一五〇センチの地下 第十四回   浅井 清孝


 そんな悟のわき腹をこづき、下川は小さい声で耳打ちをした。
「鳥越君に気があるみたいなんだぜ」
 それを聞いて悟は小さく笑い、そりゃあないでしょうね、と否定した。いつもツンとすまし、挨拶もろくにしないのに想像出来ない。もし仮にそうだとしても、そんな女性とはお付き合いしたいとは思わないだろう。そう説明すると下川はそうかなぁとつぶやいた。
「でも気になるんじゃないの?」
「そりゃあ、男ですからねえ」
 三時まで待機するようにという指示が伝わり、作業員は各々会議室や事務所に向かった。小用を済ませ、手を洗っていると赤澤に声をかけられた。
「もしかしたらこのままバイト、やめるかもしれないんだよね」
 並んで手を洗いながら、父親の病状がかなり悪いのだと説明し、そうつぶやいた。食堂に誘ってみたが、赤澤は首を振り、事務所にいってくるからと言い残して反対方向に歩きだした。その背中をしばらく眺め、食堂に向かった。
 食堂は搬入のアルバイト数人と下川と瀬野がいた。自販機でホットコーヒーを買うと下川の横に腰を降ろし、煙草をくわえた。
「やっぱりさあ、気があるんじゃないかなあ」
 ゆっくりと煙を吐く悟に下川は腕を組んでそう言った。
「いきなりなんですか?」
「いや、さっきの件」
「何? なんの話?」
 身を乗り出して瀬野は会話に入ってくる。下川はかいつまんで説明し、同意を求めた。首をかしげ、天井を仰ぐと瀬野は確かに思い当たる節はあるのだと独り言のように言った。
「何、その思い当たる節っていうのは」
 昼の休憩時間の時、上司や下川と話している時でも時折こちらを見ているときがある。その時はたいてい鳥越君が私たちの近くに座っているときなのだ。
「んなバカな。気のせいっスよ」
 長くなった灰を灰皿になすりつけて落とすと、苦笑してみせた。
「なんならさりげなく探ってあげようか?」
 瀬野がそういうと下川がそうしてよ、と相槌を打った。勝手に盛り上がる二人を苦々しく思いながら、コーヒーをすすった。
 三時になり、作業場に戻るとそのまま清掃をして仕事は終わりになった。終業の挨拶の時、明日から三日ほど赤澤は休みになるという説明があった。下川たちが赤澤に声をかけたが、笑みをうかべるだけで詳しいことは説明しなかった。
 着替えをすませ、作業着を洗濯箱に放り投げ、食堂に行くと搬入たちがトランプに興じていた。悟が来たのを見やると、一人が一緒にやらないかと誘ってきた。なんのゲームをしているのかと聞くと大貧民をしていると答えてきた。
「金はかけてないんだろう?」
 搬入のリーダーは首を振り、金をかけたら今頃オレは破産してるよと笑った。これといって用事もないからいいかと思い、了承した。リーダーは素早くカードをシャッフルし、手札を配りながらルールの確認をした。配られた札を見ながら、悟は皆の名前を聞いた。
「オレは佐山。こいつが堀越、そいつが高橋、であいつが手塚」
 リーダー、佐山はそう説明するとじゃあはじめようかと声をかけた。
「あれ、珍しいね」
 着替えた下川が悟を見つけるとそう言っていつもの席に座った。一緒にどうかと堀越が誘ったが、首を振って辞退した。
 一ゲーム終わってみると悟はいきなり大富豪になった。大貧民になった佐山はしきりに悔しがり、テーブルを叩いた。
「こういうのはね、コツがあるんだよ」
 何度やっても悟のひとり勝ちになるので、手塚が感心しているのを見て悟はそう言って笑った。佐山はどういうコツなのかさかんに聞いてきたが、悟は適当にはぐらかし、疲れたから降りるよと言った。
「勝ち逃げだよ」
 高橋がおどけた口調でそういうと、搬入のバイトたちは笑ってそうだそうだと囃し立てた。席を立つと、その横で見ていた佐野がじゃあ、オレが入るよと言って席を移動した。それを横目で見やると、悟は下川の横に腰を降ろした。
「鳥越君、頭の回転が速いんだなあ」
 カードの組み方が臨機応変に出来て、なおかつ相手の手札の読みが速いのだと下川は後ろから見ていてわかったという。悟は煙草をくわえたまま、自販機でコーラを買うと喉に流し込んだ。圧のきつい炭酸が喉を刺激し、心地よかった。佐野の悔しがる声を聞いて振り返ると、佐山は嬉しそうな顔をして悟に向かって親指を立てた。
「じゃあ、僕はこれで帰ります」
 くわえた煙草に火をつけないまま、立ち上がり、下川と佐野たちに挨拶をすると食堂を後にした。廊下に出てロッカールームを覗いてみたが、そこにはもう赤澤の姿はなかった。

 横殴りに吹きつけてくる風に顔をしかめながら駅から歩いている途中、悟は近所の人に挨拶された。ペコリと頭を下げるだけで、歩を止めずに家路に向かった。
「風がひどいよ」
 目をこすりながら居間に入ると雑誌をテーブルに放り投げた。コートを脱ぎ、洗面所で顔を洗い、うがいをした。
「どうしたんだ? 就職情報誌なんて買ってきちゃって」
 居間に戻ると正俊は雑誌をパラパラとめくりながら言った。ソファに体を沈みこませると煙草に火をつけ、正俊の手から雑誌を取り上げた。
「いつまでもアルバイトしてる訳にはいかねえだろう」
 そう言うと目次を開き、地域エリアの項目を眺めた。
「あの工場で働いてもう何ヶ月になる?」
「三ヶ月だよ」
 目的のページを開きながら答える。十月から始めた地下生活も年を越した。年末、赤澤はそのまま仕事を辞めた。一月早々には佐野が就職と同時に辞めた。新しいアルバイトも入ってきて、ラインは昔と変わらない、正確無比な歯車に戻った。
「結構ワリのいいアルバイトだって言ってたじゃないか」
 正俊の問いかけに曖昧に返事をし、ページをめくる。掲載されている会社はどこも未経験者を優遇するところはなく、すぐにでも入れそうで、高給をうたっているのはどこも営業職であった。煙と一緒に短く溜息を吐くと悟は雑誌を閉じて立ち上がった。
「ボーナスな」
「うん?」
 コーヒーをいれながらつぶやいた言葉を正俊は聞き返した。アルバイトでも賞与の日には寸志が出る。それを見たときに急に仕事を続けて行く気力が萎えたのだと説明した。
「やっぱりボーナスがほしいもんなあ」
 そういって笑う正俊に、そういう意味ではないということを言おうとしてやめた。そして曖昧に笑った。あの虚しさを表現することは悟にはひどく難しく、無意味なものに思え、説明をしなかった。
 自分の部屋に戻り、ベッドにうつ伏せに寝そべると、棚に置いてある鈍く光るジッポーを眺めながら赤澤が辞めた日を思い出した。
 週が明けても瀬野と悟のラインに赤澤は戻って来なかった。主任には月曜には顔を出すと言っていたらしかったが、昼を過ぎても連絡はなかった。こちらから電話をかけても留守電になっているだけで、連絡のとりようがないと主任は苦り切った表情でぼやいた。ラインが止まり、待機になるとまだ一日目だし、明日には連絡を入れてくるかもしれないし、急にまた実家に戻ってしまったのかもしれないとラインのメンバーで話していた。
 結局次の日の朝、赤澤は電話でアルバイトを辞めるということを告げただけで悟たちの前から姿を消した。主任には詳しい事情を話したらしいのだが誰一人聞こうとはしなかった。悟はどうしてそのような辞め方をしたのか知りたいという気持ちがあったが、それを聞いたところでどうなるというのだろうかという考えが行動を鈍らせた。その日の夜、コンビニエンスストアに行く途中、赤澤のアパートの前を通ったが、電気は点いていなかった。しかし週末、突然赤澤から電話が入った。慌てて所在を聞くと近所のコンビニの公衆電話でかけていると言った。外に出ると赤澤は背を丸めて電柱によりかかってカンコーヒーを飲んでいた。
「どうしたんスか? 急にやめちゃうし」
「うん、実家に帰ることに決めたんだ」
 赤澤は白い息を吐いてそう言うと頭を掻いた。そしてごめんねえ、いきなり辞めちゃってと謝った。
「ミュージシャンになる夢、どうしちゃうんスか?」
 悟の問いに赤澤は苦笑するばかりで何も答えなかった。聞いても無意味なことだとわかっていたくせに、あれこれと質問をしたいという衝動に駆られたが、その沈黙ですべてがわかってしまい、それ以上聞く事が出来なかった。
「火はつかなかったよ」
 そうつぶやくと赤澤は煙草をくわえ、コートからジッポーを取り出した。街灯の白い明かりを鈍く反射させているジッポーを指で撫でた。かきんと乾いた音を響かせて蓋が開いた。
「あっ・・・・・・」
 鈍い音と共に鮮やかな炎が周囲を紅く染めた。チリチリと燃える音がすると火は消えた。
「彼女にね、会いに行くことにしたの」
 赤澤はそう言うとジッポーに視線を落とし、ゆっくりと煙を吐いた。紫煙は二人の周囲にまとわりつくように漂い、消えた。
「いつ出発するんスか」
「うん、明日ね」
 悟も煙草をくわえると、ジッポーを借りて火をつけ、ゆっくりと吸い込んだ。
「それ、あげる。鳥越君にはお世話になっちゃったからさ」
 悟からジッポーを返されることを固辞し、そう言うと煙草を捨てた。何も言わずにジッポーをジーンズのポケットにねじ込むと頭を下げた。
「じゃあ、元気でね」
「赤澤さんも」
 赤澤は最後ににっこりと笑うと手を振って小走りで帰っていった。悟はその背を丸めて走っていく後ろ姿をじっと見つめたまま、ポケットに手を突っ込み、ジッポーを握り締めた。
「これが現実だよなあ」
 ベッドで仰向けに寝返ると、そう呟いた。アパートには今も空き部屋有りという看板が出たままで、誰も入っていない。コンビニに行く度にそのいつまでも明かりが点かない部屋を見上げ、煙草に火をつけるのであった。
 火はつかなかった。
 車も買う前に売れてしまった。
 あれから何も起こらないし、変化もない。
 そんな状況に疲れるわけでもなく、居心地が良い場所でただ働いていた。
「何が寸志だ。バカにしやがって」
 そう吐き捨てるように言うと、また就職情報誌を広げた。もう辞めよう。久美子は戻ってこないし、赤澤も実家に戻った。何も残らない日々と別れてしまおう。悟はそう何度も呪文のようにつぶやいた。

つづく



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