一五〇センチの地下 第一回 浅井 清孝
「一台一分半ペースでーす」
始業ベルが鳴ると同時に同じアルバイトの瀬谷優子の声が聞こえた。鳥越悟は気の抜けた返事をして帽子を目深に被り、工具を手に取った。
名の通った大手自動車会社の物流管理センターでの新車点検のアルバイトを始めて二週間。次々にラインに流れてくる新車を点検するだけのこの仕事を悟は黙々とこなした。
物流管理センターとはいってもすごく設備の整った場所ではない。錆びてしまった手摺り、歪んで盛大に軋み音を発するドア、強い風が吹けば剥がれ飛んでしまそうなトタンで出来た作業場。どこをとってみても陽気になる材料が見当たらないこの職場は大手自動車会社のものとは思えないほどの貧相極まりない建物で、不景気な御時世の冬の季節に見た時、もうすぐ閉鎖してしまうんじゃないかなと悟は思った。
時給の良さと家から近いこと、そして車が好きという事で問い合わせたこのアルバイトを悟はわりあいに気に入っていた。
新車点検の仕事はいたって簡単であった。モータープールに入ってきた納車前の新車を二つのラインに流して一ライン三人、都合六人の流れ作業で行うものであった。一人はタイヤ、トランク、エンジンルームといった外回りの点検。もう一人はリフトの下でのオイル漏れや要所要所の点検をする下回りの点検。そしてもう一人がエンジンナンバー、車体ナンバー、オプション、グレードをチェックして作業ブースに持って行く搬出作業。その中で悟は下回りの作業をしていた。外回りの点検をする人間が直進性を調べるスリップ検査をしながらリフトの所まで移動してくる。リフト位置に車が来ると悟はリフトを上げ、点検をする。その間に上では搬出が作業を同時に行い、点検がすむとリフトを降ろし、搬出がそのあと走行チェックやラインで見つけた不具合を直す作業員のいるブースに移動させるのだ。その作業の流れを一台おおよそ一分弱で行い、ただひたすらに繰り返す単純作業を悟は黙々とこなした。
「次の車で休憩よ」
搬出の担当、瀬野のその言葉を聞いて悟は気の抜けた返事をして、各部の点検箇所にチェックの印を白ペイントでつけてリフトを降ろした。
次の車が入ってきて、リフトを上げると外回りの担当の赤澤弘明が休憩であることを再度告げた。悟はレンチで各ボルトの締まりを点検しながら返事をした。
リフトを降ろすと悟は帽子を脱ぎ、ヒーターのスイッチを切るとピットから這い出てきた。
「地下の生活は快適?」
悟に赤澤はそう話しかけ、笑った。悟は曖昧な返事をしてベルが鳴ると同時に手洗い場に向かった。
「水が冷てぇなぁ」
手を洗う作業員が誰にいうともなくつぶやいた。
十時と三時に休憩があり、作業員は工場の二階にある会議室で休憩をする。昼もそこで食事をしたり休憩ができるようになっていた。休憩室に入ると悟は適当な場所に座って煙草を吸った。
「下回りの仕事には慣れた?」
悟の横に座ったもう一ラインの下回り担当の下川哲平は悟にそう話しかけてきた。悟は灰皿に煙草をなすりつけて灰を落とすとボチボチですと言って愛想笑いを浮かべた。
「首がきついんじゃないの?」
「そおっスね。少し痛いっスね」
下川はだろうと言って笑うと首をコキコキと鳴らした。
「それ、慣れるしかないんだよね」
「でもなかなか手際がいいのよ」
下川に瀬谷がそう言い、悟はそんな事はないと言って首を回した。
瀬谷と下川はそのまま車の話となって悟は少しホッとして窓に目を向けた。風が強いのか、窓から見える葉の落ちきってしまった枝たちがしなっていた。
そういえばあの時の景色もこんなふうな景色だったな。悟はそう思いながら煙草をふかした。
「今日も相変わらず台数が少ないみたいだよ」
ふいに赤澤にそう言われ、悟ははっ?と気の抜けた声で返事をした。赤澤はもう一回繰り返すと悟にライターを催促した。
「悪いねえ。いつもいつも火借りちゃって」
赤澤はそういって煙草をふかした。赤澤は自分でかなり年季の入ったジッポーのライターを持っているのだが、オイルがないのか一度も火がついた事がない。悟はある時オイルを入れれば火はつくのではないかと言ったことがあったが、赤澤はちょっとしたお守りのようなものだからとしか答えなかった。悟もそれ以上聞いたとしても他人事だと思い、それ以来そのことは口にしなかった。
煙草を消すと悟は呆けた顔をしてたかなと思い、顔をさすった。
結局その日は台数が少なく三時半には仕事がハケてしまった。それでも日給がそのまま入るのだから楽で儲かる仕事と言えた。悟がこの仕事を始めてからずっと三時半あがりばかりであった。着替えが終わるとバイト連中は決まって食堂に足を運び、一服していく。着替えが終わると下川と悟、もう一人の外回りの担当の佐野貴史はいつものように食堂に足を向けた。食堂はガランとしていて悟たち以外は食堂の賄い婦だけで、そのおばちゃんたちの笑い声が響いていた。
「早く終わって給料もちゃんと貰えるのはありがたいけどすることなくてヒマなんスよねえ」
佐野はそう言って缶コーヒーをすすった。悟は缶コーヒーを買うと下川の横に座り、煙草をくわえた。
「彼女に会いに行けばいいじゃない」
下川はそう言うと煙草に火をつけた。
「こんな時間じゃまだ仕事終わってないっスよ」
下川たちの話は決まって女の話か車の話であった。悟はいつも食堂に寄っては缶コーヒーをすすり、煙草を吸い、話を横で聞いているだけであった。
「そういえば鳥越さんってどんな車乗ってるんスか?」
佐野はそう言って悟を見た。
「えっ?何?」
聞き流していた悟は佐野の言葉に気が付かなかった。佐野がもう一度聞くと悟は困った表情を浮かべた。
「多分知らないと思うよ」
「え、どんな車なんですか?」
「あれ、ガイシャじゃなかったっけ?」
下川の言葉に悟は曖昧な笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「すげえ、ガイシャっスか」
「大した車じゃないよ」
「なんて名前っスか?」
「フィアットパンダ」
「は?」
「ああ、あのクルマ乗ってるんだ」
下川はそういって感心したように頷いた。佐野はよくわからないと言った様子で首をかしげた。
「四角いベントウ箱みたいな小さい車なんだよ」
だから外車と言ってもそうすごいものでもないんだ。下川の説明に悟はそう付け加えて苦笑いをした。それでも佐野は感心したように頷いてみせ、故障はしないのか、色は何色なのかと聞いてきた。
「パンダだけにランランとか言って呼んでるんじゃないスか?」
その言葉に悟は少し狼狽し、言葉を曇らせた。
「まさか、オンナじゃあるまいし」
下川の言葉に悟は曖昧な笑みを浮かべて生返事をした。
車にあだ名をつけて呼ぶなんて習慣を悟は持っていなかったのだが、実は車にはカンカンという呼び名がついていて、悟は時々自分の車をそう呼んでいた。
「この車、パンダって言う名前だからカンカンって呼ぼう」
そう言い出したのは恋人だった水原久美子であった。悟が大学のゼミで一緒だった友人がタダ同然で譲ってくれた埃をかぶったようなくすんだ白色の車を見てそう言ったのだ。悟は別にそう呼んでもかまわないけど人前ではやめてくれと言った。久美子は不思議そうな顔をしていたが、悟は自分の車に名前をつけるなんて恥ずかしいし、人前でそんな呼び方をしたら俺がつけたみたいでカッコ悪いと説明し、久美子に何度も言い聞かせた。結局久美子は人前で平気でカンカンと呼び、何度も恥ずかしい思いをしたのだが今でも悟は身についてしまったせいもあってそう呼んでいたのだ。
だから佐野と下川に見透かされた様で悟は苦笑いをするだけであった。
その話題を潮に三人は腰を上げ、食堂を出た。
「今度車で来て下さいよ。是非乗ってみたいんで」
正門で別れ際佐野はそう言って小走りに走っていった。
「バスで帰るの?」
佐野を見送った後、下川は煙草をくわえながら悟を見た。ちょっと買い物があるから少し歩きますと答えると、下川はオレ鶴見に用事があるからと言ってバス停に歩いていった。下川の彼女は鶴見に住んでいて、毎週二回は彼女のアパートに通っていた。多分彼女に会いに行くんだろうなと悟は思いながら足を下川とは反対方向に向けて歩き始めた。
久美子は今何をしているのだろうか。ブラブラと歩きながら悟は思った。二年付き合い、これからもこの調子で続くであろうと思っていた二人の関係はいとも簡単に終わりを迎えた。呆気ない。そんな言葉がぴったりな結末であった。
「アホはオレで、リコウはクミコ」
まるで呪文のように言い続けている言葉をつぶやきながら、悟は煙草をふかした。
つづく
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