一五〇センチの地下 第十八回   浅井 清孝



 シフト制で決まっている、第二月曜日の休みを有効に使おうと、悟は就職口をみつけ、面接へと赴いた。一社目は車の整備で、実務経験がアルバイトの点検だけではと、すげなく断られた。二社目のコンピュータソフトの開発会社は、募集した人間が多く、面接も手応えがなく、あっさりと終わった。
「未経験歓迎ってあったクセに」
 関内のオフィス街にある、横浜公園のベンチに腰を降ろすと、溜息混じりにそう一人ごちた。ネクタイを緩め、缶コーヒーを飲みながら時計を見た。次の会社の面接まで時間があり、昼食を取って、一度家に戻ろうと考えた。煙草をふかしながら、この公園に来るのも久しぶりだなと思い返した。公園を横切りながら颯爽と歩くサラリーマンもいれば、ベンチで本を読んでいる老婦人、ハトにかこまれて、今にも泣きだしそうな子供、肩を寄せ合って話している若い恋人たち。あの時と同じような光景に目を細め、悟は煙草をふかした。就職しようと決めた時から、悟の中に新鮮な空気が舞い込み、新しく踏み出す喜びと不安がない混ぜになった高揚感で満ちていった。就職口を見つけ、電話をして日時を決め、朝出発するまでそれは続き、悟は久しぶりのスーツに背筋が伸びる思いであった。しかし、一社目の面接で、その膨らんだ高揚感は萎えはじめ、今ベンチに座る自分にはほとんど残っていない。またその熱気を取り戻すにはどうしたら良いのだろう。悟は整髪料をつけた頭を掻いて、煙草を捨てた。
「おい、鳥越」
 コーヒーを飲み干し、立ち上がった時、目の前に一人の男が立っていた。悟はその男を見やると、少し表情を曇らせた。
「忘れたか、友部だよ」
 口を奇妙なカタチに歪ませて笑い、友部は近づいてきた。悟は愛想笑いを浮かべ、どうも、と短く挨拶した。短く刈り込んだ髪を撫で、何をしているのかと聞いてきた。その口調はあからさまに侮蔑したもので、悟は適当に答えてその場を去ろうとした。
「おまえ、今はバイトだってな。俺は今日、コピー機三台の契約を取ってきた」
「それで?」
「あの時お前言ったよな。アンタのやり方は汚いって。正義ぶった奴がバイトで、汚いことしてる俺はトップセールスマンだ」
 友部は煙草をくわえ、胸を反らせてみせた。その滑稽な仕草に、悟は胸の内から怒りがこみあげてきた。
「どうせその三台も詐欺して売ったんだろう」
 悟は吐き捨てるように言うと、ぎゅっと睨みつけた。友部は笑みを浮かべたまま、身構えた。いっせいにハトの群れが飛び上がり、子供がそれにびっくりして大声で泣きだした。無数の小さな影たちが、友部の顔に斑模様を描き、その姿に怒りが急速に萎えてきた。いつまでもこいつの熱に惑わされてはいけない。そう思い、ふっと力を抜き、硬直した顔の筋肉を緩ませた。考えてみれば、こいつに対抗すること自体馬鹿らしいことなのだ。どんな手を使ってでも勝たなくてはいけない事もあろう。しかし、負に染まってまでしなくても他に手はあるのだ。俺はその手を探し出し、勝てばいい。同じ次元、同じ土俵で勝負をしなくても、人であるかぎり、いや、生きている限りいずれ勝負はつくのだ。
 ハトたちがぐるりと引き締まった冬空を巡り、また地上に降りたつと、悟は笑みを浮かべた。
「用事があるんで、帰りますよ。それじゃ、頑張ってください」
「おい、待てよ」
 身を翻し、立ち去ろうとする悟の肩を、友部はぐいっと掴み、引っ張った。悟は立ち止まって、振り返ると友部の目を見据えた。
「アンタがどんな仕事して、成り上がろうとも俺には知ったこっちゃない。俺には俺のやりかたという道を進むだけだよ」
 ゆっくりと、静かにそう言うと、肩をきつく掴む手をゆっくりとほどき、友部の肩をぽん、と叩いた。
「アンタに会えて良かったよ」
 悟は心の底からそう思った。ここで友部に会わなければ、ずっとベンチに座っていただろう。だとすればこの男に感謝しなくてはいけないな。そう思い、素直に言葉が出たのだ。
「なんだよ、その余裕の笑みは!」
 背中越しに友部の怒声が聞こえた。その声に泣きやみそうだった子供がまた泣きはじめ、ハトたちもまた勢いよく飛び上がった。悟が振り返ると、仁王立ちの友部がまた叫んでいたが、泣き声とハトの羽ばたく音にかき消され、聞こえなかった。
 結局昼飯を食べそびれ、そのまま三社目の会社に向かった悟は、指定されたバス停を降りて戸惑った。就職誌に描かれた地図の場所には小さな交番、その向かいにはコンビニエンスストアの入ったマンションが一件、その隣には小さい酒屋と言った具合に、商店街の一角であった。こんな所に基板製造という職種の会社が本当にあるのかと考え込んでしまった。破いてきた地図を見ると、自分のいる交番の向かい側、マンションにその会社はあるはずであった。確かにコンビニエンスストアの上に黒いブラインドを降ろしているフロアがあるが、それが会社であるとは想像がつかなかった。
「参ったなあ」
 悟はもしかしたら変な会社に電話をしてしまったかもしれないと思い、その場に立ち尽くした。このまま帰ろうかと考えたが、意を決し、信号を渡ってマンションに近づいた。コンビニエンスストアの横に階段があり、上に上がると、防火扉のようなドアに会社名が書かれたパネルが貼ってあった。電話した会社がそこだとわかると、ためらいもなくインタホンを鳴らした。若い、どこか力の抜けた声が出ると、名前を告げた。しばらくしてドアが開き、ショートカットの、背の高い女性が出てきた。言われるまま中に入ると、狭いフロアにびっしりと並んだコンピュータが見えた。一人の男が悟に近づき、挨拶をした。そして業務内容を説明すると言って、コンピュータのある席に座るよう促した。観たこともないような、業務用と思われるコンピュータは小さく唸っていて、モニターには見慣れない色鮮やかな絵が映っていた。
 男性社員はモニターを見せながらどんな作業をするのか、そしてその仕事でどんなものが出来るのかを説明し、一枚の小さく、緑色の板を見せた。
「これが電化製品なんかに入ってる基板というやつ。この基板に細かい銅の線が走ってるでしょう? これがこのコンピュータを使って作製するパターンと呼ばれるものなんだ」
 更に説明は続いたが、悟は困惑した。確かに基板というものは中学時代の技術で見たこともある。しかしそれよりも何倍も細かく、ついている部品も小さかった。およそ文系出身の人間には理解しろというのが無理のような気がした。未経験者歓迎とあったが、どうも自分には無理かもしれないと、悟は諦めようと思い始めた。質問はないかと聞かれ、何を聞いていいかもわからず、曖昧に返事をした。
「あの、本当に未経験者でも出来るんでしょうか?」
「大丈夫。電気の知識がなくても、研修すれば出来るようになるよ。それにウチの会社は半分以上が未経験者だしね」
 笑いながら答える男性社員に、それ以上の質問も思い浮かばず、はあと気の抜けた返事しか出なかった。その後、社員に案内され、社長室に入った。それほど上質ではない、革のソファに体格の良い、スーツを着た四十代ぐらいの男性が座っていた。向かいに座り、履歴書を渡した。
「私、専務の菊田と言います」
「あ、鳥越悟です。よろしくお願いいたします」
 菊田は履歴書をじっと見つめたまま、無言であった。悟は間がもたないと思いつつも、何を話してよいかもわからず、ただ口が開くのを待っていた。菊田は履歴書をテーブルに置き、悟を見てにこっと笑った。そして仕事の内容は理解したかと質問してきた。
「半分以上はわかりませんでした」
「そうでしょうね。未経験の方にはどんなものか、理解出来ないでしょうね」
 菊田は悟の職歴を聞いてきた。一つ一つ丁寧に答え、悟は少し考えたあと、コピー機の修理をしていたころ、上司との喧嘩でやめたことを素直に話した。話し終わった後、悟は話すべきではなかったなと後悔した。なぜ自分は喧嘩して辞めた事を言ってしまったのだろうか。友部に会ったからだろうか。それとも望みのなさそうな職場で、自棄になってしまったのだろうか。自分の行動に、胸の内で舌打ちしながら、ついて出た言葉の落下点を考えた。それはどう考えても不採用というものであった。
 菊田を見ると、顔に笑みを浮かべたまま、悟を見ていた。
「正直な人ですねえ。喧嘩ですか。いや、結構結構」
 そういって給料の金額提示をしてきた。未経験と年齢を考えると、最初はこの金額だと説明し、どうですかと聞かれた。提示された金額は今のアルバイトより少なかったが、それでも雇ってもらえるなら文句はいえなかった。
「大丈夫です」
「ところで、鳥越さんはギャンブル好きですか?」
 ふいの質問に虚をつかれ、悟は聞き返した。菊田はもう一度言い、麻雀や競馬などはやらないのかと繰り返した。ギャンブルの習慣はないと答えると、菊田は頷いた。
「実はですね」
 リラックスしてくださいと促し、菊田は少しネクタイを緩めた。垂れた前髪をなぜつけ、煙草をくわえ、悟にも薦めた。面接だし、なにかのテストかと警戒し、悟は煙草を辞退した。
「面接は鳥越さんで最後なんです。今まで三十人近くの面接をしました。その中から四人だけ採用しようと考えています」
 警戒心を持ったまま、悟は頷くだけで、菊田の少しあどけない笑顔を見つめた。
「それほど大きな会社ではありませんから、三十人もくれば大盛況です。そのうちの四人だけですから面接を受ける方からすれば、難関でしょう」
「不景気ですから、厳しいですね」
 恐る恐る相槌を打つと、菊田は煙草の灰を、クリスタルカットの灰皿に落とすと、履歴書をもう一度見た。
「本来なら後日ご連絡をするのですが、鳥越さん、あなたは特別です。採用ですよ」
「えっ?」
「四人のうちの一人に決めました。そのお給料でよろしければ、来てください」
 悟はなんと返事をしていいのか、判断出来ず、固まった。菊田は笑顔のまま、もう一度、来ていただけますか? と聞いてきた。
「あの、一つ質問があります」
「なんでしょうか?」
「なぜこの場で、僕だけが即採用なんでしょうか?」
 菊田は短くなった煙草を、灰皿ですり消し、身を乗り出した。
「真面目だからです」
「は?」
「今まで面接をした人たちの中で、一番真面目だからです。これが理由です」
 翌月から来る事に同意し、深く頭を下げて事務所を出ても、悟はキツネにつままれた気分であった。確かに喉から手が出るほど欲しかった就職が決まったが、あまりにあっさりと決まったせいか、実感がない。しかも採用理由が真面目だからという、およそ採用条件になるには心許ないものであったのも要因があった。菊田や説明をしてくれた男性社員を見る限り、怪しい会社ではなさそうだが、悟はどうも素直に喜べなかった。バス停に立ち、時刻表を眺めると、あと十分は来ない。煙草をくわえて、チラリと今いた場所を見やった。煙草に火をつけ、毎日ここに通い、あの階段を駆け登る自分の姿が見えた。それは現実味を帯びて迫って来、悟の中で微かな喜びと充実感が芽生えてきた。自分の中で欠けていた歯車がようやく一枚、新品のものに交換され、少しだけ動きはじめ、新鮮な空気を送り込まれたような感覚を、悟は久しぶりに味わったような気がした。自分自身に何かお祝いをしたくなり、時計を見やりまだ来ないバスに見切りをつけると、後ろにある和菓子屋のドアを開けた。

「へえ、就職決まったんだ」
 作業員がひしめく昼の食堂で、悟は就職が決まり、今月で辞めることを説明した。瀬野はメンチカツを一口食べて、じゃあ寂しくなるわねとつけ足した。下川も牧本も口を揃えて残念がり、どうしてまた急に就職をしようとしたのかと聞いてきた。
「少し熱い風呂に入りたくなったんです」
 悟はそばつゆを飲み干し、爪楊枝をくわえた。
「僕はぬるま湯のままでいいけどなあ」
 茶をすすり、煙草をふかしながら牧本は腕を組んだ。アンタは早く熱い湯に入ったほうがいいわよ、と瀬野にあしらわれ、照れ笑いを浮かべた。下川も相槌を打ったが、でもなかなか出れないんだよなあと呟いた。
「あそこのピット、居心地良いしね」
 休憩所に戻り、悟は漫画雑誌を適当にめくり、時間を潰した。ここを辞めると決めた時から、ここで起きることすべてが億劫になり、次の行動にばかり気をとられている。雑誌から顔を上げ、窓の外を見やる。窓から見えるいつもの寂しい裸木は、いつしか緑色の生命力を点在させていた。その向こうに見える山も、くすみが取れたように青く見えている。もうすぐ春が来る。そして俺はここから出て行く。大きな渦巻のような、倦怠と、惰性から逃げ出すのだ。佐野も、赤澤もいなくなった。それぞれの倦怠、惰性、臆病の心を抱えながらも、ここから出て行った。つまずいて、転んで、すりむいた傷を大事に抱え込んで、最後まで走りきる事を放擲した小学生のように駄々をこねた日々。何も出来ずにおどおどと過ごした日々。しかし、悟はそれを後悔などしなかった。久美子も、福原も、コウジも、久保典子も、正俊も。そんな俺をどう思うだろうか。
 悟は雑誌を書棚に放り、休憩所を出た。そしてトイレで用を足し、静まり返った作業場を横切り、電気の消えた薄寒い地下に降りた。防寒着を羽織り、パイプ椅子に腰を降ろすと、悟は天井を仰ぎ見た。トタン屋根のそこここから漏れさす陽光は、濁った灰色の地下をうっすらと照らしている。もし、また何かあったとき、俺はもしかしたらここに戻ってくるかもしれないな。悟はそう考え、背凭れに体を預け、目を閉じた。オイルとペンキと、汚水、そして錆びた鉄の匂いの充満した、この一五〇センチの地下は、悟の心を表現した場所であった。ここから俺は何を見て、何を感じてきたのか。そしてそれは得であったのか、損であったのか。静寂の中で、そんな思考が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。そして赤澤のあのジッポーライターが、福原の寂しげな笑みが、コウジのスパゲティをすする顔が、友部の歪んだ口元が、そして久美子の憐れみを持った瞳が浮かんだ。ゆっくりと目を開け、悟は立ち上がった。
「得なわけないか」
 そう呟いた声は始業のベルにかき消され、悟は帽子を目深に被り、ヒーターのスイッチを入れた。
 いつものように仕事が終わり、いつものような気怠い終礼が終わると、悟はいつもと違い、真っ直ぐに主任の元に向かった。就職が決まり、今月の二十日にアルバイトを辞めたいという意向を伝えた。主任は残念そうな表情を見せ、口をヘの字に曲げて小さく頷いた。
「そうか、いい年だものな。就職決まったのなら仕方ない」
 深く頭を下げ、今までお世話になりましたと挨拶をすると、悟は駆け足で更衣室に向かった。着替えをすませ、食堂に行くと、皆ぐったりと椅子に凭れかかって、煙草をふかしていた。缶コーヒーを買うと、椅子に座った。
「主任に話したの?」
 下川の問いに、悟は頷き、了解を得たと説明した。
「でも寂しくなっちゃいますよ」
 牧本は口を尖らせ、しきりにそう言った。
「まあ、アルバイトだから、仕方ないよなあ」
 下川はそう言い、俺も就職考えようかなあと呟いた。牧本は煙草を吸いながら、不満の表情で悟を見つめている。悟は缶コーヒーを一気に飲み干すと、それじゃあ、今日は用事があるのでと席を立ち上がった。食堂を出る際に、背後から伸びきった声で誰かが
「あーあ、やりてぇなぁー」と唸っていた。

 携帯電話は留守番の応答メッセージを繰り返すばかりで、コウジを捕まえることを諦めた。多分仕事の帰りに、久保典子と食事でもしているのだろうと思い、悟は溜息をついた。正俊は残業で遅くなるという電話をかけてきていて、家には母親と悟だけであった。出前のそばをすすったあと、悟は福原に電話をしようかと一瞬考えたが、結局やめた。仕方なく、一人でドライブにでも行こうと決めた。ソファに座ってテレビを眺めている母親に出掛けることを伝え、外に出た。冷気が支配している車内に乗り込み、エンジンをかけた。くうくうとか細く唸り、心許ない点火音が聞こえると、カンカンは眠たげに目を覚ました。シートベルトを装着し、渋いシフトを一速に入れ、ゆっくりと発進させた。大通りの信号待ちの時、どこを走ろうかと考えたが、どうも不安定なエンジン音が気になり、結局開発途中のニュータウンに向かう事にした。
 少し煽り気味にアクセルを踏みながら、悟はお前とは、もうすぐお別れだなと囁いた。思えば色んな所に連れて行ってくれたな。何度も道に迷ったし、坂道じゃ何台も追い抜かれたな。でもお前、よく頑張ったよなあ。騙し騙し、よくついてきたよな。走らせながら、悟はそう囁き続けた。
「新しいご主人は、若い女だから、良かったよなあ」
 悟はそう囁くと、車通りの少ない、道に入り、人工的な光の群れを一望できる場所に車を止めた。窓を少し開け、煙草に火をつけると、目の前に広がる蒼黒い闇を見やった。人が本当に住んでいるかどうかもわからない、作為的に造られた住宅地はあの女子大生が言ったように、まさしく海のようであった。
「お前、ここにいると本当に頼りない小舟だな」
 そう呟いて、ハンドルを軽く叩くと、悟は毎日ここで元気に走れよと囁いた。
 周囲には喧騒もなく、か細い、眠たげなエンジン音が聞こえるだけであった。温くなった缶コーヒーをすすった時、急に車体が震えたと思うと、すとんと活動をやめてしまった。悟は周囲を見渡し、自分以外の人間を探したが、誰もおらず、ひっそりとしていた。舌打ちし、外に出てボンネットを開けた。そしてキイを捻ってみたが、エンジンは愚図るだけで目覚めようとはしなかった。
「おいおい、拗ねるなよなあ」
 悟はそう一人ごち、途方に暮れた。誰を呼ぼうにもここに来てくれそうな友人は思い浮かばない。コウジは免許を持っていないし、正俊は女子大生といるだろう。その女子大生の家はここから遠いし、電話も知らない。悟は公衆電話を探したが、周囲には見つからず、舌打ちを何度もした。大通りまで歩き、汗をかきながら公衆電話を探し出すと、携帯電話の番号を押した。
「もしもし、サトルか?」
 受話器の向こうからコウジの声が聞こえ、悟は安堵の溜息を漏らした。
「留守電聞いて、家に電話したら出掛けてるっていうからさ」
「お前の言うように、携帯電話を持つようにするよ」
 苦笑混じりにそう言うと、今車が故障して、にっちもさっちもいかないのだと説明した。受話器の向こうでコウジは小さく笑うと、何処にいるのかと聞いてきた。正確な場所を教えると、コウジはわかったと言ってすぐに迎えに行くと答えた。
「来るって、お前、車乗れないじゃないか」
「大丈夫だよ。久保さんが車持ってる。今から彼女に連絡して、一緒にそこに行くから」
 多分一時間ぐらいかかると言うと、コウジは電話を切った。悟は溜息をつくと、カンカンの場所に戻ろうとした。
「よく考えたらロードサービスに電話してもらえば良かったのか」
 そうつぶやいて、もう一度公衆電話に向かおうとしたが、面倒くさくなり、戻るのをやめた。カンカンに戻り、ためしにもう一度キイをひねったが何も起きず、悟は仕方なく、ボンネットの上に乗って、煙草をふかした。
 澄み渡った夜気は汗をかいた悟に心地よく、白く人工的な灯も心地良かった。悟は胡坐をかき、改めて夜景を見やりながら、物流管理センターを思い返した。今まであの広大な工場の一角の、小さな小さな、アリの巣のような一五〇センチの地下にいた自分が、ひどく昔のことのように思えた。少しも愛着の湧かなかった食堂も、盛大な軋み音がする鉄の扉も、錆びて歪んだ階段の手すりも、味気もない、灰色のトタンも色あせていった。
 暗い闇に点在する、目に沁みるような人工灯の広がる夜景は、悟の中で海というよりも様々な生き物が潜む惑星を散りばめた銀河のようなものに見えてきた。惑星には友部も、赤澤も、福原も、正俊も、コウジも、久美子もひっそりと溶け込んでいる。そしてその銀河はふいに大きな渦を巻くよう蠢きだし、ゆっくりと、大きく廻り始めた。その中心に一際大きな灯が明滅して、渦はそこを目指して廻っているように見えた。じっとその光景を凝視していると、あの暗い一五〇センチの地下から溢れてくる、悟に対する不平不満を孕ませ、怒りにも似た熱を帯びてとぐろを捲いた湿って淀んだ空気が重なった。澄み切っていた灯や闇もいつしか粒子の荒い、濁った景色になり、渦は次第に大きく広がり始めた。悟はその渦に吸い込まれそうになり、慌てて上半身を反らし、手に力をいれた。そして我に返り周囲を見回してみたが、そこは銀河の中で、悟は小さな、壊れかけた衛星に乗ってさまよう漂流者であった。





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