一五〇センチの地下 第十六回   浅井 清孝
霧が立ちこめたような、すっきりしない頭を抱えながら、悟は頭上を通りすぎていく車を眺めた。クラクションが頭を刺し、その度に苦々しい表情で立ち上がって作業をこなした。
「これが最後っス」
 頭上から新入りの牧本の声がした。
「あんまり大きな声出すなよ。響くんだ」
 しかめっ面で答えると、牧本はニヤニヤ笑ってすいませんと大声で言った。
「鳥越君、今日はお酒クサイね」
 珍しいといった表情で、瀬野がモップを持ってきた。這い上がってくると悟は帽子を脱ぎ、頭を掻いた。牧本からモップを受け取り、ラインの清掃を始めた。
「鳥越サン、俺大分上手くなったでしょ?」
 悟の後を追ってきた牧本はそう言って床を拭き始めた。赤澤の後釜として来た牧本は大学四年を留年していて、大学生特有のアルバイトに対するすれた意識を持っていた。時間にルーズで、連絡もなく休むこともあった。主任は何度も叱ったが、意にも介さず繰り返していた。悟はそんな牧本を特別イヤだとは思わなかった。仕事さえキチンとしてくれれば、他がどうであろうと何も期待してなかった。所詮はアルバイトで、相手は学生という世間知らずなのだ。そう割り切っていた。
「まあ大分ね。でもムラがあってやりにくい事もあるな」
 悟はそう言うと床を拭き上げ、首を鳴らした。牧本は頑張りますと元気に返事をして、鼻歌を歌いながらモップを動かした。
 掃除が終わると、これから講習をするので会議室に行くようにと主任から説明があぅた。下川たちは口々になんの講習か話をしていたが、悟は溜息を漏らして、トイレに入った。会議室に入り、一番後ろの席につくと部長が出てきてラインの現状を説明し始めた。
 不況の為に点検する台数も少なく、三時までには終わってしまい、無駄な時間が増えてしまう。その時間を有効に活用するために点検方法の見直しをし、点検内容を改善することになった。そう言うと部長の後についで課長が書類を読み、点検方法の変更箇所を読み上げた。
 現在ラインの上廻り点検でホイールのナットはハンマーで緩みの確認を行っていたが、それを全てトルクレンチでの増締めにする。下廻りはピットに二人入り、各部のナットをレンチで点検。搬入は変更なし。
「一番ワリを喰うのは上かあ」
 横に座っていた下川が小さく呟いた。確かにナットを増締めするとなるとかなり時間がかかる。しかしそれよりも悟は下回りが二人になることに不快感を感じた。仕事中に誰に気兼ねすることなく作業に没頭出来る空間を邪魔されると思うとウンザリした。
「でもさあ、下が二人になると、二ラインで二人増やさないと行けないんだろ? どうするんだ?」
 講習は短時間で終わり、明日より実験的に点検作業の変更を導入していく事になった。「とりあえず俺ともう一人、関山を入れる」
 主任はそう説明し、明日からちょっとキツイかもしれないと言った。
「なんだか面倒なことになったな」
 食堂でコーヒーをすすりながら下川はぼやいた。悟は苦笑するだけで、何も答えなかった。牧本は俺が一番大変だよおと愚痴をこぼしながら煙草を吸う。
「ちょっと寄る所があるんで、お先に失礼します」
 悟はそう言うと立ち上がった。じゃあ、俺もと言って下川も立ち上がった。牧本は搬入のバイトたちにカードに誘われて、仲間に入った。
「アイツ、あんまり良くないだろ?」
 食堂を出ると下川が小声で言った。社員の中であまり評判が良くないのだと言われて、悟は曖昧に返事をした。
「お疲れさま」
 正門の場所で事務所の女子社員が二人で歩いていて、二人に声をかけてきた。下川は笑顔で応じ、悟は小さく頷いた。あの日以来、下川と瀬野の間で女子社員の話題は出てこなかったが、時折髪の短い女性は悟にも挨拶をするようになっていた。
「今度、あの子の前でアキナって言ってみようか?」
 正門を出ると下川が言う。悟は苦笑し、どうなっても知らないですよと答えた。
 鶴見に向かう下川と別れ、コンビニで就職情報誌をめくった。載ってる会社はどれも先日買ったものと同じで、これといって目新しさもなかった。溜息をついて雑誌を書架に戻し、煙草を買い求めて外に出た。バスの停留所に向かい、時刻表を見る。もうすぐバスが来ることを確認すると長椅子に腰かけた。
 ラインの作業が見直され、ピット作業が二人になる事が決定するのであれば、俺はあそこのアルバイトを辞めよう。就職口も見つからないのに辞めるのも不安があった。しかししばらくはのんびりと、車の頭金にと貯めていた貯金で暮らすのも悪くはない。悟はそう考え、明日の様子を見てから辞める時期を決めようと思い、バスに乗り込んだ。
 駅に向かうバスの中で、まだ酒の抜けきらない悟は気分が悪くなり、仕方なく途中下車した。大きく深呼吸をし、自販機でコーラを買い、一口飲んだ。寒空の中で缶を持つ手は急速に冷たくなり、二口ほど飲んで捨ててしまった。またバスに乗るのも億劫だし、歩いて帰るのも面倒で、悟はバス停の前で十分ほど立ち尽くし、車の往来をボンヤリ眺めていた。目の前の路肩にブルーメタリックの二ドアクーペが止まり、クラクションを鳴らした。悟は煙草をくわえて周囲を見回したが、誰もいない。なぜあの車はクラクションを鳴らしているのかとぼんやりと考えた。するとウィンドウがするすると開き、一人の男が遠慮気味に顔を出した。
「サトル、何してるんだ?」
 顔を出した男は福原であった。悟は顔がわかると、口端を少し上げ、苦々しい笑みを浮かべた。福原はそれを見て、困惑の表情で、もし良かったら送ろうかと言った。車が来ない事を確認すると、悟は通りを横切って福原の車に近寄った。
「オレに声をかけるなんて、良い度胸だな」
 悟は助手席に誰も乗っていないのを確認し、助手席側のドアを開けた。福原は曖昧な表情を見せると、小さくそうだな、とつぶやいた。助手席に体を預け、シートベルトを着けると悟は腕を組んだ。乗ったものの、何を話していいかわからず、黙っていた。それは福原も同じらしく、何か言いたげにチラチラと視線を感じた。
「今日は休みなのか?」
 悟はぶっきらぼうに言った。有給をとって、これから遠出でもしようかと考えているのだと福原は話した。
「随分と呑気なもんなんだな。二人で旅行だなんて」
 久美子とドライブに行く、これからの福原を思い描き、腹を立てた悟は厭味を利かせて言った。信号で止まると小さくかぶりを振って、一人で行くのだと答えた。
「遠慮なんかするなよ。二人で行くんだろ?」
「違う。ホントに一人なんだよ」
 久美子は二週間も休みを取れるほど暇ではないし、自分は一人になりたいのだ。そう話し、悟を見やった。その目はどこか虚ろで、瞳は微かに濁って見えた。気のない返事を返したものの、その目が気になり、何を話したほうがいいかと考え始めた。
「少し、疲れたんだ」
 正面を見たまま、そう呟いた。オレはなんてみっともない男かと思いつつも、福原の姿に同情をし初めていた。一体何に疲れたのか。仕事か、生活にか、久美子にか。それを聞こうとしても、口には出せなかった。かわりに何処に行くのかと聞くとさあ、どこに行くかなと他人事のような答えが帰ってきた。息が詰まりそうな沈黙が、密閉した空間に充満したまま、車は家の前に着いた。福原は何か言いたげに口を開きかけたが、また口を噤み、力ない笑みを浮かべた。悟は少し待ってろと念を押し、車を降りて急いで部屋から何枚かのCDを手に取った。なるべく派手なロックのCDを選び、自販機でホットコーヒーを二本買い求め、運転席に突き出した。
「どうせ長い旅行になるんだろう? これ持ってけ。それと、送ってもらったお礼だ」
 福原は呆気に取られたような表情を見せたあと、ぱっと笑顔を見せた。CDとコーヒーを受け取ると、小さく頭を下げた。
「CDは返さなくていいからな」
 どうせ捨てちまおうと考えてたモノだからくれてやる。そう言うと福原に背を向けて煙草をくわえた。
「なあ、サトル」
 福原の声を背中越しに聞きながら、返事をする。しばらくの沈黙のあと、柔らかい声が聞こえてきた。
「ありがとう」
 走り去って行く車の音を聞きながら、煙草に火をつけ、苦笑してみせる。
「全くオレはお人好しの馬鹿野郎だな」
 遠くなった音の方角を見やると、そうつぶやき、福原と、自分を憐れんだ。


つづく




第十五回へ   TOPへ   第十七回へ