一五〇センチの地下 第十五回   浅井 清孝
 夕食を済ませたあと、コウジに電話してドライブでも行かないかと誘った。コウジは二つ返事で賛成した。悟はダウンジャケットを羽織り、キーを取り、車に乗り込んだ。エンジンはか細く唸り、時折ブルブルと車体を揺らした。ゆっくりと走り出し、コウジの家に向かった。
「ちょっと行きたいところがあるんだよ」
 ひとしきり走り、会話も一区切りした時、悟はそう言った。コウジはどこでもいいよと返事をし、行く前にコンビニがあったら寄ってほしいと言った。
「小腹が空いちゃってさ。お前なんか欲しいものあるか?」
 閑散としたニュータウンに続く一本道の途中にある、広く駐車スペースを設けたコンビニをみつけて止めるとコウジは降りる際に聞いてきた。煙草を頼み、ホルダーにあった空き缶を捨ててくれと頼み、シートに体を凭れかけた。十台は停められるであろう駐車場には他の車はなく、店内もコウジだけが見えるだけであった。
「何そんなに買い込んで来たんだ?」
 大きな袋を持って戻ってきたコウジを見て呆れながら呟いた。夜食だよと笑いながらシートにどかっと座ると、さあ行こうと笑った。
 コンビニエンスストアからさほど遠くない所にあの工事現場はあった。前に来た時よりも囲いは大きく、そして高くなっていた。バスの停留所のスペースに車を停めると悟はダウンジャケットを羽織り、ここなんだと出るよう催促した。コウジは訝しげに工事現場を見やると車を降りた。
 道路側の囲いを回り込むと鉄板を敷きつめただけの現場が見えた。小さなブルドーザーが隅に置いてあり、足場を組む太いパイプがあるだけであった。
「下地のならしを終えたばっかりみたいだな」
 コウジはそっと中を覗き、そう言った。そしてこの中に入るのか? と囁いた。
「いや、このすぐ裏手に陸橋に上がる階段があってな。そこの階段べり」
 悟はコウジを誘導しながら歩き、そう説明した。陸橋へ上がる階段は工事現場の囲いと雑木林に囲まれていて、雑音はしないしこちらの声も響かないのだと説明した。ひんやりとしたコンクリートに腰を降ろすと、ジーンズを通して冷たさが伝わってくる。コウジは冷たいなあと言いながらも腰をおろし、ビニール袋を開けた。
「でも風は吹き込んでこないんだな。案外寒くない」
 袋からホットコーヒーと煙草を取り出すと悟に手渡した。
「なんだよ、それ。ケーキ?」
「そ。苺のミルフィーユ」
 悟の呆れた表情を見やりながら、コウジはケーキを頬張り、うまいなあと舌鼓を打った。そんな姿がおかしくて悟は笑った。
「なあ、オレにはないのかよ」
「なんだよ、欲しかったら欲しいっていやあ良かったじゃないか。言われないものは買ってないぜ」
 わざとらしく舌打ちをして、コーヒーをすすった。
「そういえばあれからあのカノジョとはなんにもなかったのか?」
 駅前の喫茶店で出会った、久保典子のキレイな顔立ちを思い出した。コウジは気のない返事をしてミルフィーユを頬張った。
「なんだよ、随分と冷めた反応だな」
「そりゃフラれたんだからなあ。それに」
「それに?」
 コウジはコーヒーをすすり、ビニール袋からマロンケーキを取り出した。
「百年の恋も冷める出来事があったんだよ」
 そう言ってマロンケーキを悟に手渡した。
「彼女にだけ携帯の電話番号を教えたんだよ。そうしたら何故か同僚からかかってきてびっくりしたんだ。なんで知ってるんだって聞いたら久保さんが教えてくれたって」
「そりゃ、久保さんに内緒だよって言わなきゃ、彼女みんなに教えちゃうよ」
 甘いだけで栗の味もしないケーキを頬張り、コーヒーをすすると悟はたいした事じゃないだろう? と言った。
「でもさあ、普通他人の電話番号をほいほい教えるかい? なんだかそういうの嫌いなんだよ、オレ。それだけの事なんだろうけどさ、オレはイヤになっちゃうんだよね」
「女に教える方がいけないんだよ。女っていうのはそういう秘密事って出来ないように出来てるんだから」
 そして残ったケーキを全部口に放り込むとくつくつと笑った。コウジは口を尖らせてなんだよ、その笑いはと肘で小突いた。
「いや、トロくて穏やかな里中君が意外に神経質なんだなと」
「ウソつけ。そんなこと、百も承知のクセして」
「そう嘘。笑ったのはお前が携帯電話なんてものを持って、意中の人にしか教えなかったっていうことの方が可笑しくってね」
 コウジの持っているビニール袋を取り上げ、ポテトチップスを取り出した。封を開け、一枚くわえると袋を返した。
「サトルも携帯でも持ったらどうだ? 結構便利なんだ」
 そんなもの要らないよ。悟はそう言って煙草をくわえた。
「なんだか縛られてる感じがするんだよ。オレはそういうの嫌い」
「なあ、お前さ、お前の方はどうなんだよ」
 ポテトチップスをかじりながらコウジは思い出したように聞いてきた。何がと聞き返すとお前は彼女とか作らないのかと言った。
「当分はいいや。ウンザリするほどつまらない話を延々聞かされたり、観たくもない安っぽい映画を見せられたり、つまらん事で喧嘩して神経をすり減らして、妥協したり頷いたり。挙句の果てに人の信用を平気で裏切るようなことを仕出かされるなんざ、ゴメンだね」
「最後のは嫌味だな」
「ちょっとな。ま、それにいつまでもアルバイトでいるわけにもいかないから就職活動もしたいしな。自分の事で一杯だな」
 就職する気になったのか。コウジはそうつぶやいて、ポテトチップスの袋を悟に渡すとまたケーキを取り出してかじった。
「どこか見つかったか?」
 その問いに首を振り、就職口はあるにはあるがどれもやりたいと思える職種ではないと説明をした。コウジは空を仰いで、前にやっていた職種はどうなのだと聞いてきた。コピー機の修理の仕事はメーカーでない限りやりたいとは思わない。下請けに行けばまたあのような事になるかもしれない。
「前の職場には戻りにくいものな。女にフラれて自棄になってやめたから」
「その話訂正するよ」
 苦笑し、その後考えてみて、仕事に嫌気がさしたのが本当の理由なのだと言った。コウジはそうかというだけでケーキを食べつづけた。
「なあ、サトル」
「うん?」
「おまえ社会人に戻るべきだよ。お前出世するタイプなんだからさ」
 コウジはそう言うと寒いからもう帰ろうと悟を促した。残ったコーヒーを飲み干すと、立ち上がり、指についた油をジーンズにこすって拭いた。

 ベッドに潜り込んでみたが目は冴えていて、悟は何度も寝返りを打った。それでも寝つけず、仕方なく起き上がると煙草に火をつけて時計を見た。
「ちえっ、もう1時じゃねえか」
 そう一人ごちると、ごそごそとベッドから這い出して椅子に体を凭れかけた。放り投げていた就職誌を手に取り、パラパラと眺めた。静まり返った部屋の中には雑誌をめくる音と煙草のチリチリと焼けて行く音だけが聞こえる。その中で自分は赤澤のような人間になりたくはないと思っていながら、実は自分は赤澤よりも不自由で、だらしのない人間である事を思った。追いかけもしなく、そして今のままでの生活に満足している。
 本当は久美子を追いかけたいし、今の職場をすぐに辞めて緊張感のある職場に行きたかった。しかしいつの間にか臆病になり、自分を主張することもなくなり、胸を反らす事もなくなってしまった。謙遜や穏やかとは表現しにくい、性格になってしまった。今の自分を適切に表現できる言葉はただ一つ。
「臆病者だよな」
 悟は雑誌をめくる手を止めてつぶやいた。そして煙草を消すと一階のリビングに行った。
リビングには電気が灯っていて、正俊がソファに凭れてテレビを眺めていた。
「どうした? 寝れないのか?」
 悟に気がつくと正俊は体を起こして微笑んだ。ちょっと寝つかれないからビールでも飲もうかと思ったと言い、冷蔵庫を開けた。
「ビールなら俺が飲んじゃったよ」
 正俊はそう言ってビールで満たされているグラスを見せた。小さく舌打ちすると悟は冷蔵庫を閉めて棚からウィスキーの瓶を取り出した。
「それは俺が買ってきたビールだぜ。罰としてこのウィスキー、一杯頂くぞ」
 グラスにロックアイスを入れ、並々と注いだ。そして指で軽く混ぜると一口飲んだ。
「今日、あの工事現場に行ってきた」
 正俊はアテにしていたスルメを悟に薦めると最近行ってないのだと答えた。もう本格的に工事がはじまって、あの場所は四方を壁や樹などで囲まれてしまったのだと悟は説明した。スルメをかじりながら正俊は頷き、もうあそこには行けなくなったなと呟き、ビールを飲んだ。
「あそこのすぐ裏に小さいアパートあっただろう? あそこに女子大生が一人住んでるんだ。その子に会いたくて通っていたようなもんさ」
 正俊の言葉に驚き、その女性はどんな容姿で性格なのかと聞いた。正俊は小さく笑うと東京の美術大に通っている三年生で、油絵を専攻してるそうだと言った。
「へえ、前にあそこでボンヤリするのが好きなんだってしか言わなかったじゃないか」
「全部話すわけないだろ、いくら家族だってよ」
 ビールを飲み干すと正俊はそのグラスにウィスキーを注いで、生のまま飲んだ。
「あの近くに仕事で行った時に偶然会ったんだよ、彼女にね。変わったやつでね、俺が喫茶店でコーヒー飲んでたらいきなり俺の目の前に座って『スケッチさせて』って言った。呆気に取られて返事出来なかった。そんなの気にしないでスケッチブック開いて描き始めたんだ」
 それでちょっと興味を持ってあれこれ話しているうちに彼女のアパートに行ったのだと話した。悟はウィスキーを飲み干し、今度は半分ほどにして、水で割った。
「それからちょくちょくそこに通った。それだけだ」
「それだけって、もう行かないのか?」
 悟の問いにただ黙って頷き、空けたグラスにまた琥珀の液体を注ぎ、湯で割った。
「疲れたんだよな。神経がね」
 悟はその呟きを聞きながら、あの時のガソリンスタンドでの正俊を思い出した。
「頭の中は変でいいんだよ。それが芸術家ってもんだからな。でも社会的行動や常識にも変じゃ一流にはなれやしないし、周りの奴も疲れちまうんだ」
 そう言うと最後のスルメをかじりながら笑った。悟はウィスキーを舐めるように飲み、煙草に火を点けた。
「ま、そういう事があったんだ」
 正俊はウィスキーを飲むと冷蔵庫から漬け物を出してきた。そしてきゅうりのぬか漬けをかじりながら、でもあそこから見える夜空はキレイだったと呟いた。悟は今日コウジと二人で仰いだ夜空も透き通っていて、鮮やかな星の輝きが見えたことを思い返した。
「おまえ、明日仕事じゃないのか?」
 またウィスキーを注いでいる悟を見やって、正俊は呆れ顔で瓶を取り上げた。
「ああ、そうだけど。ま、いいよ。アルバイトだしな」
「こいつ、そんなスイスイ飲みやがって。この酒、高いんだぞ」
「飲まなきゃ価値ないだろう? 今日空けちゃっても、一月かけて空けてもおんなじだよ」
 そう言うとウィスキーを飲み、白菜の漬け物を食べた。正俊はふん、と鼻を鳴らすと、ウィスキーの瓶を置いた。
「空けちまうか」


つづく




第十四回へ   TOPへ  第十六回へ