一五〇センチの地下 第十七回 浅井 清孝
一五〇センチの地下に静寂は戻って来る気配は感じられず、もうすぐ一週間が過ぎようとしていた。一緒に入っている関口の、ぼそぼそと聞こえる、くだらない女の話は耳ざわりであった。適当に相槌を打ち、ナットを締めつけるのが馬鹿らしく思えてきた。上廻りの牧本は車から降りるたびに舌打ちをし、その顔には不満がありありと出ていた。瀬野の休憩の合図を聞くと、ヒーターのスイッチを切り、リフトを降ろした。地上に出るとピットに収まりきらず、溢れた車がコンベアラインに並んでいる。
「こんな効率の悪い作業、あったもんじゃないよ」
作業ピットから、益子が苦笑混じりで声をかけてきた。悟も苦笑を返し、小さく肩をすくめた。食堂では下川も愚痴をこぼし、せめて下に入る人間はアルバイトにしてほしいよなと言った。牧本も不平を漏らし、帰りにアルバイト情報誌を買おうかと口を尖らせた。
「鳥越君も不満なんじゃない?」
瀬野が話しかけてきて、悟は茶をすすりながら首をかしげた。
「これといった作業の不満はないですよ」
「関口のおっさんの相手が面倒クサイだろう?」
下川は声を潜めて、そう言った。悟はただ苦笑をしてみせ、煙草を吸った。
食堂から出て、休憩室に向かう途中、前から二人の女子社員が歩いてくるのが見えた。下川はチラッと悟を見やり、悪戯っぽい笑みを見せた。すれ違いざま、下川は悟に風俗の店にいたアキナがさあと言った。二人がこちらを向き、目が合ってしまい、悟はバツが悪くて愛想笑いを見せた。下川も無反応だったのを見ると、ぺろっと舌を出した。
始業十分前にトイレで用を済ませ、地下に入ろうとした時、髪の長い女子社員に呼び止められた。怪訝に思いながら返事をすると、目には怒りの色があった。
「さっきの、どういう意味?」
何を言われているのか見当もつかず、聞き返すと、睨みながら同じ言葉を繰り返した。
「あの、何のことですか?」
自分が何かしたのか考えてみたが、思い当たる事はすれ違いざまの下川の悪戯だけであった。しかし悟は愛想笑いをしただけで、何の悪意もなかった。
「最低」
女子社員はそう言うと、ぷいと悟の前を小走りで通り過ぎた。
「なんなんだよ、あの女」
怒りをぶつけられ、最低と罵られる理由もわからない。ひどく侮辱された気分で、悟は無性に腹が立ち、壁を蹴り飛ばした。オレが何をしたというのだ。ただ愛想笑いを浮かべただけだし、下川もアキナと言っただけだ。何をそんなに怒るのだろう。悟は口を尖らせ、下川が降りてくるのを待った。
「えっ、そんなこと言ったの?」
降りてきた下川にさっきの出来事を話すと、自分は何もいわれなかったと答えた。下川が何かを言おうと口を開いたとき、始業のベルが鳴ってしまった。悟は慌ててピットを横切り、地下に滑り込んだ。
「なんかあったのか?」
ニヤニヤと笑いながら関山が話しかけてきた。苦笑して別にとかえすだけで、悟は作業に没頭した。
その日の点検が終わったのは定時の五時であった。ラインの点検方法が変わったことによって時間がかかり、昼過ぎや三時といった時間には終わらなくなっていた。ぐったりとした体を食堂の椅子に凭れかけると、悟は煙草をくわえ、溜息をついた。外はもう暗く、窓から見える水銀灯が眩しく、輝いている。悟はもうすぐ送迎バスが来るころだと思い、火もつけずに立ち上がった。
「あれ、もう帰りっすか?」
体を揺らしながら、のそのそと入ってきた牧本が声をかけてきた。悟は力なく笑い、お先に、と答えた。外に出ると正門前にはもうバスが止まっていて、何人かの社員たちが乗り込むのが見えた。階段を降り、小走りに向かうと、バスはエンジンを唸らせた。悟が乗り込むとバスはクラクションを鳴らして動き出した。車内には十人程度の社員が疲れ切った表情で、椅子に潜り込むように座り、窓の外を眺めている。中ほどの空いている席に座り、コートを脱ぐと、溜息を一つついた。ゆっくりと流れる景色を見やりながら、ふと福原の顔が浮かんだ。一体今頃は何処にいるのだろうか。渡したCDをかけながら、ただひたすらに見知らぬ土地の、見知らぬ道を走っている福原の姿は、今の悟にとっては羨ましいほどの光を放っていた。
「オレも、どこかに、行きたいよ」
窓の外の、見飽きてしまった風景に薄く重なる自分の顔を見ながら、そうつぶやいてみせた。ふらりと出掛けてしまった福原に、久美子はきっとやきもきしていることだろう。実家にかけても、何処にいるかを親にも教えていないはずだ。久美子は一晩中電話とにらめっこをして、何をいってやろうかと思案しているに違いない。そう思うと悟の中で福原に対する同情の念と、尊敬の念が生まれてきた。どんなに優しくしようとも、人はそれよりも多くの優しさを求めようとする。それに応えれば応えるほど、男の中にはいやな疲れが蓄積されていく。それがある一定量を越えたとき、それを吐き出したり、溶かそうとしたがるのだ。それが出来るのは誰でもない。ただ一人になることでのみ、解消出来るものなのだ。多分久美子はそれをわかるまい。オレよりも広くて深い優しさを持った福原でさえ、そうなる。久美子は待ってやれるだろうか。福原が元の福原に戻るまで、ただじっと待っているだろうか。
バスが駅前に到着し、軋みながらドアが開いた。悟はコートを持ち、バスを降りると冷たい夜気が体を包んだ。それでも数日前よりも確かに冷たさは和らいでいて、もうすぐ春が近づいているのだということを感じた。そのまま家に戻るのも億劫で、悟はコウジが久保典子に会わせた喫茶店で少しぼうっとしようと決め、駅ビルの階段を上がった。暖かいというよりも、暑いくらいに暖房の利いた店内に入ると、悟は一番奥のテーブルに座った。コーヒーを注文し、煙草をコートから出そうとした時、何気なく上げた視線の先に、久保典子が座っているのが見えた。髪は幾分伸び、眼鏡をかけていたが、悟はひと目で久保であることがわかった。本を読んでいる事に集中していて、気がついていないらしく、悟は今のうちに店を出ようかと考えた。腰を浮かせようとした矢先にウェイトレスが注文を取りに来てしまい、仕方なくコーヒーを注文すると久保が顔を上げ、悟を見て小さく、あっ、と声を出した。
「確か里中君の・・・」
悟は苦笑混じりに挨拶をし、名前を告げた。久保はにこっと笑い、本を閉じた。
「一人ですか?」
「ええ、まあ、待ち合わせの予定もないんで」
少し間をあけてから、そちらの席に移動してもいいかと言ってきた。頭の中でふてくされた表情のコウジが浮かび、困ったなと胸の中でつぶやきながら、断るわけにもいかずに、席を薦めた。久保は本をバッグにしまい、ティーカップを持って、正面に座った。
「偶然ですね」
「そうですね、驚きました」
ウェイトレスの持ってきたコーヒーに砂糖を入れ、かき混ぜながら返事をした。会社帰りに注文していた本を取りに来て、その帰り、ここに立ち寄ったのだとおっとりとした口調で話した。
「アルバイトは続けていらっしゃるんですか?」
「ええ、まあ。ダラダラとやっていますよ」
なんとも歯切れの悪い答え方だと、自分の口調にウンザリしながら、コーヒーをすすった。久保はコウジから悟がいかに真面目で、優秀かを聞かされたのだと説明し、髪にそっと触った。その仕草が久美子のよくやっていた仕草にそっくりで、一瞬表情を曇らせた。
「久保さんはコウジのその話を信じます?」
「里中君の話に、あまり間違いはないって思うんです。それに先日お話しした時に私もそう感じましたから」
小さく笑うと、ティカップに視線を落とした。そしてしばらく眺めたあと、ゆっくりと話し始めた。
「不思議なんですけど、私里中君の言葉なら信じれるんです。仕事の事も、考えも。恋人の言葉より、信じれるんです。誰の言葉も、聞いた時に判断をする時間があるんです。正しいのか、間違いなのか。信用していいのか、いけないのか。でも里中君の話は素直に入ってくるんです」
悟は訝しげに久保の話を聞き始めたが、すぐにその話の意味がわかり、口元が緩んだ。その話す姿、仕草、瞳の輝きも確実に動いている証拠として、充分すぎるほどであった。あの工事現場で見せた、口を尖らせたコウジの姿は、あまりにもわかりやすい態度ではないか。悟は心が軽くなるような気がして、いてもたってもいられなくなった。
「あの久保さん」
「はい?」
会話を遮り、ちょっと電話をかけないといけない用事があるので、中座しても良いかと聞いた。久保はそれなら携帯を使っていいですよと、鞄の中から携帯電話を取り出した。悟はその携帯を借り、ちょっと外でかけてきますと、席を立った。外に出ようとした時、振り返ると、久保はまたティカップを見ながら、小さく足を前後に振っているのが見えた。その横顔に見える小さな微笑を、どうしてもコウジに見せてやりたいなと思いながら、ドアを開けた。すっかり暗くなり、会社帰りのサラリーマンやOLたちでごった返す駅前で、悟はコウジの携帯番号を押した。数回の呼び出し音のあと、トーンの高い、コウジの声が聞こえた。
「もしもし、里中だけど・・・」
「なるほど、コウジは好きな女にはそんな声を出すのか」
えっ、という言葉のあと、絶句しているコウジを笑い、悟は今すぐに駅前の、久保を紹介した喫茶店に来いと言った。電話の向こうのコウジはすねたような口調で別に行かないとぐずった。
「お前なあ、こういう時は素直になれよ。じゃないと後悔しちまうぞ」
それでも小学生の様に愚図るコウジに、もう一度念を押し、来ないと絶交だと脅した。渋々コウジは行くことを了承し、五分後には着くと答えた。
「なんだよお前、どこにいるんだ?」
「今駅に向かって歩いてる」
「先に言えよ」
「だって聞かなかったじゃないか」
そう話しているうちにあの大柄で、見覚えのある男が、悟に向かって歩いてきた。手に持っている携帯電話がやけに小さく見え、いやに神妙な面持ちで悟を見やった。
「へえ、やっぱり携帯って便利なんだな」
電話を切ると、コウジの肩に拳を立て、あの喫茶店に久保典子が来てる、今からお前会ってこいと告げた。コウジは口を尖らせ、もう終わったことだから、余計なことするなよと悟の手を払った。
「彼女の携帯持って、行ってこいよ。お前、想いが通じてるんだぜ。見栄なんてはらないで、行ってこい」
携帯電話を無理矢理持たせ、背中を押した。コウジの目に微かに走った喜びの色を見て、悟は自分の異のように嬉しくなってきた。
「ありがとう、サトル」
小さくそう言うと、コウジは小走りに喫茶店の入口に向かった。その大きな体が見えなくなると、悟は煙草を置いてきてしまった事に気がつき、舌打ちした。
「ま、煙草はいつでも買えるしな」
ベッドに寝転がり、天井をしばらく見つめながら、コウジと久保が楽しそうに話している姿が浮かんできた。のんびり屋で、どこか抜けている。だけどしっかりとした足取りで、地道に自分という城を築き上げているコウジを、ひどく羨ましいと思った。決して自分の想いや、決意を見せることはないが、それは熱い空気となってコウジの周りに漂わせている。それは他者に何かをもたらして行く。コウジと会うと、自分は必ず何かが出来そうな感覚になり、はしゃぎたくなる。しかしあの地下に潜ると、その想いは途端に萎んでいき、淀んだ気分になってしまう。その熱をはらんだ空気をプラスとするならば、その逆のマイナス、だらしなく、緩んだ空気を孕んだ人もいるであろう。プラスもマイナスも、この空間に漂っている。そして人は、必ずどちらかの空気に感染していく。
起き上がり、煙草に火をつけると、悟はゆっくりと煙を吐いた。前へ進みたいと思いながらも、進めないのは自身の臆病さが一番の原因であるのは間違いない。しかし、それに加えてその空気というものも関係しているのではないか。あの工場で働く人間たち全てが、切り開いて行こうとする熱を持ち合わせず、このままで良いという、ただの現状肯定だけを思っているとしたら、その大きな渦に抗うのは至難の技であろう。その空気を吸っていながら、それに対抗しうる熱を持つには、一体どうすれば良いのだろう。さまざまな人間関係や策略や、意地汚い欲望に溢れている会社の中で、コウジはどうしてあんなにも泰然自若としているのか。
「すげえなあ」
悟はそうつぶやき、煙草の灰を灰皿に落とした。コウジは淀み、汚れた空気をも浄化していくほどの熱情や、揺るぎのない信念を持っているのだろう。まさしく熱風と呼ぶにふさわしいその空気は、弛緩し、冷たくなった人を動かして行く力を秘めている。その熱風にずっと触れていれば、自分は何かを成し行く事が出来るのではないか。
溜息を一つもらし、悟は久保典子のあの横顔を思い浮かべた。きっと彼女もそういうコウジを好きになったのだろう。煙草をすり消し、ベッドから這い出て、椅子に座った。そしてまたすぐに煙草をくわえた。
久美子はオレに何をもたらしただろうか。そしてその逆はあったのだろうか。自分は久美子に与えてやらなかったのかもしれない。福原は与えてやっているかもしれない。しかし、その久美子からは悟も福原も、与えてもらうことは少なかったはずだ。あの時の福原はその熱風すらも奪い去られた。そして俺は職場で友部という、空気に感染してしまった。
悟の中で巡って行くその考えは、漠然としながらもつながっていき、確信めいてきた。 時計を見やると、時間は八時を過ぎていた。たった五分も経っていなかったが、その間に巡らされた、その思考はやがて深い感動となり、コウジにいいようのない尊敬の念が湧いてきた。自分の考えをコウジに伝えたくてしょうがなくなって、電話をしようと思ったが、久保といる事を思い出し、舌打ちした。
この脆弱な気持ちを、どうやったら奮い立たせる事が出来るのだろう。どんな空気にもよろめかず、しっかりとした足で立ち上がれるのだろう。悟はそう考え始めた。
「おい、悟、寝ちまったか?」
ドア越しに正俊の声が聞こえた。気の抜けた返事を返すと、正俊はドアを開け、ちょっとドライブに連れてってくれないかと言った。悟はこのまま自分の考えに没頭しようと思っていたが、正俊はいやにしつこく誘い、結局付き合う事にした。
車に乗り込み、心もとないエンジンの目覚めを、二人で息を潜めて聞くと、正俊は煙草を催促した。普段煙草など吸ったことのない正俊は、煙を軽く含んで吐き出した。
「珍しく煙草なんてふかしちゃって、どうしたんだ?」
くわえ煙草で車を動かし、悟は冷やかすように笑った。正俊は神妙な面持ちで煙草を見つめ、何かをつぶやいた。それは加速するエンジンの唸りにかき消され、悟は聞き返した。
「煙草でも吸わなきゃ、捨て鉢になれんさ」
その言葉の意味がわからず、首をかしげたが、それ以上正俊は何も言わず、無心に煙草をふかすだけであった。
「あそこに行ってくれよ」
信号待ちの時、何処に行くかを尋ねると、正俊はそう答えた。あそことは、あの工事現場かと返す。正俊は頷くだけであった。悟は見たこともない、少し風変わりな女子大生を思い浮かべ、一体兄は何をしでかそうとするのかと、じっと前を見つめ、口を噤んでいる横顔を見て心配になった。
工事現場に着くまで、車の中では会話はなく、ただエンジンの唸り声だけが響いていた。車を道路の脇に止めると、正俊はしばらく無言でいたが、ふいに悟に顔を向け、帰ろうと言った。
「はっ?」
突然の言葉に、悟はきょとんとした。今来たばかりなのに、なぜ急に帰ろうとするのか。悟は口をとがらせ、説明しろと腕を組んだ。正俊の顔から緊張が消え、照れ臭そうに笑った。
「実は前に話したことのある、あの女子大生と話がしたくなったんだ。俺はあいつと付き合ってヨレヨレに疲れちまう。けれどあいつはどうだったのか。俺と同じように疲れたのか、それとも疲れてないのか。それを聞いてみたかった。でももういいんだ」
「なんでいいんだよ。聞いてこいよ」
「じゃあ、お前だったら聞くか?」
正俊の問いに、悟は言葉に窮した。確かに自分は聞かないだろう。聞けるのであれば、多分久美子は今も側にいるかもしれない。正俊はもういいんだ、終わったことさとつぶやいた。
「もし仮に戻ったとして、俺は生臭い雑巾のように疲れちまう。ぞっとするよ」
悟はしばらく考えたあと、車を出せよと急かす正俊に、コウジの事、そこから生まれた自分の考えを足りない言葉で話した。正俊はドアに寄りかかるように体をねじって、悟に向かい、頷いたり、天井を仰いだりして聞いていた。なんだか舌足らずな、自身の説明に嫌気がさし、悟は話し終えると溜息を一つついて、窓を少し開けた。少し開いた窓の隙間から、往来のざわめきが聞こえてきた。
「煙草まで吸って決めたんなら、会いに行けよ」
「なんだよ、今の話となんの脈絡もないじゃないか」
正俊は笑って、ポキポキと、小気味のいい音をさせて、両手の指を鳴らした。
「うるせえなあ。行けったら」
エンジンを止め、サイドブレーキをきつく締め、腕を組むと、悟はそっぽを向いた。正俊がアパートに行くまで、絶対にここを動かないと、ふてくされた口調で言った。正俊はくつくつと小さく笑うと、ぴしゃっと膝を叩いた。
「ようし、おれも熱風を漂わせて、あいつに伝えてやろう。コウジ君にあやかってな」
そう言うと正俊は悟の頭をくしゃくしゃと撫でると、ドアを思い切り開けた。微かにしか聞こえてこなかったざわめきが一斉になだれ込み、それは夜気を伴ってきた。悟は小さく身震いすると、早くドアを閉めろとわめいた。
「十分で戻ってくる。それまで、待ってろ」
正俊は窓越しにそう言うと、工事現場の隙間を縫って、歩道橋の脇を駆け上がっていった。その背中を見やりながら、悟は煙草をくわえ、充分に伝わるであろう正俊の熱気を感じた。煙草に火をつけ、背もたれを倒し、狭い車内に沈殿していく煙を見つめる。コウジと、正俊の発した空気は、目的や流れが異質であるにも関らず、同じように自分にも何かが出来そうな予感を運んできている。一体自分はどんな空気を纏い、どんな熱を発散させることが出来るのか。家を出るまで考えていた思考はゆっくりと沈殿した煙の中から立ち昇ってきて、悟の頭を巡りはじめた。
多分それは単純で、自分が考えている答えに間違いはない。巡っていた思考は一つの解答を導き出し、それは間違いないという確信が静かに胸に湧いてきた。短くなった煙草をぎっしり詰まった灰皿にねじ込み、歩道橋に目を向けた。まだ降りてくる気配はなく、冷めきった車内に暖房をかけようとエンジンをかけた。しかし愚図るように唸るだけで、エンジンは目を覚まそうとはしなかった。何度もキイをひねってみたが、目覚めてはくれず、悟は舌打ちして、外に出た。ボンネットを開け、車体を軽く揺すってみたが、バッテリー液は満たされており、コードが外れているふうにも見えなかった。煙草を吸いすぎか、煙が籠っていた車内にいたせいか、喉の奥がひりひりと渇き、悟は周囲に自販機を探した。
「何してるんだ?」
背中越しに、正俊の弾んだ声が聞こえてきた。悟が振り返ると、そこには正俊と、ショートカットで、色の白い女性がいた。表情を曇らせ、車のエンジンがかからなくなったと答え、頭を軽く下げた。正俊はそれに気がつき、後ろに立っている、女性を紹介した。ありふれた名前の女子大生からは、想像していた異質な雰囲気はなく、黒目がちの、うるんだ瞳は穏やかに微笑んでいた。少し照れ臭そうに、悟に挨拶をすると、かわいい車とつぶやいた。歩道橋を上がったところに自販機があると正俊は教えると、悟に千円札をを渡し、カンコーヒーを三本を頼んだ。悟は戻ってくるまで車をいじるなよと念を押し、走って歩道橋をかけ上がった。そこは小高い丘になっていて、まだまばらな住宅の明かりが広がって見えた。すぐ近くに大通りがあるというのに、静かで、ひっそりとしたその住宅地に、うるさく思えるほどの光を発した、自販機が見えた。悟はそこまで行くとカンコーヒーを三本と、コーラを一本買った。熱い缶をダウンジャケットのポケットにねじこみ、痺れるほど冷たいコーラの蓋を開けると、喉に流し込んだ。ひりついた喉に、炭酸の刺激が強く、顔をしかめて半分ほど飲み干すと、悟は 目の前に見える夜景がやけに広い、パノラマ写真のように見えた。そしてその景色を見ながら、友部の事、暮内の事、福原の事、そして久美子の事を思い出した。
「買い替えようかな」
ダンマリを決め込んでいる、薄汚れた色の自分の車を思い返し、そうつぶやいてみせた。残りのコーラを飲み干し、空き缶をゴミ箱に捨てると、歩いて戻った。
カンカンは体を小刻みに振動させて、待っていた。悟は目を細め、運転席から降りてきた女子大生を見やった。悟に気がつくと申し訳なさそうに謝り、勝手にいじった事を詫びた。正俊は缶コーヒーとつり銭を受け取ながら、ちょっとキイをひねったら、簡単に目ざめたのだと答えた。
「かわいい車ですね」
「こいつ、女には甘いんですよ」
悟は時折アイドリングで体を大きく揺するカンカンのボンネットを軽く叩き、笑ってみせた。そして歩道橋の上の、ひっそりとした空間とそこに広がる光景を話した。彼女は頷いて、正俊に微笑んだ。
「なんだか海のようでしたね」
悟がそう言うと、正俊は車が船のように見えるのだと、缶コーヒーをすすりながら答えた。
「さながらコイツは帆のない小舟だね」
悟の言葉に女子大生は微笑み、かわいい小舟、とやわらかく答えた。缶コーヒーを空けてしまうと、正俊はまた明日来るからと言って、車に乗り込もうとした。悟はもう少しここにいて、後でまた迎えに来てやるからと提案したが、彼女も、正俊も笑ってその提案を断った。悟は礼を述べて運転席に乗り込んだ。微かに甘い香りがして、鼻孔をくすぐった。
道を曲がるまで、彼女はずっとこちらを見ていて、小さく手を振っていた。バックミラー越しにそれを見ると、助手席の正俊の腕をつついた。しかし正俊は照れ臭そうにチラッと見ただけで、助手席に身を沈めたままであった。
「これからが大変だね」
ゆっくりと流れる、車の群れを見やりながら、悟はそう呟いた。
「でも俺は頑張るさ」
正俊はそう応えるだけで、それ以上彼女の話をしなかった。その二言のやりとりに、悟はお互い別な意味を含んでいたことに気がついたが、二人は黙ったまま、赤いテールランプの群れについていくように身をまかせた。深い深い、蒼暗い海の中を泳いでいる錯覚の中で、悟はあの住宅地でのつぶやきを実行しようと心に決めた。
(次回最終回)
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