一五〇センチの地下 第二回 浅井 清孝
こんな偶然あるんだな。悟と水原久美子の出会いは本当に偶然という言葉がぴったりであった。
その日、悟は一人で駅から少し離れた本屋に車で行った。そこは二階がレンタルビデオの店になっている所で、そこには専門書が多く、その為にそこに出向いた。本を数冊買い込むと、駐車場に出た。煙草をくわえて火をつけた時いきなり体に強い衝撃を受け、ガクンと膝が折れ、その場にしゃがみこむような姿勢になった。一瞬何が起きたかわからず、悟は立ち上がろうとした。その時足にひどい激痛が走り、悟は顔を歪めた。
「すいません!大丈夫ですか?」
後ろから女の声がした。ゆっくりと後ろをみると赤い車がすぐ後ろにあった。
ちくしょう、ぶつけられた。悟は事情がわかるとそう思って舌打ちをした。こんな所でぶつけられてこんな格好してるなんて間抜けだな、悟は苦々しい顔をした。
悟の側に来たのは若い女だった。微かな甘い匂いがすると悟は急に怒りがこみあげてきた。
「おい、あやまるより早く車をどかせよ」
悟の口調に女はビクッとするとすぐにすいませんと謝り、車に乗った。車はゆっくりと動き、悟はようやく姿勢を変えることができた。幸いタイヤに踏まれてなく、足にケガはなかった。ただ思いきり膝を打ったらしく、悟はしばらく立ち上がれそうになかった。
「今、警察を呼びますから」
女の声がした。足の痛みが和らぐと悟は怒るのもばからしくなり、電話をしに行こうとする女を制した。
「いいよ。警察くるとやっかいだし、それに骨折してるふうもないし……」
「でも……」
多分脅される事を警戒してるのだろう、女は又電話に向かって歩こうとした。
「大丈夫だって。別にあなたを脅そうなんて考えてもないって」
悟はそういうと立ち上がってみせた。右足の膝がまだ痛かったが、歩けないというほどではなかった。相手が女性だけになんといえば安心してくれるか考えた。そしてさとすように駐車場には幸い誰もいなかったし、大したケガもしていない。警察に行けば人身になって面倒で無駄な時間がかかると説明した。そして悟は車に乗ろうとした。
「あの、病院に行かなくちゃ」
「ああ、明日行きますよ」
「車の運転だって……」
あまりにしつこいので悟は半ば呆れたように言った。
「じゃあ、どうすればあなたは満足します?」
「まず病院に行って診てもらってください。お金は私がだしますから」
ずいぶんとお人好しだなあとつぶやき、了承した。
「名前と、電話番号を教えてください」
悟は名前と電話番号を伝えると車に乗った。
「私、水原久美子って言います」
女はそう言って固い表情で笑った。
それがきっかけだった。悟自身もそんなことが出会いなんて不思議であったし驚きでもあった。
「そんな事もあるのよ」
その話が出る度に久美子はそう言ってふふっと微笑むのだった。
そんな久美子との付き合いは唐突に終りを告げた。お互い会社には絶対に電話をかけないという約束だったのに、その日久美子は電話をかけてきた。そして約束の喫茶店にいった時、話は聞く前に終っていたのだ。
家に帰り、悟は車の整備をはじめた。ウォッシャ液を足し、エンジンオイルを点検し、窓を拭いたあと、前から買ってあったヘッドランプのバルブを交換した。
「ったくすぐに電気系がいかれるんだよ」
悟はネジを緩めながらそうつぶやいた。事実小さいクルマでたいした装備がないクセに電気の配線がいいかげんでしょっちゅうどっかのランプが消えたりしていた。
「悟、電話よ」
母親が窓から顔を出し、声をかけてきた。悟はボンネットに顔を突っ込んだまま、後でかけると言っておいてくれと言った。
「コウジ君からよ」
母親のその言葉で悟は顔を上げ、首をひねって家に入った。
「もしもし?」
受話器を取ると悟は幾分不機嫌な調子で言った。外からかけてきているのかやけに騒々しかった。
「ああ、サトル?よう久しぶりだな」
「ああ、しばらく」
「元気かよ」
「すこぶる元気だよ」
悟はウンザリした表情で煙草をくわえ、そんな取るに足らない話をするために電話をしてきたのなら切るぞ、俺忙しいんだと言った。
「忙しいか……。ヒマならメシでもどうかと思ったんだけどな」
「せっかくで申し訳ないけどね」
「なあ、夜ならヒマか?」
しつこいな。悟はそう思いながら生返事をした。
「何かあるのか?」
「何が?」
「おまえがそうしつこく聞いてくるのには何かウラがある時だからな」
電話口でコウジはそうかなあととぼけた声でいうと待ち合わせの場所と時間を告げた。
「来いよな。待ってるから」
「都合が良ければ行くよ」
悟はそう言うとさっさと電話を切ってしまった。
里中浩司は高校の時の同級生で、ちょくちょく遊んだ仲であった。高校を卒業後別々の会社に就職し、忙しい毎日であったが毎週末他の友人を含めてよく会っていた。しかし、久美子と別れてすぐにお互いへの連絡は途絶えていたのだ。ここ半年ほど連絡もなかったのにと思いながら悟は夜は出かけちまおうと思った。
「カンカンは調子いいのか?」
ソファで寝そべって本を読んでいると会社から帰ってきた兄の正俊がそう言って笑った。
「その呼び方やめてくんないかなぁ」
「なんで? いいじゃないか」
起き上がると悟はふんと鼻を鳴らして時計を見た。もうすぐコウジとの約束の時間であった。
「でかけるかな」
「どこに行くんだ?」
「ちょっとドライブしに」
「いいなあ。一緒に連れてけよ」
まあ、いいか。悟はそうつぶやくと着替えてきなよ、車で待ってるからさと言ってジャンパーを羽織った。
「すぐ着替えてくる。五分待ってくれ」
正俊はそういうとバタバタと二階に駆け上った。それを見やった後、悟はそそくさと靴を履き、外に出て、コウジから電話がかかってこないうちにと思って車に乗り込んだ。
「サトルの車に乗るの久し振りだな」
ジーンズとトレーナーに着替えた正俊は助手席に乗るとそう言った。
「そうかなあ」
車を出すと悟はどこに行こうかなと思案した。
「そうそう、さっき出る時里中君から電話が入ったぞ」
「えっ、そうなの?」
「サトル君います?って言うからちょっと出かけてるって答えた」
「あっそう」
車を走らせてはみたが、どこに行くか思い浮かばず、悟は正俊にどこに行きたいかと尋ねた。正俊はしばらく考えたあと、
「おまえいつもドライブ行くっていってどこにいってる?」と聞いてきた。
「時と場合によってマチマチだけど」
「じゃあ、行きたい所があるんだ」
そういって正俊は最近開発されはじめたニュータウンを指定した。
「こんな所でいいの?」
いわれた場所はまだ開通されていない地下鉄の駅のバスターミナルで、夜という事もあって静かで人影もなかった。車の往来もなく、街灯もポツポツとしかなく、寂しい所であった。
「夜はまだまだ冷えるな」
車から降りると正俊は大きく伸びをしてベンチに腰掛けた。
「時々、ここに来るんだ」
「は?」
横に座ると正俊の言葉に悟は首をかしげた。正俊の勤め先は渋谷なのに寄り道にもならない離れたこの場所にどうやって来ているんだろうか。悟はそう思いながら辺りを見回した。
正俊は車の運転に興味がなく、免許を取らなかった。悟は何度か免許ぐらい取れと催促したこともあったが、正俊はオマエがいるからいいよと取り合わなかった。
「何かあると会社を早くに出て、バスに乗ってここに来る。そして一時間くらいボーっとするんだ」
「バスあるの?」
「あるよ。ただ、あまり遅くまで走ってないけどな」
ここは秘密の場所だぜ。正俊はそういうと一つしかない、多分工事のために設置されているだろう自販機で缶コーヒーを買って悟に渡した。多くを語らない兄を見ながら、悟は缶コーヒーをすすりながらボーっと星空を眺めた。
「今日は二分半ペースでーす」
瀬野の声が聞こえると悟は眠たげな声で返事をした。
結局昨日は一時間ほどあの場所にいて、その後ラーメンを二人で食べて帰ってきたのは夜中の一時であった。そこからよせばいいのになんだかんだと二人でテレビを見ながら四方山話をして寝たのは三時近くであった。
今日も台数が少ないのか、かなりの時間配分になっていた。
一台五分かよ。眠気が襲う中で悟は溜息をついた。
置いてある雑誌も読み飽きてしまった悟は次の車が入るまでヒマを持て余し、チェック用の白いペイントで壁を塗ったり、床を掃除したりした。それでも昼にはすべてやり終えてしまい、昼休み後の作業が億劫になっていた。
「今日は何台?」
昼休みのベルがけたたましく鳴り響き、手洗い場に行くと悟は車を搬入してくるバイトに聞いた。
「今日は三百もないよ。また三時前にはおわっちゃうんじゃないかな」
午前中に三十六台点検している。二ラインで七十台弱。やっぱり三時くらいには終ってしまいそうだな。悟は計算しながら今日早く上ったらすぐに寝てしまおう。そう考え、食堂に向かった。
「いや、二百台弱だって聞いたぜ、オレ」
昼食をすませ、休憩所に向かう時、坂口はそう言って大きく伸びをした。休憩所に入ろうとした時、赤澤が声をかけてきた。
「なんだか、会議をするとやらで休憩所、使えないんですよ」
「ウソ、そうなの?」
舌打ちしながら坂口がいった。工場のすぐ横には自分達の会社の事務所があるのだが社員がいるので入りにくい。仕方なく悟たちは工場の外に座り込んだ。
「煙草はバレないように吸えよ」
四人で四方山話をしていると主任が顔を覗かせていった。
「今日も早いんだろうな」
坂口はそうつぶやき、ごろりと寝そべった。悟は煙草をふかしながら大きな欠伸をした。
「遅くまで遊んでたの?」
赤澤は悟のライターを拝借し、煙草に火をつけるとそう言って笑った。悟はちょっと遅かったと言って小さく笑った。
「女の子と夜遊びしたんじゃないの」
瀬野が横から口をはさんだ。
「だといいんスけどねぇ」
悟は苦笑し、ジュースを一口飲んだ。
「そういや、鳥越君カノジョいないの?」
起き上がると坂口は煙草をくわえ、聞いてきた。悟は首を横にふって肩をすくめてみせた。坂口はふうんといいながら煙草をふかした。
「いてもよさそうなのに」
瀬野のその言葉に赤澤が相槌を打った。自分が話題の中心になってくると悟は適当に返事をし、トイレに立った。
とにかく悟は話の中心になるのがいやだった。色々根掘り葉掘り聞かれ、答えることにウンザリで、聞かれてもいつも適当にごまかして話をそらした。
「トモダチ作りにバイトしてるわけじゃないんだよ」
用を足しながら悟はそうつぶやいた。
好きでこのバイトをしているわけじゃないし、トモダチ欲しさにやってるわけでもない。楽しく仕事をしたいとも思わない。ただ、生活するための金がほしいだけさ。
悟は自分に言い聞かせるようにそう胸の中でつぶやいた。そして昨日のコウジの電話を思い出し、仲間なんてもういらないとつぶやいた。
つづく