梧桐の存在感は圧倒的だ。嵐のように部屋の空気を乱し、その影響は彼が去った後もなかなか消えない。 だから半屋は、子供が音も立てずに自らの荷物をまとめていたことに気づかなかった。 「何してんだてめぇ!」 気がついたときには八樹は半屋の横をすり抜けてドアを開け、外へ向かって逃げ出していた。 八樹は手に荷物を持っていた。ただ外に出ていっただけではないだろう。 半屋は八樹の後を追った。
生気がないように見えた八樹だったが、その動きは意外にも機敏で、半屋が外に出たときにはもう姿が見えなかった。 八樹の行きそうなところなど見当もつかない。だいたいこれは『家出』ではないのだ。帰ってくるつもりなどないのだろうから、簡単に見つかりそうなところにはいないだろう。
そうは言っても子供の活動範囲は狭い。公園、スーパー、デパート―――行ったことのある場所を中心に探したが、それでもどこにもいない。 他に思いつくのは半屋のところにくる前にいたであろう梧桐の家ぐらいで、しかしそこに行くことは決してないだろう。その前にどこにいたのかはわからない。ただどこも行くところがないという気配は感じていた。
少しずつ範囲を広げながら目に付くところを探す。あの子供は人に頼ることはできないだろうから、それほど遠くに行けはしないだろう。それだけが救いだった。
◇ ◇ ◇
しばらく探し回って、ようやく駅の近くの公園のベンチに、そうすれば姿を消せるかのように体をまるめている八樹を見つけた。 「帰んぞ」 半屋が腕をひっぱると八樹は激しく抵抗した。 「なんで来たの?」 半屋は答えることができない。 探しているうちに梧桐の行動に対する反発は薄れ、この子供に対する責任は自分が負わなくてはいけないのだということがわかった。ただそれだけだった。 「なんで来たんだよ!」 「もう飯の時間だ。帰るぞ」 何で探したのか、自分では結論の出せぬまま、半屋はいやがる八樹を抱き上げた。 「はなして……! はなせよ! シセツにはいるんだ。ヤだ! はなせよ!」 子供はあらん限りの力で半屋に抵抗した。この子供にこんな気概が残っていたとは驚いたが、そりゃあそうだろうな、と妙に冷静な気持ちで半屋は考える。自分を捨てようとした人間の家に帰るなんて自分だったら死んでもゴメンだ。施設の方が遙かにマシだ。 「うるせーよ。帰るってんだろ」 でももうこの子供をどこかに返そうとは思わなかった。
◇ ◇ ◇
一夜明けてもまだ八樹は緊張を解かず、半屋に対して反抗的なままだ。 殴ればこれから先もずっとおとなしくなるんだろうし、なんかうまい言いようもあるのだろうが、そんな気にはなれないので、目障りだったが放っておいた。 「行くぞ」 半屋が出かけるように促すと、どうも『シセツ』に連れて行かれると思ったらしい八樹は、少ない荷物をまとめたが、めんどくさいのでそれも放っておいた。 駅前のスーパーには日用品がそろっている。半屋はとりあえず地味な柄の子供用の茶碗に手を伸ばした。 どうせいなくなると思っていたから、家に八樹用のものなんて何もない。今まではコンビニの割り箸や大きさの合わない半屋の皿で間に合わせていたが、これからはそうもいかない。 「箸は自分で選べ」 八樹は激しい瞳で半屋をにらんだ。 「いらない」 こだわる必要も感じなかったので、半屋はその辺にあった子供用の箸を適当にひっつかんでかごに放り投げた。八樹は再び生硬な声で「いらない」と言ったが、それ以上の反抗はしない。 買い物かごに物を入れるたびに八樹は「いらない」と繰り返した。半屋はそれを無視して会計を済ませ、八樹をつれて家に帰った。
適当に夕飯を作り、さっき買った子供用の食器に入れて八樹の前に並べても、八樹は箸を付けようとしなかった。 「さめんぞ」 「いい」 八樹は昨日から何も食べていない。さすがに水は飲んでいたがそれだけだ。 (ホントいじめやすそーなガキだな) 拒絶するときにだけ意志の強さを発揮して、『命令』には唯々諾々と従う。きっと『命令』をしたら下手な愛想を浮かべてこびへつらってくるのだろう。そしてそれが気持ち悪くてまたいじめられるの繰り返し。 (くらだねー) 食べたければ食べればいいし、食べたくなければ食べなければいい。 半屋は自分だけさっさと食事を終え、それきり八樹のことを考えるのはやめた。
◇ ◇ ◇
次の日、家に八樹を残して半屋は久しぶりに一人で出かけた。八樹は相変わらず半屋の前では朝食にも手をつけなかったが、昨日の夕飯だっていつの間にかわずかに減っていた。これからここで暮らしていくのだと悟ればいいかげん手をつけるだろう。そこまで我を張り通せるほどあの子供は強くない。 (なんか習わせるか) なにか……強くなれることを。事情があるようだから梧桐の道場に通わせるのが手っ取り早い気がしたが、素手での戦いは向いていない気がする。 (剣道か―――) そうだ。あの名前なら剣道が向いている気がする。そこ考えはどこかおかしくて半屋は少し笑った。 コンビニで履歴書を買い、喫茶店で記入した。面接の時間まではまだ一時間ある。 履歴書を書くのは面倒だ。でもあの子供の分も稼ごうと決めたから働かなくてはいけない。 学歴や資格を書き終え、最後の欄で筆が止まる。一服してから一気に書ききった。 『未婚。扶養家族一名』 何か言われるかもしれないが、自分だけがわかっていればいい話だ。半屋はタバコをくわえ、わずかに口を歪めた。
NEXT |