一五〇センチの地下 第十二回   浅井 清孝


 本屋に立ち寄り、家に帰ると正俊の姿はなかった。悟は何も言わずに夕食を済ませ、ソファに凭れかかり、テレビを眺めた。今ごろコウジのやつ、上手くやってるのかな。そんなことを考え、しどろもどろしている姿を想像した。
「サトル、ちょっと電話出て」
 食後の眠気が襲ってきた頃、電話のベルが鳴った。後片づけをしていた母が食器を乾燥機に入れながら言った。渋々起き上がり、受話器を取ると、電話の主は正俊であった。
「どうしたの?」
 微かに聞こえてくる車の通り過ぎる音を聞きながら、悟は尋ねた。正俊はちょっと迎えに来てほしいのだと早い口調で答えた。どこにいるのかを聞くと、この前の場所にいて、バスがなくなってしまったのだと説明した。時計の針は九時で、もうバスがねえのかよと呟いてみせた。正俊はタクシーもつかまらないから困っていると苦笑した。悟はすぐに迎えに行くけど、二十分はかかると説明し、受話器をおいた。
「ちょっとアニキ拾ってくるよ」
 仕事の出先で交通手段がなくて困っていると電話があったと説明し、悟は車のキーを持って外に出た。昼間の熱をすっかり放出してしまったアスファルトは逆に冷たい夜気を吸い込んでいて、足元からも寒さが伝わってくる。背中を丸め、車に乗り込むと、悟は暖房を最大にして始動した。
「わっ!」
 エンジンをかけ、車を出そうとした瞬間、ヘッドライトの光の中に男が立っているのを見て、悟は思わず声を上げてしまった。
「サトル、どこか出掛けるのか?」
 立っていた男はコウジであった。沈んだ声で窓を開けた悟に話しかけてきた。
「今からニュータウンの方にアニキを迎えに行くんだけど・・・・・・。それよりお前なんでこんなところにいるんだ?」
 今ごろは彼女を家に送り届けている頃だと思っていた悟はコウジの暗い表情を見て、フラれたなと感じた。
「なら送ってくれよ。途中だし」
 返事をする前にコウジは助手席のドアを開けて乗り込んできた。悟は仕方なしにシートベルトだけはしろよと忠告して、車を発進させた。走り始めるとコウジは深く溜息をつき、天井を仰いだ。その溜息のつきかたがわざとらしく、悟は自分から声をかけるのはやめようと考えた。
「なあ、悟」
「あン?」
「フラれた」
「そいつはご愁傷さま」
「ちぇ、それでもトモダチかよ」
「そのつもりだけどな」
 悟は込み上げてきた笑いをこらえながら、何食わぬ表情をして受け答えした。コウジはむすっとした口調で、喫茶店でお前があんなこと聞くから警戒しちまったんだとなじりはじめた。
「そりゃ、八つ当たりだ」
「いいや、ゼッタイそうだ」
「じゃあお前、いいセンいってると思ってたのかよ」
「いいや、全然」
 そこで急にコウジは笑い出し、そりゃあねえよなあとおどけた口調でいった。悟もつい吹き出し、笑った。
「言葉のあやってやつなのかなあ、彼女、本当は彼氏がいるのにいないって言っちゃったって電車の中で言うんだよ。オレ困っちゃったよ」
「じゃあ、送っただけなんだ?」
「いや、食事しようって誘った後だからさ、食べないわけいかないだろう?」
 そりゃそうか。悟はまた笑い、カーステレオのスイッチを入れ、カセットをドアポケットから一本出すとデッキに差し込んだ。小さい音量でロックのビートが刻まれる。それを聞いて、コウジが膝を叩いてリズムを取った。
「懐かしい曲だなあ」
 コウジはそう呟いて、悟に煙草を一本くれよと催促した。
「おまえ煙草吸わないだろうに」
「いいんだよ、フラれた友達の言うことに逆らうなよ」
 胸ポケットから煙草を出し、コウジに渡し、シガーソケットを押した。窓を開けると冷たい風が勢いよく巻き込んできて、車内は急激に寒くなった。咳き込みながら煙草を吸うコウジを見て、悟も煙草をくわえ、ハンドルを叩いてリズムを取った。
「高校を思い出すなあ」
 コウジはそう言って、大声でテープにあわせて歌い始めた。
「おい、住宅地なんだからもっと静かにしろよ」
「うるせえ、オレの美声を聞かせてやるんだ」
 普段はおっとりとしているクセに、わめきやがって。よっぽど堪えたんだな。悟はそう思いながら、外れた音程で歌う友人の横顔を眺めた。
「良かったよ」
「何が?」
 マンションの前に着き、車を止め、悟は首をかしげた。さっきまで大騒ぎをしていたコウジはゆったりとした笑みを浮かべて悟を見やった。
「お前元気がなかったから、心配だったんだ」
 これをきっかけに昔の悟に戻ったみたいで良かったよ。コウジはそう言って大きく伸びをし、首をコキコキと小気味良く鳴らした。
「フラれたのは予想外だったけどな」
 そう言うと笑い、コウジは車を降りた。
「元気出せよな、サトル」
「お前もな」
 二人は笑い合い、またなと言って高校時代のように別れた。コウジが見えなくなるまで悟は心がゆっくりとほぐれていく余韻に浸り、車を発進させた。
 いつから自分はこんなにも臆病になってしまったのだろうか。そして不平不満を言い募り、誰も信用しなくなってしまったのか。
 正俊を迎えに行く車中で悟は煙草をくわえたまま、火をつけずに考えた。
 裏切りも、失恋も理由としては不十分だ。そんなもので揺らぐほどの心のいたらなさの方が実は問題なのだ。きっかけに過ぎないものに目を向け、そこに理由を求めていた。人間はいつもそこで立ち止まり、苦悩し、負けたと錯覚してしまう。感傷に浸ったところで自分は気が楽になるだけで、安定した土台とはなりえない。負けることに慣れ、試合を放棄した人間が、勝利を掴めるはずがないのだ。
「若いからだよ」
 コウジが話していた新潟での話を思い出し、悟はそうつぶやいた。そう、自分は他人に何もかもなすりつけたりするほど若かった。若さとは武器だ。しかし、それを履き違えて、その特権を行使してはいけないのだ、とある本に書いてあったな。窓を開け、車内にこもった自身の気怠さを追い出そうとした。

「悪かったなあ、助かった」
 あの工事現場に着くと、正俊は背を丸めて車に早足で近づき、ほっとした表情でそう言った。そして暖かい缶コーヒーを差し出した。それを受け取り、助手席に乗るよう促すと、悟は缶を開けた。
「ああ、あったかい」
 正俊は笑いながら吹き出し口に手を当て、盛んにこすりあわせた。バスがなくなるまで何をしてたんだと悟が聞いても、正俊は今日が休日ダイヤであったのを忘れていたと電話で言っていた理由を繰り返すだけであった。疲労の影がこびりついた横顔を見ながら、それ以上詮索もせず、缶コーヒーだけじゃ足りねえよと笑ってみせた。
「ああ、わかったよ。ガソリン代、出してやるよ。どこかのスタンドに入れよ」
 正俊はこめかみを指で揉みながら、悟に指示した。
「疲れた・・・・・・」
 緩い坂を滑って行く、静寂の車内の中で、正俊はそう呟いた。
「なあ、悟」
「あン?」
「お前、アルバイト続けるつもりか?」
 頬杖をつき、気怠そうにネクタイを緩めると、正俊は一つ溜息をついた。悟はまあ、当分はと答え、煙草に火をつけ、窓を開けた。正俊はそうか、とだけ呟き、それ以上は何も言わずただ窓の風景だけを追っていた。
 いきつけのガソリンスタンドに着くと、悟はガソリン満タンとタイヤの空気圧のチェックを頼んだ。手際はいいが愛想のないアルバイトにキーを渡すと、悟と正俊は店内に入った。
「あの車、新しくしないのか?」
 椅子に腰かけ、正俊は大きく欠伸をした。悟は自販機で煙草を買うと横に腰かけた。窓からは白々しいほどの明かりの下で、くすんだ色の自分の車が余計に貧弱に見える。
「なんで?」
「さっきも変な音してたろ? この前だってバッテリー上がったって言ってたし」
「うん、考えてはいるけどさ」
「少しくらいなら融資してやるぞ」
 二人して頬杖をついてテキパキと作業をする、車にはりついたアルバイトを眺める。
「もっとこう、華のある車にしたらどうだ?」
「なんだよ、あの車だっていいじゃないか」
「カンカンは愛嬌はあるんだけど、ちょっと華が足りないんだよな」
 正俊はそう言うと小さく笑い、愛嬌はあるんだよなと繰り返した。
 店員が来ると正俊は言われた金額を支払い、悟に合図した。車に乗り込むと正俊はぬるくなってしまったカンコーヒーをすすった。
「若さの特権っていう車だよなあ」
 正俊のその言葉は誰に言うふうもなく、少し開いた窓から煙草の煙と一緒に抜けていった。

つづく


第十一回へ  第十三回