一五〇センチの地下 第十三回 浅井 清孝
いつものように昼食をすませ、休憩所に行くと、下川が事務所の女子社員と談笑していた。悟は赤澤の横に腰をおろし、雑誌を適当にめくりはじめると、下川が右隣に座り、声をかけてきた。
「この前さあ、ここの社員の益子さんとフウゾクにいったんだよ」
悟はコーヒーをすすり、相槌を打った。益子は三十才独身のメーカー社員で、バイトである悟たちによくしてくれている男であった。風俗店に行くのが趣味のような人で、時間が空くと下川や佐野とその話で盛り上がっていた。
「益子さんがいいっていうからツルミの店に行ったらさ、お店の女の子にここの女子社員にスゲエそっくりな子がいたんだよ」
下川はそう小声でいうと、チラッと事務所に目を向けた。悟もそっと事務所を覗き、様子を窺った。
ここの事務所にはメーカーの女子事務員が二人おり、下請けのバイト連中にはツンとすました態度を取っている。佐野も赤澤もあいつらバカにしてやがるんだよなあとぼやいていたのを知っている。大手に勤めている人間特有の、鼻につく態度を取っているが、下川にだけは愛想がいい。多分彼が良い顔立ちだからよと佐野たちに笑いながら瀬野が言っていた。悟は別段興味もなく、ハナから相手にされていないのもわかっていたので知らんふりをしていたのだ。
「どっちの子に似てたんですか?」
「あっちの髪の長い子」
少しきつめの化粧をしていて、髪の長い女子事務員の方の名前を言うと、下川は本人だったりしてなと囁き、笑った。
「下川さん指名したんじゃないですか?」
「いやあ、他の客に指名されてたよ。オレは別のやつ」
ふうんと頷き、小さく笑うともう一度事務所の方を覗き見た。事務所で社員と話してケラケラ笑っている髪の長い女子社員が見えた。もし、仮に本人だったと言われてもおかしくないよな。悟はそう思いながら下川に軽口を叩いてみせた。
「彼女の前で何気なく源氏名いってみたらどうです?」
「ハッとしたりしてね」
「だとしたら本人ですねえ」
悟は相槌を打ち、下川と声を押し殺して笑いあった。
始業ベルが鳴り響き、冷え切ってしまった作業場に戻ると、悟は帽子を目深にかぶり直し、ヒーターのスイッチを入れた。四方から車のエンジンをかける音が響き、クラクションが鳴った。
「午後は一分半のペースに落とすね」
ボルトを叩いていると瀬野が上から声をかけてくる。悟は間延びした返事をし、チェックのペイントをした。リフトを降ろす時、センターの作業場に書類を持ってきたもう一人の女子社員が見えた。髪は短く、背もそれほど高くはない。髪の長い方よりも顔立ちには田舎娘のようなあか抜けない色が残っている。彼女が風俗にいるほうがまだビックリするだろうな。悟はそんなくだらないことを考え、一人でくだらねえなあと小さくつぶやき笑ってみせた。椅子に腰かけ、車の下回りを眺めながら、悟は昨日聞いていたロックを口ずさんだ。
クラクションが鳴り、車が悟の上を走って行く。ガラガラと安い鉄板の響く音がピットの中に響き渡る。そしてまた一台、悟を閉じ込めるかのように車が入ってくる。少しでも空気を吸おうと蓋をこじあける虫のようにリフトのスイッチをいれる。車はじたばたともがく動物のようにタイヤを左右に振る。
単調な仕事。しかし、それでもいいんだ。ここはオレを受け入れてくれる場所なのだ。暖かくも、冷たくもない、この場所からオレはまた始めるんだ。火なんてつきやしない。車が変わったから何かが変わるわけじゃない。だましてまで金儲けするのも悪くなんかない。
オレはただ黙ってハンマーを片手に持ち、リズムを取ってボルトを叩く。
休憩時間を知らせるチャイムが響き渡ると、悟は帽子を取り、ヒーターを止めると地上に上がった。トイレで用を足し、手を洗い、休憩室に足を向けた。
「なあ、鳥越」
主任が小走りで来て、一枚の小さな紙を手渡した。そこには小さな文字で病院名と電話番号が書かれていた。
「上に上がるんだろ? これ赤澤に渡してやってくれよ。で至急そこに電話しろって伝えてくれ」
イヤな胸騒ぎを感じながら、悟は頷き、休憩室に入った。
暖房の熱気が充満した休憩室の隅の椅子に座って煙草をふかしている赤澤を見つけ、悟は紙を渡して主任の伝言を伝えた。チラッと紙を見た赤澤の表情が一瞬曇り、礼を言って階下に降りていった。それを見送ったあと、悟は椅子に座って煙草をくわえた。
「赤澤、何かあったの?」
下川の問いに悟は曖昧な笑みを浮かべてさあと答えるだけであった。
休憩も終わり、ラインに戻ると、赤澤がもう車に乗りこんでいた。
「なんかあったんスか?」
気になって声をかけると、力なく笑い、親父がね倒れちゃったんだよね、とつぶやくように答えた。悟は状況はどうなのか、戻らなくてはいけないのではないかと心配をした。赤澤はこくこくと頷くだけで、何の返答もしなかった。
「時間だよ」
そう促され、渋々ピットに潜り込んだが、悟は赤澤の顔色の失せた顔を見やり、もしかしたらこのまま辞めてしまうかもしれないなと考えた。
車が三台流れた時、主任がラインに来て、赤澤に何かを話しかけている様子が見えた。悟は盗み見ながら作業を進めていると、主任が困った表情をしているのが見えた。そしてリフトを降ろすと同時に主任が事務所に戻るのが見えた。
「赤澤君、何かあったの?」
瀬野が覗きこんでくると、悟はさあと首をすくめた。
「主任の声、聞こえました?」
瀬野は首を横に振り、ちらりと赤澤の方を見やった。
クラクションが鳴り、次の車が入ってくると、悟はリフトを上げ、点検を始めた。後ろを見やるとそこには車の姿はなく、赤澤と搬入のバイトが雑談をしているのが見えた。もう今日の台数はさばいてしまったらしく、搬入も悟と目が会うと、にっこりと笑った。
「もう無いの?」
チェックのペイントをしながら聞くと、搬入はもうないんだと答えた。悟はリフトを降ろすとヒーターのスイッチを切り、車とのわずかの隙間から身をよじらせて上に出た。赤澤は帽子を指に突っかけてくるくると回しながら天井を見やっていた。そばに行き、かぶっていた帽子を取ると主任と何を話していたのかを聞いてみた。明日、実家に戻ることと数日ほど休ませてもらうことをお願いしたのだと答え、寂しく笑った。
工場内は車の音よりも雑談の声が響き、皆伸びをしたり、道具を片付けたりしていた。反対のラインから下川がこちらに手を振っているのを見つけると、瀬野が悟を呼んだ。
「なんか鳥越君のこと呼んでるよ」
反対側のラインで手を振っている下川に自分の顔を指差すと、大きく頷いたのが見えた。悟は中央のブースを横切り、反対側のラインに小走りで向かった。
「どうしたんスか?」
連れられて作業場の隅に行くと、下川は小声で髪の短い事務員のコを知ってるかときいてきた。悟が頷くの待って、周囲を見渡してから口を開いた。
「彼女がさ、さっき来て、鳥越君のこと聞いてったんだよ」
「はあ」
それが一体どういうことなのか、皆目見当もつかず、悟は訝しげに返事をした。
つづく
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