから財布は大丈夫だよ」
赤澤の誘いを辞退し、悟は眠いから帰りますと言ってそそくさと家に帰った。
家に戻ってベッドに寝そべったものの、すっかり眠気が覚めてしまい、悟はゴロゴロと寝返りを打つだけであった。
しかたなしに車でも走らせようかと思っていると、電話のベルが鳴った。悟は誰か出るだろうと思ってそのまま寝そべっていたが、誰も出る気配はなく、ベルはいつまでたっても切れなかった。
「なんだよ、出かけちゃったのかよ」
悟はぶつぶつと文句をいいながら起き上がり、のそのそと受話器を取った。
「もしもし、鳥越ですけど」
ぶっきらぼうな口調で受話器を取ると、車の騒音が聞こえてきた。
「あ、サトル?俺だよ、コウジ」
ちぇっ、イヤな電話とっちまった。悟は顔をしかめ、生返事をした。
「昨日は悪かったな。ちょっと急用が出来てな」
悟はそう言って煙草に火をつけた。
「いや、いいんだよ。それより今日はヒマか?」
こいつ断れば毎日電話かけてくるんじゃないだろうな。悟は里中の言葉を聞きながらそう思った。
「ああ……ウん、少しなら大丈夫だぜ」
「いま駅にいるんだ。出てこいよ。お茶ぐらいオゴるからさ」
コウジの声はどこかノンビリとした口調で、それは悟の神経を逆撫でするようであった。生返事をして電話を切ると、煙草をもみ消した。
「仕方ない、いくかな」
溜息を大きくつくと、悟はジャンパーを羽織り、外に出た。
夕方になると寒さが募り、悟の頬はその寒さでぴっと引っ張られるようになった。
「面倒臭ぇなあ」
一人ごちると背中を丸め、ズボンのポケットに手を突っ込んで早足で駅に向かった。
駅の公衆電話が並んでいる場所にコウジは缶コーヒーを飲みながら待っていた。悟に気がつくと大きく手を振って悟を呼んだ。
「なんだよ、分かってるから大きな声で呼ぶなよ、恥ずかしい」
悟は小走りにコウジの所に行くとそう言って舌打ちをした。
「いや、悪気はなかったんだよ。随分と久し振りだからわかるかなと思って」
「バカ、たった半年じゃないか。そんなに変わるかよ」
悟は駅前のスーパーの二階にある喫茶店にコウジを促した。
「そうかなあ。オレ変わらないか?」
「変わんねえよ」
コーヒーを注文すると悟は水を一口飲んだ。コウジはニコニコしながら店内をキョロキョロ見回していた。
「何の用なんだ?」
「は?」
「オレ呼んで何の用事があるんだ?」
「いや、別に用事ってほどの事はないんだけれどさ」
「じゃあなんだよ」
「何そんなにトンがってるんだよ」
コウジはコーヒーをすすると不思議そうな顔をした。なんだか調子がはずれた受け答えに悟はイラつくよりも呆れてしまっていた。
「久美子ちゃん、元気?」
「別れたよ」
「えっ?そうなの?」
「そうなのって……、オマエ知らなかったのか?」
「だってオレ、つい昨日こっちに戻ってきたんだぜ」
悟は首をかしげ、コウジの顔を覗きこんだ。
「こっちに戻って来たって?」
「オレ、半年間新潟にいたんだ」
知らなかった? コウジは何のてらいもない表情でそう言うと天井を見上げた。
「サトルに言わなかったっけなぁ」
悟は溜息をつき、口元に笑みを浮かべた。ああ、そうだった。里中浩司は確かにこういうやつだった。他のダレかとちょっとズレててのんびりしてる奴だった。そう思いながら煙草をくわえた。
コウジは就職していきなり派遣で新潟に飛ばされ、三ケ月の予定が半年もいるはめになり、ようやく戻ってきたと説明した。そして悟は久美子と別れた事、仕事をやめて今はアルバイトをしていることをかいつまんで説明した。
「信じられないよなぁ。久美子ちゃん、おまえにベタぼれだと思ってたんだけど」
「おまえ女見る目ないからな」
「それで何が原因だったんだろう」
冷めてしまったコーヒーを飲み干すと里中はコーヒーのおかわりとスパゲッティを注文した。
「男が出来たんだよ」
「は?」
「オトコが出来たから」
悟はゆっくりというとフンと鼻をならした。
久美子に電話で呼び出された悟は仕事が片付くとそそくさと会社を出た。約束の時間まで一時間もあり、喫茶店の周辺をブラブラと歩き時間をつぶした。言われた喫茶店に十分ばかり早くつくと悟は先に入っていようかなと考え、店に入った。
「あれ?」
店に入ると客の中にコウジと同じく仲の良かった福原良平がいるのに気がついた。相手も悟に気がついたらしく、小さく手をあげ、悟に合図した。
「なんだ、オマエ。ここで何してるんだ……」
そう言って近づいた時、福原の座っているテーブルに久美子が持っているバッグが置いてあるのを見つけた。一瞬にして悟は自分の立場を理解した。顔が火照るのがわかった。怒りよりもひどく恥ずかしい思いにかられ、悟はただその場に立っていた。
「あ……」
その時、久美子が悟を見つけ小さく言った。振り返ると久美子は出会った時よりも固い表情で立っていた。
「何もいわない。ただこうなったとしかいいようがない」
福原は悟に座るようイスを薦めながらそう言った。悟は何も言わず、イスにも座らず、ただ黙っていた。
こんな時怒鳴ろうがわめこうが、何かが変わる訳でもない。そうしたら二人にとっては好都合なことであった。久美子も福原も何とも思わないだろう。どっちにしても恥ずかしいピエロは自分ではないか。
悟はそう思い、何も言わずに喫茶店を出て、そのまま駅に向かって走った。
「それからなんだか何をやるにしてもバカらしくなってさ。オレ、会社をやめちまった。女の事でそんなことしちまうんだ。みっともなくって」
悟はそう言うと自虐的な笑みを浮かべた。コウジは黙々とスパゲティを食べながら悟の話にいちいち頷いた。そしてスパゲティを食べ終ると一気に水を飲み干し、天井に向かって大きく息を吐いた。
「おまえ、ちゃんと聞いてる?」
その動作を見ながら呆れたように悟は聞いた。
「新潟に行った時、仕事が上手くいかなかったんだよ」
コウジは壁に掛かっている絵を見ながらそう話しはじめた。
「は?」
「なんでこうも上手くいかないんだろうって思っていた時、行きつけの食堂のオヤジにいわれたんだ。『そりゃアンタ若いからだよ』ってね。その言葉聞いたら体が軽くなったんだよ」
そういうとコウジは小さく笑った。
「そういう事」
「そういう事、って何がだよ」
意味がさっぱりわからず、悟は聞き返したがコウジはそれ以上は何も言わなかった。悟もそれ以上は聞かなかった。
「自分がこんな男だとは思わなかった。なんだかあれから何もかもが面倒臭くなっちまったし、関わりのある人間に会いたいと思わなかった」
そう言うとコウジは小さく頷いて、そうだろうよと言って笑みを浮かべた。
つづく
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